第1章 雨に散る桜
雨がぽつぽつと降り始めた。 ここのところ、ぐずついている。 こんな調子で、降っては止み、降っては止み……。 特に昨晩は激しく降り続け、夜明けごろにようやく静かになった。 それからは、また、降っては止み、降っては止みの繰り返しで、わずかに覗いた晴れ間を利用して家を出てきた2人は、雨粒を手の平で受け止めながら空を見上げた。 「やっぱり、降ってきたな」 水無瀬淡雪(みなせあわゆき)はやれやれといった調子で言い捨てて、大急ぎで黒い傘を開く。 軽く傘を振って、開きやすくし、勢いよくパンッと音を立てて。 「ぅう〜……雨は嫌いだよぉ」 希日向(ねがうひなた)が泣きそうな顔でぴょんと、今しがた開いた傘の中へと入ってくる。 自分の持っていた黄色の傘を開く様子は全く見せない。 「お前……傘があるんだから」 「だって、新品なんだよ!」 「こら……傘というのはなぁ……」 悪びれる様子もない幼馴染に、淡雪は呆れて、説教でもするかのような口調で口を開いた。 しかし、すぐに日向に遮られる。 「そのかわり! あたしが持つからさぁ」 と言って、淡雪の手から傘を奪って、一生懸命に手を伸ばして傘を差しかけてくる。 「痛い! お前、ささる……! ささるから……いいよ、僕が持つ、僕が!!」 傘の骨が頭にコツコツと当たってくるのをなんとかかわして、少女から傘を取り返す。 「お前……身長差を考えてくれ……」 そう言って傘の柄の部分でコツンと日向の頭を小突く。 すると、小突かれた部分をさすりながら、日向は頭一つ分以上違う淡雪を見上げて、少し悲しそうな声で言ってきた。 「ぅう〜……だって、人の傘に入ってるから、せめて持ってあげようと……」 「そんな気遣いがあるなら、そっちの新品の傘を使ってくれ」 日向のしどろもどろの言葉を遮って、淡雪はキッパリと言い切った。 日向は、情けなく眉を八の字にして黙り込む。 傘がポツ、ポツと音を立てて水を弾く。 その音をしばらく淡雪は聞いていた。 淡雪は、すらりと背が高い。 髪は持っている傘と同じ黒で、髪質は見ればわかるネコッ毛。 顔立ちは淡白だが、目は大きめで優しげだ。 それとはまるで対照的で、日向はこじんまりと小柄。 髪は栗色。 髪型が少し特徴的で、後ろで結わえた髪の毛先を散らしている。 前から見ると、カニの脚のように見える。 顔立ちは童顔で、体格と見合った感じの可愛らしさを持っている。 2人は、今年の春で高校2年生になる。 家は道路をはさんだお向かいさん同士。 誰がどこから見ても、仲のいい幼馴染である。 「……やっぱり、雪ちゃんは優しい」 しばらく、そうして歩いていると、日向が突然嬉しそうにそう呟いた。 淡雪は首を傾げる。 「ううん、なんでもないの」 不思議そうに見つめる淡雪に対して、日向はにっこりと笑いかけてきた。 急な階段が目の前に迫っていた。 この階段を上りきると、公園がある。 そして、その公園を突っ切ると、2人の通う高校への道に出ることができるのである。 淡雪は日向のペースに合わせて歩きながら、ゆっくりと階段に足をかけた。 階段を一段上がるごとに、日向の髪が上下にちょこん、ちょこんと揺れていた。 小柄な日向にとって、この階段の段差はやや高めだ。 涼しい顔で淡雪はふぅと息をつく。 「……年かな……」 本当は疲れてもいないくせにそう言う。 「何言ってるんだか、雪ちゃんは……」 体を弾ませつつ、日向は淡雪を見上げて笑う。 日向は、淡雪の言葉が自分を気遣って発せられた言葉なのがわかっていたのだ。 無言……というか、表情に出ない優しさが、淡雪のよさだと……日向は思っている。 「とっうちゃ〜くっ!」 そう言って、ぴょんと最後の段に両足をそろえて飛び乗った。 慌てて淡雪が傘を前に突き出す。 ぽつぽつと、雨粒が自分の頭に落ちたけど、それは問題ではなかった。 すぐに淡雪も最後の段を上りきり、その下に入る。 髪についた水滴を払う。 「う〜ん……桜、散っちゃったかなぁ?」 日向は、額に手をかざして遠くを見るように少しだけ背伸びをする。 淡雪はその様子を見て、目を細めてふっと笑った。 「なに……?」 日向が不思議そうに見上げてくる。 淡雪は何も言わずに、目の前に広がる児童公園の先にある、高校へと繋がる並木道を見つめた。 「ねぇ、なに? 今の、ふっ……て」 微妙なモノマネをして、しつこく尋ねてくる。 淡雪はしらばっくれて、目を合わせようとしない。 「べつに。ここからだと、桜の花がよく見えないなぁ」 日向のモノマネも放置したままで、淡雪は傘を持った手で、行くぞと促す。 「こらぁ……つっこんでよ!」 そう言われて、また淡雪はふっと笑った。 歩き出した2人の前方から、少女が1人こちらに向かって歩いてくるのが見えた。 薄い紫色の傘を持った、細身の少女だ。 淡雪は目を細める。 見覚えがあったからだ。 少しずつ、距離が近づくと、少女のことがよく見えた。 思わず、息を飲む。 ……よく目が合う少女なのだが、少女はとても美人だった。 つやのある黒髪は肩くらいの長さで、少しシャギーを入れている。 そのシャギーが少女の美人顔に鋭さを加えている。 左目の下には泣きボクロ。 そのホクロのおかげで少しだけではあるが、少女のツリ目気味の目を和らげていた。 少女は今回は気がつかないようで、淡雪のほうを見てはこない。 そのことに、ほっと胸を撫で下ろす淡雪。 「十二神(とにかみ)さんじゃない?」 いよいよ少女とすれ違うかと思った瞬間、日向がそう言って少女に声をかけた。 淡雪はなんで声をかけるんだよ……と思わず言いたくなったが、本人がいるので、その言葉は心にしまった。 少女がその声に立ち止まって、こちらを見た。 傘を少しずらして、淡雪と日向を交互に見つめる。 やっぱり、淡雪がよく見かける少女だった。 少女と目が合った。……だが、少女はすぐに視線を逸らす。 「やっぱり、十二神さんだ! 十二神雨都(うと)さんだよね?ほらほら、わかんないかな?1年の時、同じクラスだった、希だよ♪」 無邪気な笑顔を浮かべて、日向は雨が降っているのも忘れて、雨都に近づいていった。 淡雪が慌てて、日向に傘を差しかけようとしたが、それよりも早く雨都が傘を差しかけた。 チラリと淡雪を見てから、すぐに日向に視線を戻す。 明らかに……困ったような表情だ。 「あんまり、お話したことないからわからないかな?」 「いいえ、大丈夫、覚えてる」 「そっか♪ 十二神さんは何か用があって学校に?」 「ん、桜を」 「あ、どうだった? 散っちゃってた?」 「……半々……かな」 「そっかぁ……。あたしは五分咲きまでは見られたんだけど、満開は見られなくて……。残念だなぁ……十二神さんは見た?」 「家……からなら」 「家?」 「高台にあるの」 「あ、もしかして、あのでっかいおうち?」 「ええ」 「へぇぇーーー! あそこが……!」 傘を飛び出して高台の上にある家を眺める。 雨都は少し遅れたが、すぐに日向の隣に並んで傘を差し掛ける。 「濡れるから、あまり、急に動かないで」 「あ、ありがと」 笑顔で日向が答えると、雨都は照れたように俯いた。 淡雪も差しかけようと近づいたが、雨都のほうが早かったので、任せることにした。 「キミの家って……」 と声をかけようとしたら、雨都は横目で淡雪を見てきた。 何かを訴えようとしているように……瞳は揺れていた。 淡雪が見つめ返すと、慌てたように視線を逸らされる。 「ごめんなさい、私、用事があるからこれで……」 そう言って、日向を淡雪の傘の下に導く。 そして、早足で階段へと歩いていってしまった。 雨都は淡雪に対して何かを伝えようとしているような気がしていた。 雨都をよく見かける……のは、気がつくと、いつも彼女が淡雪を見つめていたからだった。 別に話したことはない。 特に……彼女についてのことでは覚えがない。 だが、それでも、あまりに何かを伝えるようにこちらを見てくるので、親友の安曇(あつも)との会話で話題にしたことがあった。 「愛しの水無瀬様♪ とかじゃないのか? お前、素材は悪くないんだしさ」 そう、安曇には茶化された。 そんなものじゃない。 雨都の視線は……なんと言えばいいのか、淡雪にも難しかったけれど、好意ではないと……感じていた。 けど、敵意……というわけでもなくて、……そう……そうだ。 あれはまるで……。 「雪ちゃん、そろそろ行こっか!」 結論に達しようとしていた淡雪の思考を日向の元気な声が遮った。 強く腕を引いて、淡雪をぐいぐいと引っ張る。 一瞬、淡雪は躊躇ったが、すぐに気を取り直して、日向が濡れないように傘を差し掛ける。 全く……自分で雨は嫌いだと言いながら、すぐに忘れて飛び出してしまう。 日向は昔からそうだ。 いじめっこに近づくな、と何度言い聞かせても、懲りずに話しかけていくような……そんな子だった。 だから、どうしても目が離せないのだと思う。 それはまるで、たどたどしく、1歩1歩進んでいく幼子を見ているような……そんな感じに似ていた。 だけど、何かが違った。 たどたどしい歩き方なのに、手を引いてくれているのは、今のように……日向なのだ。 「あ〜あ……五分咲きが満開になって……五分散り?ん〜?そんな言葉ないか」 桜の木を見上げて、残念そうに呟いている。 淡雪が考えを巡らせている間に、もう並木道まで来てしまったらしい。 「桜吹雪の中、歩きたかったか?」 日向の顔を覗き込んで、優しくそう言った。 日向はただ微笑んで、桜の木を見上げる。 「春に花を咲かせ、夏は青々とした葉を繁らせる。秋には彩を変え、冬は春に備えて力を蓄える……。桜は儚いものなんかじゃないんだよな」 淡雪は目を細めてそう言った。 日向はその言葉を聞いて目を閉じる。 「あたしは……いつも願をかけるの」 「え?」 「桜の花にね……願をかけるの」 「…………」 「毎年、散っていくのを見て……来年は、来年はって」 「来年は……なに?」 目を閉じて囁く日向を真剣な表情で淡雪は見つめた。 淡雪が尋ねると、日向はゆっくりと目を開けて、淡雪を見上げてくる。 色素の薄い茶色の瞳に、淡雪の顔が映った。 「来年こそは……雪ちゃんに……」 躊躇うように口をつぐむ日向。 少し、目を潤ませている……。 淡雪は、その雰囲気に思わずごくりと喉を鳴らした。 「お〜ま〜え〜ら〜、雨も止んでるのに、相合傘かぁ?」 突然、必死に言葉を口にしようとしている日向と、それを見つめる淡雪の間に安曇が割って入ってきた。 驚いて、淡雪がそちらを見ると、黒いジャージを着てずぶ濡れになっている安曇が意地悪げに笑って立っていた。 「あつも?!」 「よぉ!」 安曇は楽しげに笑うと、淡雪の持っている傘をヒョイと取り上げた。 確かに……雨は止んでいた。 志筑安曇は背の高い淡雪よりも更に少し背が高い。 涼やかなツリ目が印象的な二枚目で、陸上をやっていることもあって、細身の淡雪に比べるとガタイがいい。 今はずぶ濡れでわからないが、かなり髪型にこだわりを持った男である。 傘をすぼめると、ぱっぱっと水滴を飛ばしてから、パチンと傘を閉じた。 「どうしたんだよ?その濡れようは……」 「あ?ここんとこ、降ってばっかでトレーニングにならなかったからよぉ。雨に負けてられっかって思ってジョギングに出てみた」 真顔でそう言いながら、安曇は淡雪に傘を返してくる。 淡雪は受け取りながら、安曇の言葉に苦笑する。 「明日、始業式だぞ?」 「だから?」 「風邪でもひいたら……」 「出ても出なくても、同じだろ? あんなん」 「…………。そういうヤツだよな、お前は」 あっけらかんと答える安曇に、呆れたように淡雪はまた苦笑した。 2人は顔を合わせて笑う。 ……が、すぐに思いついたように安曇は、淡雪の背中に隠れるようにしていた日向が見える位置まで移動した。 声が意地悪げなものに変わる。 日向も少し不機嫌そうに頬を膨らませている。 「邪魔しないでよぉ」 「邪魔?むしろ、俺は助けたつもりだったけどな……雪を。相手が、こんなチビクロサンボじゃ、あんまりだしなぁ」 「あたし、黒くないもん〜!それに、それに……あたしは……」 「なんなら、さっきの続き、言っちゃえば?」 安曇が意地悪くそう言うと、日向は顔を赤らめて黙り込んだ。 「? どうかしたの?」 淡雪はきょとんとして、2人を交互に見つめた。 安曇は淡雪にはにこりと笑って、また日向を意地悪げに見つめる。 日向はぎゅっと淡雪の服の裾を掴んで、縮こまった。 先程の言葉を淡雪は思い出してみるが、結局、日向の願かけが一体なんのなかはわからない。 「い、言わないでよ、あっくん」 「さぁ、どうしようかねぇ」 おずおずといった感じの日向をおかしそうに見つめて、安曇は日向の髪に触れた。 日向が首をすくめる。 裾を掴む手に、さっきよりも力がこもったのが淡雪にはわかった。 「髪、伸びてきたじゃん。またカットしてやろうか?」 「ま、まだいいよ〜」 「なんだ……せっかく新しい髪形思いついたのになぁ。なんだかんだ言って、カニ頭気にいってるんだろ?お前」 日向の前髪を軽くつまむと、つまらなそうに安曇が言った。 「た、確かにこの髪型は気にいってるけど……。あっくんって、当たりはずれが大きいから、嫌なんだよ〜」 「はいはい。なにも、そんなに怯えなくてもいいだろうに」 「だって……」 「だって、何?」 安曇がたたみかけるようにして尋ねると、日向はチラリと淡雪を見上げてから、 「なんでもない」 とだけ言った。 淡雪は日向のそんな様子を不思議に思ったが、そのことには触れて欲しくないのかと思い、それとなく話題を変えた。 「お前、ロードワークの途中だろ?体冷えるぞ?」 「もう冷えてるよ。ありがとよ、心配してくれて……俺は嬉しい」 「……はぁ……」 「なんだよ、俺は素直に親友の優しさに感謝しただけだろうが。ま、それはいいとして!雪、お前の髪もいじらせろよ」 「気恥ずかしいから、髪型のことはいいよ」 「まーた、そんなことを……。とにかく、今度押しかけるからな!」 寒くなってきたのか、体をブルッと震わせてから、強い口調で言い切ると、あっという間に坂を下っていってしまった。 「ヘアアーティストの卵……かぁ」 「まだ、自称だけどな」 安曇の背中を見送りながら、2人はそんなことを呟いた。 2人はしばらく黙って桜の木を見上げていたが、淡雪が促したことで、2人は来た道を戻り始めた。 安曇が下っていった坂道と二人が歩いてきた公園の2つが、この高校の主な通学路だ。 坂を下っていくと、田舎ながらも商店街に出る。大体、下校時はそちらを通る学生が多い。 「そういえば……ひな、さっきの願かけってなんだったんだ?」 「え、あ、な、なんでもないんだ……気にしないでね」 思い出して淡雪が尋ねると、日向は慌てたようにワタワタと手をバタバタさせて、苦笑いしながら、何度も気にしないでと言った。 その後、あっくんのバカ……とポツリとこぼしたけれど、その声は淡雪には届かないほど小さなものだった。 |
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