第2章 陽だまりをくれる人


『雪ちゃん、今日はあっちに行ってみようよ!!』
 幼いころの日向が、栗色の髪を日に透かして、楽しそうにそう言った。
 淡雪は目を細めて笑う。
 朗らかで、温かくて、陽だまりのような……幼馴染。
 淡雪の心をいつでも励ましてくれる……ただ、そこにいるだけでいいと思える人。
 日向は、目の前を弾むように駆けていく。
 それを優しく見守りながら、ゆっくりと一歩を踏み出した。
 その瞬間、淡雪の踏みしめていた地面が大きく揺らいだ。
 いや、地面が揺らいだのではない。
 視界が……どんどん歪んでいく……。
 淡雪は慌てて目を押さえた。
 まぶたにひんやりとした手の感触。
 少しだけ……安心したように息を吐く……が、次の瞬間、地面に膝をついた。
「ぐぁぁ……うぅっ……頭が……頭が……」
 表情を激しく歪ませて、頭を両手で押さえ込む。
 額に青筋が浮かぶ。
 淡雪は頭の深奥から発せられてくる高熱に支配されて、苦悶の声をあげる。
 まるで、脳を溶かされてしまうような感覚……。
 異常な苦痛。

 また……また、この夢だ。
 昔の夢を見ると、必ず、この高熱と痛みに襲われる。
 激しいめまいは吐き気がするほどに。
 高熱は体が自分のものではないのではないかと思うほどに。
 暴れ出す記憶の波が……まるで、淡雪自身を破壊していくようで……淡雪は必死に、日向の名前を口にした。
「ひな……ひな、どこだ?!僕を……僕を置いていかないでくれ!そのままだと…………!」
 『そのままだと……』
 その後に続く言葉がわからずに、淡雪はそれ以上を口にするのをやめた。

 頭が冷静になっていく。
 痛みも……熱も、嘘のように引いていく。
 急いで顔を上げる。
 不安に駆られて……。
 そこには日向の姿がない。
 どこに消えたのか……、もうどこにも見当たらなかった。

 また、ぐらりと視界が揺れた。
 頭を押さえようとした指先が小刻みに震える。
 その震えを押さえようと、拳を握り締めたが、その瞬間に、自分の拳が丈夫そうな骨の拳に変わるのがはっきりと見えた。

 淡雪は取り乱した。

 こんなことは今までなかった。

 いつもの夢だと思っていたのに、これは……いつもの夢ではない。

 自分の目の前には、白い骨……。
 動かしてみると自分の意思通りに骨組みは動いた。
 コツンコツンと軽い、嫌な音を立てて骨同士がぶつかりあう。
 これが、自分の体?
 そんなバカな……!
 淡雪は必死に頭を振った。
 顎がカクンと嫌な音を立てて、左右に揺れた。
 そして……ボトリという音とともに、淡雪の視界が真っ暗になる。
 湿り気のある、泥団子が落ちたような音だった。
 なんとなく、淡雪は吐き気を覚える。
 その音の正体が……目玉の落ちた音だと自覚したのだ。
 痛みはない。
 何も感じない……それが逆に、異常だった……。
「うっ……うわぁぁぁぁぁぁ!!」
 断末魔のように、悲痛な叫び。
 それがあたりに響き渡って、淡雪の思考は……停止した……。



 新学期。
 日向は二年目の制服を身にまとって、にっこりと鏡に向かって笑いかけた。
 本当は高い鼻に憧れているけど、自分の童顔にはそれが似合わないのをわかっているから、高望みはしない。
 大きく、はっきりした目。
 それが日向は好きだった。
「ふんふふ〜ん♪」
 栗色の髪を手馴れた手つきで結い上げる。
 てきぱきとブラシで毛先にクセをつけて、カニ頭の出来上がり。
「鼻はいらないけど……身長は欲しいなぁ」
 自分でセットした髪型をチェックしつつ、不満そうにそう言う。
 毎朝のことだ。
 さすがに、もう日向も諦め始めていた。
 今の今まで伸びなかったのだから、これからも伸びることはないだろう。
 幼馴染の淡雪は、あんなに背が高いというのに。
 世の中、不公平なことが多すぎる。
 なにが不公平かって?
 淡雪は日向よりもたくさん食べるのに、横には伸びずに縦にばかり伸びることだ。
 安曇も一緒だ。
 あの2人の身長を、吸収してしまいたいくらいの気持ちがある。

「よっし、準備完了〜♪」
 日向は元気いっぱいに鏡に笑いかける。
 そして、机の上に置いてある淡雪と安曇と写っている写真の入った写真立てを手に取る。
 本当は2人で写るはずだったのだ。
 写真嫌いの幼馴染をなんとか言いくるめて撮った……この10年間でようやく撮れた一枚。
 高校入学の記念に。
 その言葉を合格発表の日に口にしたら、淡雪は言い訳を考えるように目を泳がせ続けた後、観念したように「いいよ」と言ってくれた。
 それなのに……。
「あっくんのバカ〜」
 日向は、怒っているのか怒っていないのか、とても微妙な口調で安曇の顔を指で弾いた。
 してやったりの笑顔が腹立たしいが、それでも、日向は安曇が嫌いではない。
 意地悪さえしなければ、……まぁ、何を考えてるか分からない人だけど、いいヤツなのだ。

 コトリと音を立てて写真立てを置き、落ち着くことなく、今度はベッドの上に寝ているキリンのぬいぐるみの頭を撫でて笑う。
「行ってくるよ〜、ロング」

 首が長いから……ロング……らしい。
 なんとも安直なネーミングだが、これをくれた淡雪に考えてもらったのだから、日向は満足している。
 因みに淡雪の部屋には緑色のキリンのぬいぐるみがある。
 そっちの名前は、コングである。
 ……キリンなんだかゴリラなんだか、キリンなんだか怪獣なんだかわからないぬいぐるみになっている気がする。
 だけど、プレゼントしたのは自分なので何も言えない。
 一通りの朝の儀式を終えると、ようやく、床に置いてある大きなスポーツバッグを持ち上げて部屋を出た。
 階段を下りて、キッチンに入り、連絡用のホワイトボードに目をやる。
 ホワイトボードにはよく整った字が、いつものように並んでいた。

『今日も水無瀬さんのおうちでご飯食べさせてもらってください。
 一応、冷蔵庫にチャーハンがあるけど、お母さんが水無瀬さんに頼んでおいたから』

 日向は静かに目を細める。
 そして、すぐに冷蔵庫のドアを開けて、チャーハンの入った容器を取り出してレンジにつっこんだ。
 あたためている間に、母親に返事を書く。
 キュポンと軽い音を立ててマジックのフタを取り、こじんまりとした丸字で。

『チャーハン、朝ごはんにしたよ〜♪
 夕ごはんは雪ちゃんのおうちでゴチになってくるので、
 帰りが遅くても心配しないでね』

 そう書き終えて、ニコリと笑う。

 日向の母親は看護士さん。
 なので、シフトが不定期に変わる。
 そのために一日顔をあわせずに過ごすこともある。
 それは子供の頃からなので、日向はもう慣れっこになっていた。
 父親は……ずいぶん前に亡くなった。
 交通事故に巻き込まれて即死だったそうだ。
 だけど、それは子供の頃だったので、今になって考えても、あまり恋しくなることはなかった。
 子供の頃はよく思い出しては泣いていたらしいのだけど、日向はあまりその時のことを思い出せない。
 なにか、靄がかかっているような感じで、思い出すことができないのだ。
 ピーッとレンジが日向を呼んだ。
 もうあたたまったのか……。
「はいはい、お疲れ様〜」
 日向はレンジを労いつつ、容器を取り出して、皿に移さないでそのままスプーンを持つ。
 湯気を漂わせて、卵の柔らかな香りが日向の鼻をくすぐった。



「おはよ♪」
 玄関を出ると、日向が笑って立っていた。
 淡雪は優しく笑うと、
「おはよう、ひな」
 と言って、広い歩幅で歩み寄った。
 無造作に日向の頭を撫でる。
 大丈夫だ。日向はここにいる。
 心の中で胸を撫で下ろす。
「こちょぐったいよ? どうしたの?」
「こっちが……現実だよ」
「え?」
「ん、いや……なんでもない」
 首を傾げる日向に、淡雪は穏やかに笑いかける。
「雪ちゃん、学ランのボタン……」
 めざとく日向がそう言って、淡雪の学ランにそっと触れた。
「え?」
「珍しいね、ちゃんと締めてないの」
「あ……今日は少し息苦しくて」
 うっかりしていた。
 いつもはきっちり上まで締めているのに、今日は頭の中がそれどころじゃなくて、学ランの着方も適当だった。
「息苦しい? 具合悪いの?」
 心配そうな日向の表情。
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
 慌てて首を振る。
「あ、ここ、掛け違ってる……なんか、今日の雪ちゃん、可愛いなぁ」
「えっ……あ、ホントだ……。ちょっと待って、直すから」
 日向の指摘に慌てて淡雪は学ランのボタンを全部外した。
 日向に可愛いなんて、言われることも稀だ。
 昨夜見た夢はそこまで淡雪の意識を引きずっているらしい。
 ボタンを掛け直していると、また視界がぐらついた。
 足元がふらりと傾く。
 夢の中じゃないのに……。
「淡雪! お弁当、忘れてる!」
 目をつぶって、眩暈を堪えていると、大慌てで母親が飛び出してきた。
 なんとか回復した意識を広げて、淡雪は振り返る。
 気丈な顔立ちの母親が、すぐそこに仁王立ちしていた。
「あ、ひなちゃん、おはよう」
「おはようございます、雪乃さん」
「お夕飯はこっちで食べるのかしら?」
「あ、はい、お願いできますか?」
「当たり前でしょ♪ あ、お弁当、ひなちゃんのも作っておいたから、はい」
 朗らかに笑うと、淡雪に大きな弁当包みと、可愛らしいランチバッグを手渡してきた。
「大きいほうがアンタの。バッグに入れてあるのがひなちゃんのよ?」
「いや、言われんでもわかるけど……」
「いつも、ありがとうございます」
「何言ってるの。水無瀬家と希家の仲でしょうに」
 なぜかバンバンと淡雪の背中を叩いてくる。
 本当に朗らかな母親だ。
 淡雪は少しだけ咳き込んだ。
「あああ、雪ちゃん、今日、具合悪いみたいだから……」
 慌てて、日向が母親の手を押さえるけれど、母親は不思議そうに首を傾げた。
「え? この子、そんなこと一言も言わなかったけど?」
「大丈夫だよ、ひな。息苦しいって言っただけだろ?」
「まったく、いっつも、物静かにしてるから、わかりづらいのよ。少しは私やひなちゃんを見習いなさいな」
「もう……うるっさいなぁ……。とりあえず、行ってきます」
 母親の豪快な笑いに苦笑しつつ、淡雪はそう言って、今度こそ、日向と一緒に歩き出した。
 ランチバッグを日向に手渡して、弁当包みをディバッグに入れる。
 そして、今度こそ、きちっと上まで学ランを締めた。
 うん、やっぱり、このほうが学校に行くという気構えが作りやすい。
「優等生・雪ちゃんの完成〜」
「何をバカ言ってんだか……」
「あたしは単に雪ちゃんは学ランが似合うなぁと思って言ってるだけでしょう?」
「はいはい」
 頬を膨らませて怒る日向を軽くかわして、淡雪は目を細めて笑った。
 昨日までの雨が嘘のように、今日はよく晴れ渡っている。
 淡雪は青空を見上げて、静かに心の中で呟いた。
 また……一年が始まる。
 これまで通り、ただ平穏に、何事もなく、毎日が過ぎていきますように。
 淡雪はそれだけを一心に願っていた。
「あ、十二神さんだ〜」
 日向が前方に向かって叫んだ。
 その声に、雨都が振り返る。
 困ったような表情。
 日向は振り返ってくれたのが嬉しかったのか、タタタッと雨都に駆け寄っていく。
 だけど、雨都の視線は淡雪に向いていた。
「おはよう、十二神さん」
「おはよう、希さんと、水無瀬くん……で合ってるかしら?」
「ああ、おはよう」
 淡雪は素っ気無く返事をする。
 すると、雨都が少し悲しそうな表情をした。
 すぐに日向がフォローをする。
「雪ちゃん、反応淡白だけど、悪気ないから気にしないでね」
「え、あ……ええ」
 日向の朗らかな笑顔に戸惑うように返事をする雨都。
 だけど、すぐに淡雪のほうを見て来る。
 今日も、いつものように瞳は揺れていた。
 好意でもなく、敵意でもない……。
 はっきりしない自分が言うことではないが、はっきりしないこの視線の正体に、淡雪は少しだけいらつくのを感じた。
 淡雪は、いつもとは違い、不機嫌に目を細める。
 絡み合っていた視線を解いて、雨都は眉を八の字にして俯いた。
 そして、ポソリと一言。
「……ごめんなさい……」
 その言葉が、彼女の視線の正体だった……。
 だが、まだ、淡雪にはその言葉の意味がわからなかった。



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