第十四章  ひとつの命が消え、ひとつの希望が始まる、の章

 無理矢理捻り上げられた腕にトワは悲鳴を上げた。
 大事に抱えていた氷からの約束の証が、ポロリと零れ落ち、地面に落ちた衝撃で粉々に砕け散った。
 背中には鉛のように重たい翼。腕はタゴルに掴まれ、不快のただ中に放り込まれた。
「と……わ……」
 氷は混濁した意識の中、必死にトワのスカートの裾を掴んで離さなかったが、タゴルが強引にトワの体を引っ張ったことで、スカートの布地が裂け、氷の腕ごと地面に落ちた。
「ッ……痛ぃッ……ぃや、もう、いや……!!」
 翼の出現に伴う痛みと具合の悪さに付け加えて、今まで感じたことのない刺すような痛みが、トワの心を抉り出そうとしてくる。
 ドクンドクンと激しく心臓が、背中が、頭が、音を鳴らす。
 その痛みにたまりかねて、トワはタゴルの前では決してこぼさずに頑張ってきた言葉と涙を、零した。
 歩くという表現は似つかわしくない。無理矢理引っ張られ、ズルズルと体が引きづられてゆく。
 意識は遠のくのを望むのに、それをタゴルも、体も許してはくれない。
 抵抗も出来ない。体の自由が利かない。
 心の中で、トワは必死に彼の名を呼ぶ。
 他の誰でもない、トワの守護者。トワの愛する……彼の名を。


第一節 守護者


 今まで感じたことのない絶え間ない震動に、ミカナギは眉根を寄せ、唇を噛んだ。
「まさか……」
 嫌な予感に、口の中が乾く。必死に息を飲み込むが、唾液が分泌されないので、喉がクッと音を鳴らしただけだった。
 揺れの収まる様子がないので、ミカナギは痺れを切らし、再び駆け出す。
 その瞬間、トランシーバがビーッビーッとけたたましく音を立てて鳴った。
 トワではない。誰だ? 状況的には、ミズキかハズキだろうか。だが、そんなことはどうでもいい。今は相手をしている時間が惜しい。ミカナギはそれを無視して、一気に虹の塔まで駆け入った。
 足の運びが遅い気がしてならない。
 全力で走っているのに、心の焦りに体はついてこなかった。
 無駄に息が上がり、肩が激しく上下した。
 虹の塔1階。
 冷えた空間に、警備兵が数人倒れており、ちょうどフロアの真ん中には氷が血だらけで横たわっていた。
 氷だけは息があるのだろうか。時折、痙攣するように体が震えていた。
 ミカナギははじめ、それに構わず、エレベータへと向かおうとした。
 最上階。そこにトワがいる。急がなければ、最悪の事態になる。それしか頭にはなかった。
 けれど、搾り出すような氷の声に、足が止まった。
「ぉ……おせぇよ……バカ……」
「…………」
 ツヴァイを壊し、トワを攫った男が、氷の偽者であることを知らないミカナギは、その言葉に対し、沈黙を返した。何を言えばいいのか、それがわからなかったからだ。あるとすれば、ざまーみやがれ、という言葉くらいか。
 氷は必死にもがき、上体を起こす。
「なんで、トワの傍に……いねぇんだよ……いれば、こんなことにならなかったろうが!」
 確かにその通りなのだが、その言葉を不信の相手から言われたことが、ミカナギの怒りに油を注いだ。
 眉間に皺を作り、激昂するミカナギ。
「お前が言えた口かよ!!」
 叫んだ瞬間、右目がゴトリと音を立てた。
 以前にもあった感覚だった。
 ミカナギは右目を押さえて、苦しげに息を漏らす。
 音の後、ミカナギの中から、激しい感情が鎮まるように消えていくように思えた。
 自我が奥底に閉じ込められる感覚。
 目がドクドクと脈打つ。
「う……」
「おい、なんだよ、いきなり……」
 早鐘のように早い数十拍の脈の後、脳の中で、カチリと何かがはまったような気持ちのいい音がした。
 押さえていた右目から手を離し、醒めた表情で、こちらを見上げる氷を見下す。
 氷はその表情に口元を引きつらせた。
 いつものミカナギでないのは、明白。
 だが、氷はそんなミカナギを知っていたから、別段、驚いた様子までは見せなかった。
 以前、機械的な動きで氷を薙ぎ払い、踏みつけた……あの時のミカナギ。
 氷に敗北という名の屈辱を初めて刻み込んだ男の表情。
 ミカナギはゆらりと首を動かし、病的なまでに目を見開いた。
 瞳の赤は、紅玉ではなく、血の色に染まっている。
 声が機械的に発された。
「兎環は……あの子は、上か?」
「……最上階……のはずだ。クソ野郎が連れて……」
 氷は苦しそうに呼吸をしながら、ゆっくりと立ち上がる。
 おそらく、ミカナギと共に上を目指そうとしたのだろう。
 けれど、ミカナギはそんなことにはお構い無しに、スタスタとエレベータへと歩いていく。
「テメ、オレも行く。待ちやがれ……!」
 氷は声だけは威勢よく、けれど、体がついてこないのか、よろよろと1歩1歩、足を前に出すので精一杯のようだった。
 ミカナギは降りてきたエレベータに素速く乗り込み、最上階のボタンと『close』と書かれたボタンをほぼ同時に押した。
「足手まといは要らない。あの子を護るのはオレだ。命に代えても、あの子を護る。そう、約束、したんだ。遠い、昔に」
 氷が頼りなく歩いてくる。決死の思いで手を伸ばすのが見えた。
 けれど、その手が届くことはなく、エレベータの扉は冷たい無機質な音を立てて、閉じられた。
 ミカナギの中のミカナギでない人はポツリと呟く。
「サラ……ようやく、約束を果たす時が、来たようだよ」
と。



第二節  遠い昔、この地にあった国のお話


 今となっては昔のお話。
 この地には、翼を持つ一族を王として崇める、大きな国があった。
 それは本当に気が遠くなるような昔の話なので、その国の存在を信じる者などいなかった。
 けれど、その国の残骸は、今でもこの世界に可愛い伝承として残っている。
 虹のたもとには宝物が埋まっている。
 決して辿り着くことのないその地に宝物、などとは、昔の人は遊び心が過ぎる……と思う者もいるだろうが、プラントにある虹を知る者ならば、その伝承にも得心が行くのではないかと思われる。
 この伝承は、その国が、確かに存在していたことの証なのだ。

「ソル? ソル〜? どこにいるのぉ?」
 少女が1人、泣きそうな顔で、仰々しい王宮の回廊を歩いている。
 年の頃は、11か12か。
 背は低く、体の線も細い。
 だが、そんな華奢な体に似つかわしくない大きな翼がその背にはあった。
 歩くたびにシャラシャラと鳴る衣は良質な絹地で、頭を飾るかんざしは金の拵えが施されている。
 桜色の長い髪は、柔らかくウェーブしており、アメジストを思わせる紫色の瞳は、とてもよく澄んでいた。
「姫様! まだ学習の時間は終わっておりません。お部屋にお戻りください」
 少女を追いかけてきた、文官らしき者が、優しい口調でそう言った。
 しかし、少女はその言葉にぷぅっと頬を膨らませるばかり。
「もう嫌! 今日は朝からずっとお勉強お勉強お勉強! わたし、頭使うの嫌い! 難しいこと大っ嫌い!!」
 少女は癇癪を起こすようにそう叫ぶ。すると、文官は困ったように表情を曇らせるばかりで、それ以上は何も言えないようだった。
 それもそのはず。
 王族に強い物言いが出来る者など、この王宮内にはほとんど存在しない。
 けれど、それが少女の不満や、家臣たち全員への不信感の源になっていることなど、この文官は全く気が付く様子もない。
 だからこそ、余計に少女の心は不機嫌になる。
「ソルに教えてもらいたいわ。ソルのお話はいつでも分かりやすくて、楽しいもの」
「姫様、あのような下賎な生まれの者には、あまり関わりを持たぬが身の為です。何を企んでいるか、わからぬではありませんか」
 文官が眉をひそめてそう言うと、少女の表情が激しく怒りに染まった。
 その表情に文官は怯えるように体を震わせる。
 粗相があれば、この王宮内にはいられない。
 いつでも彼らはそのようなくだらない事ばかりを考え、己の保身のみに手を尽くす。
 それが少女にとっては手に取るように見透かせるので、あまり王宮内の大人とは話をしたくなかった。
「生まれなど関係ないわ。ソルは、最難関と呼ばれる我が国の登用試験を満点でクリアした、優秀な男よ。実力でここにいるの。それなのに、そのような瑣末なことばかり持ち上げてきて、とても不快だわ。他者を貶める暇があるのなら、自身の精進に努めなさい」
「ははっ! も、申し訳ありません!!」
 文官は深く頭を下げ、少女から逃げるように去っていった。
 少女はそんな家臣の背中を見送って、ふーとため息を吐く。
 自分が王位を継承する時が来たら、この国はどうなってしまうのか。
 この国はもう長くないのではないか。そんな不安が、いつも少女の心の中にあった。
 少女が茫洋と回廊に立ち尽くしていると、突然パチパチパチ……と拍手の音が響いた。
 その音にすぐに振り返る。
 そして、音の主を確認して、少女は嬉しそうに微笑んだ。
「ソル!」
「姫さん、あんまり無茶はなさらぬよう。アンタはこの先、ああいうのを上手く飼い慣らしていかないといけないんですから。それに、お勉強から逃げてきた姫君の言葉としては、なんとも説得力に欠ける。かっこよかったけどね」
 金の髪に、紅玉を思わせる赤い瞳。
 背が高く、体つきもしっかりしているので、武官が身に纏う薄手の鎧がとてもよく映えている。
 年の頃は、16くらいであろうか。
 相手が王族であろうと物怖じしないその態度、その口調。それが何よりも、少女のお気に入りになった理由だった。
 精悍な顔つきが美丈夫のためか、姫君があまりに懐いているためか、王宮内では下世話な噂が絶えない。
 その噂を耳にした当の本人はいつも不快そうにこう言う。
「オレにはロリコン趣味はない」
と。
 けれど、そう言われて、少女の心が傷ついていることには、ソルは全く気が付いていない。
 少女は若干早まった鼓動の音を心地よく感じながら、ソルの服の袖を引っ張った。
「ん? なんだい?」
「外に行きましょう。あなたが付いていれば、誰も文句言わずに外に出してくれるもの」
「……おやおや。オレだって、そんなに暇なわけではないのですがね」
「……駄目?」
 少女が残念そうな目をソルに向けると、ソルはすぐに穏やかに笑った。
「外にお連れしたのが、ひと月ほど前。そろそろ癇癪を起こしておられるかと思い、馳せ参じた次第。意地悪が過ぎましたね。参りましょうか」
「うん!」
 少女は弾むように歩き出し、ソルをけしかけるように前を行く。
 ソルは呆れたように眉を八の字にして笑い、ピッタリと彼女の後をついてきた。
 誰もいないことを確認してから、ソルは小声で少女に言った。
「姫さん、オレを腹心とすること、考えてくれた?」
「…………。わたしはなってほしいと思ってるよ」
「そう」
「でも、ソルのこと、皆認める気がないみたい。なかなか、言い出せない」
「でしょうね」
「……ごめんね。わたしが王位を継承したら、その時にでも」
「……それじゃ、姫さんの噂に、また下世話な内容がひとつ追加されてしまうだけだ。サラ、しばらく、そのことは忘れていいよ」
「え?」
「オレが、自力で姫さんの傍に行く」
「…………」
 その言葉に、サラはカァッと頬を赤らめた。
 サラのそんな変化には、ソルは全く気が付かず、顎に手を当てて前を見据えていた。
「国中が悲鳴を上げている。それをなんとかしないと、この国は滅ぶ。サラ、オレがなんとかしてやる。お前には荷が重いと感じるかもしれないけど、お前にしか出来ないことが、この先たくさん立ちはだかってくるんだ。その時、オレはお前の傍にいる。オレの知恵と力は、アンタのもんだ。アンタのために、オレは自力でそこに行く」
「……約束?」
「ん? いや、これは、誓いだな」
「誓い……」
「約束は、もっと昔にしただろう? アンタを護る。アンタの親も、アンタの子供も、アンタの孫も……末代まで護ってやるって、な」
 ソルの朗らかな笑顔に、サラの心は奪われる。
 ソルという名の由来は、太陽のように輝くように、という意味があると聞かされた。
 ソルは、その名の通り、空から照りつける太陽のようだった。
 そして、サラは、その光を受けて輝き、恋をする……王族になるには、才に長けることのなかった、ただの平凡な少女だった。



*** 第十三章 第十二節 第十四章 第三節 ***
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