第十二節 約束の月


「氷!」
「クハハッ! ホント、馬鹿だよ。おめでたいよ! 弱点丸分かりな敵ほどいたぶり甲斐ある奴もいねーよな!」
 氷の体を氷の剣が貫いた。
 刺されても抉るようにいたぶられても、その場で踏み止まり、氷は決して後ろには退かなかった。
 氷の腕が力を失い、ダラリと下がる。だが、決して体は倒れなかった。
 トワは目を覆いたくなる衝動を抑えて、奥歯を噛み締め、堪えた。
 涙がこぼれる。それでも、構わずに彼の背中を見つめ続けた。
 護られることの覚悟。権利の代わりに、自身はそれを受け入れ、堪えなくてはいけない義務があった。
 天羽を諭したその言葉は、自分の胸の中にある。
 本当は嫌だった。誰かが自分を護ろうとすることで、命の炎を危うくする。それを当然だなどと本当は思いたくはない。
 思いたくないけれど、その時、その状況になって、ぐっと堪えることが出来ない、なんてことはあってはいけないことだった。
『いいえ、姫。あなたにも、そのままの言葉として受け取っていただきたいですね』
 苦しいことは苦しいと、そう言えばいい。誰も責めなんてしない。
 ミカナギが言った、天羽への優しい言葉。
 けれど、トワの心の中には、責めの言葉が湧き上がる。
 誰も責めはしない。他者は、誰も責めなんてしないだろう。
 辛いのは、自身の中から湧き上がってくる苛みの感情なのだ。
 それだけは、防ぐことなんて、出来ないから。
「氷! しっかりして!」
 お願いだから、大丈夫だと。大したことないと、返事をして。
 どうして、今、自分は何も持っていないのだろう。
 これでは、TG−Mでもなんでもない。只の女だ。役に立たない、非力で、どうしようもない。
 トワは周囲を覆っている氷の膜を見据え、思い切り殴りつけた。
 ヒビ1つ入らない。
 氷の行動からして、割ろうと思えば割れるのだと思うが、トワの腕力では無理なのかもしれない。
 けれど、トワはそんなことは構わずに、腕を振り上げ、振り下ろした。
「彼から離れて!!」
 氷の膜を叩きながら、精一杯、声を張り上げる。
 命を懸ける価値など、自分にはないというのに。
 彼との出会いすら覚えていなかった自分のために、何故、彼はここまで出来る?
 何も返せないのに。何も応えられないのに。
 氷βがこちらへと視線を動かした。
 次はお前だと、その瞳は言っている。
 まだ、死んでないでしょう? こんなことで、彼が死ぬわけない。ミカナギと同じよ。殺したって、死なないの。絶対に。消えないの。そこに在って、無くならない。無くなるはずない。お願いだから……。
「氷! 返事しなさい!!」
 トワは祈るように、涙混じりに声を発した。
 嫌いだった。軽くて、減らず口ばかりで、こちらには全く気持ちがないのに、あちらは好きだ好きだと言い続ける。
 はじめはうざったい男だと思っていた。
 けれど、今、自分の心の中を駆け巡るのは、ミカナギに寄せるのと同じくらいの全幅の信頼。
 ……彼を嫌ったのは、必然だったのかもしれない……。
 ミカナギと氷は……似過ぎていた。
 立場的な行動の違いはあっても、トワを全面的に許し、絶対的に味方であるという、その2つにおいて。2人は一緒だったのだ。
 その時、氷の腕がピクリと動いた。
 トワはしゃくりあげながら、それでも、安堵した。
 氷は氷の剣を素早く掴んだ。氷βの表情に焦りが混じり、後ろへと跳び退ろうとしたが、氷はそれを逃さなかった。
 氷βの腕に氷の手が伸び、馬鹿にするような口調が、空間に温度を作り出す。
「凍てつけ、バァカ」
 その言葉が放たれた瞬間、氷βの体が空間ごと凍りついた。
 綺麗な長方形の壁の中に、氷βは凍りついた時のままの状態で、立っている。
 氷がはぁはぁと激しく肩で息をし、ゆっくりとこちらを向いた。
 氷の膜越しに、彼は得意そうに笑みを浮かべた。
 血まみれの体に治癒の力が弱々しく作用している。
「やっぱ、こっちに戻ってきてよかった」
「え?」
「今のほうが、断然綺麗だもんな」
 氷は全く照れることなく、そう言い切った。
 トワは言葉の意味が分からなかったが、誉めてくれたことだけは分かるので、素直に返した。
「ありがとう」
 その返しに、氷がおかしそうにクッと笑い、拳を作った。
「今、出してやる」
 振りかぶり、膜を思い切り殴りつける。
 トワがいくら叩いてもビクともしなかったのに、たった一撃で、膜の一部に容易に穴が空いた。
「トワ……」
 氷が優しい目で、自分の名を呼ぶ。
 その声に、言い尽くせない愛しさが混じっているのを感じ取って、トワは耳まで熱くなった。
 応えることができないのに。
 目の前の人は、その感情を隠すことすらしない。
 フラフラしながら、氷はトワに手招きをし、1人膜の外へと出て行く。
「まだ、寒いかもしんねーけど……凍るほどじゃないと思うから、さっさと、抜け、ち、まお……」
 声が途切れて、氷の体がグラリと傾いだ。
 トワはすぐに駆け寄って、彼の体が床に倒れこむ前に受け止めた。
 膜の外は零下近い温度だった。ブルリと体が震え、鳥肌が立つ。それでも、構わずに、氷の体を支えながら、倒れこんだ。
「氷!?」
「ハハ……だっせぇ……世界が回ってら」
 氷はトワの腕の中で、ケラケラと笑った。
 その反応に、胸を撫で下ろす。
「あれ?」
 氷はトワの顔を間近から見上げて、不思議そうに口をポカンと開けた。
「な、何よ」
「泣いてんの?」
「う、うるさい。あなたが、不甲斐ないからでしょ」
 トワは慌てて涙を拭って、ふいと視線を逸らした。
 氷はトワの反応に対して、またもやおかしそうにククッと笑う。
「ありがとうの一言もないんですねー。わかります。あなたは、そういう人です」
「そ、そうよ。私はこういう性格よ。前も言ったじゃない。なんで、私なんかが好きなんだか……」
「なんでなんて、言うなよー」
「…………」
「それは、オレの気持ちの否定と同時に、アンタ自身の存在も否定してんだぜ?」
 トワはその言葉に対して、返す言葉が出てこず、ただ、氷の体を抱き直すことしか出来なかった。
 冷たい体。
 出血のせいもあるだろうが、彼自身にさほど体温といえるものがないのかもしれない。
 そういえば、今まで触れられた時も、ミカナギの時に感じるほどのぬくもりがなかったことを思い出す。
「あったけぇ……」
 氷は嬉しそうにそんな言葉を漏らす。
 そして、思い出したように、片手を掲げた。
「約束、果たすな」
「え? い、今はいいわよ。ちゃんと休みなさい」
「アンタの笑顔が見たいんだ」
「……ッ……」
「アンタだけが、オレの力、認めてくれたんだ。喜んで、くれた」
 必死に言葉を繋ぎながら、氷は丸い氷の塊を作り出す。
「溶けて、なくなっちまうけど……」
 トワは恐る恐る氷の塊を受け取り、優しく目を細めた。
「綺麗」
 ふわりと口元に笑みが浮かぶ。
 氷はその笑顔を見て、満足そうに目を細めた。
「ああ、やべ……オレ、これから、何を目的に生きよ……」
 きっと、それは思わず漏れた言葉だったのだろう。
 トワはその言葉に息を止めた。
 けれど、次の瞬間、横でピシリと氷の割れる音がした。
 トワは慌ててそちらに顔を動かし、氷βがまだ動ける状態であることに愕然とした。
「必要ねーよ。お前ら、ここで死ぬんだから」
 そう言って、氷βが氷の剣を一瞬で作り出し、振り上げた。
 トワは氷を庇うように、抱き締め、攻撃に備えた。
 しかし、数瞬経っても、トワの体には一切衝撃が走ることなく、そのまま氷の崩れ落ちる音がした。
「お、や……じ、なん、で……?」
 その言葉が、氷βの最期の言葉。
 トワは状況が理解できなかったが、氷をパキパキと踏みながら、こちらに歩いてくる足音がしたので、そちらに視線を動かした。
 タゴルが銃を片手に歩いてくる。
 彼の表情からは感情は窺えない。
 ただ、氷に視線を向け、トワへとその視線を移してきた。
 トワはタゴルを見上げる形で睨みつける。
 タゴルもその視線を受け止めながら、静かに言った。
「これで終わる」
「え?」
「お前の怖れた未来は、どこにも無くなる」
 トワはタゴルの意図が読めずに、眉間に皺を寄せた。
 タゴルは胸ポケットから、四角い小型の装置を取り出し、ボタンを押した。
 その瞬間、ふわりとトワの体が軽くなり、翼が一瞬で出現した。
「虹よ、応えろ」
 タゴルは低く突き刺さるような声で叫んだ。
「私を、楽園へ連れて行け!」
 叫びと共に、タゴルは装置を高々と掲げた。
 その叫びに呼応するように、塔がガタガタと揺れ、上階で何かが崩れる音がした。
 トワは、翼を強制的に出された苦痛に悶えながら、タゴルの尋常でない様子を見上げていた。



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