◆◆ 第1篇 恋の味・ときめきビターチョコミント風味 ◆◆

Chapter9. 車道 舞side



 舞が昇降口を出ると、ちょうどそこで水を汲んでいる”彼女”がいた。
 そういえば、テニス部のマネージャーになったということを4月の頭、舞が想いを告げる前に言っていたことを思い出す。
 ふわふわの髪の毛を邪魔にならないように緩く結い上げて、エンジのジャージもそれなりに可愛く着こなしていた。
 日焼け除けのために長袖を着ているようだったが、やはり暑いのか、ふー、と額の汗を袖で拭っている。
 大きなやかんに水を入れ終え、きゅっと蛇口を締める音がした。
 舞はついつい足を止めてしまった自分に、呆れにも似た感情が沸いた。
 本当に、懲りていない。
 ……でも、仕方ない。
 そんな簡単にどうにかなる感情であるのなら、舞はそこまで思い悩むことなんてなかったのだから。
 ”彼女”は少し頼りない腕に力を入れて、やかんを持ち上げる。
 やかん程度の大きさであるから、それは容易に持ち上がったが、やかんの口から勢いよく水がドバドバドバ……と溢れ出し、”彼女”は慌てたようにやかんを下ろした。
 ”彼女”は慌てるという素振りを見せることがない。
 だから、少し慌てたのも、下ろす瞬間だけだった。
 ただ、困ったように目を細めて、もう一度、やかんの蓋を開けて、蛇口を回した。
 再び、水が汲めて、蛇口を締め、蓋を閉じる。
 持ち上げ……ドバドバドバ……。
 ”彼女”は、普段落ち着いていて、ふわふわしていて、面倒見もとても良い。
 容姿も男子ウケするような可愛らしさがあり、人当たりもいいから中学でも人気があった。
 けれど、あまり知られていない一面として……。
 ドジ……という、素晴らしき才能を所有していた。
 見ていられずに、舞はつい声を掛けてしまった。
「水の量、多すぎ」
「え……?」
 やかんを見つめて困ったような表情をしていた”彼女”がこちらを向く。
 ゆっくりと上体を起こし、目を細めつつも真っ直ぐに舞を見据えてきた。
 少しばかり舞より背の高い”彼女”。
 舞は少し歩み寄って、”彼女”を見上げ、静かに言った。
「清香(さやか)、力もバランス感覚もないんだから、少なめに入れないと無理でしょ」
 遠野清香。
 それが”彼女”の名だった。
 清香はコクンと頷く。
「そう、なんだけどね」
「わかってるんじゃん」
「……先輩が、上まで入れてこいって、言うから……」
 苦笑混じり。
 舞はすぐに目を細めた。
 相変わらず、灰かぶり姫……というわけだ。
「いじめ?」
 サクッと舞が言うと、清香はふっと噴出した。
「くーちゃんったら。そんなんじゃないよ」
「だって……。その先輩、女子?」
「女の子だけど……」
「…………」
 舞が何を考えているのかわかったのか、清香はすぐに否定した。
「休憩時間短いから、このやかん一缶に入ってないと、足りないの。それだけよ」
 そう言って、またやかんに水を入れ始める。
「心配してくれてありがと」
「……そんなドジを目の当たりにしたら、突っ込まざるをえないでしょ」
 まるでししおどし。
 きゅっと蛇口を捻る音がして、やかんの口からドバドバドバ……。
 慌てる清香。
 再び水を入れ直す。
 エンドレス。
 思い返して、舞はふっと笑みをこぼした。
 感情はまだそこにある。
 けれど、あの時ほどの痛みは、なかった。
 ただ、少しの居心地の悪さと、決して自分のものになりえない”彼女”の清らかな空気を存分に感じる。
 話してみれば何のことはない。
 どう足掻いても好き。
 この、”彼女”の空気が、好きだ。
 そういう言葉が過ぎる。
 一般の女の子の、恋という感情がどんなものなのかは知らない。
 自分の恋しか出来ないからわからない。
 けれど、春の陽だまりを届け、夏の潮風を送り、秋の彩を喜び、冬の暖の柔らかさを知る。
 この世界の全て、この世界の綺麗さ全て。
 綺麗な色だけ詰め合わせて、”彼女”に届けたい。
 そう……思う。
 それが、舞の恋だった。
「くーちゃん……」
「ん?」
 ぼんやりしてしまっていた舞は、清香の声で我に返った。
 清香は蛇口を締め、やかんの蓋を閉じた。
「ごめんね……」
「な、何が?」
「この前、ホントは言うつもりだったの」
「この前?」
「あの、雨の時の……」
 清香は静かに目を伏せた。
 ほんのり、頬が染まっているのが見えた。
 少し舞の傍に寄ってきて、ポソポソと、舞にしか聞き取れない声だった。
「何、を?」
 舞は意味がわからず、自分の頭がグルングルンと回るのを感じた。
「私ね、くーちゃんにとっても酷いこと、言った」
「…………」
「私、くーちゃんが強くて、ちょっと意地っ張りで、……でも、とっても可愛いこと、知ってる」
 舞は言葉が出てこなかった。
 ただ、清香の綺麗な肌を見つめるだけだった。
「本当は……王子役だって嫌だったし、下級生の女の子たちに、一時的とはいえ、騒がれたこと、気にしてたのも知ってる」
「それほど、大仰なもんでもないよ。なかなか言えないしね、ああいう台詞。”僕の心全て、君に捧げる。だから、どうか、どうか、僕の想いを受け取って欲しい”」
 茶化すように舞は言って、ふっと笑う。
「素直なのに、素直じゃない。……そういう読み取りづらさが、くーちゃんの可愛らしさで……。でも、決して、心にもないことを、言う人ではないこと、知ってたはずなのに」
 茶化しなんて無視をして、”彼女”は真面目に言葉を続ける。
 なので、舞は静かに答えた。
「あのね、清香」
「なに?」
「あたし、何にも望んでないつもりだったの」
「…………」
「ただ、あたしの喜びが、あなたとも同じであることがあったら、どんなにいいだろうと、それだけを思っていたつもりだった」
 清香は切なげに目を細めて、落ちてきた横髪をさらりと掻き上げた。
「でも、そう思うなら、あたしはこの気持ちを、ずっと閉じ込めておくべきだった」
 何も望まないなら、言わないで。
 清香の言葉は、その通りだと思った。
「……それは、違うよ……」
 清香の声が、にわかに震えた。
「望んでない? そんなことなかったよ。そんな、ガンジーやマザーテレサみたいな、綺麗な気持ちじゃなかった」
 舞が考えている間、清香も考えてくれていた。
 その事実だけで、十分に思う。
 十分と思わなくてはいけない。
 自分は幸せな人間だと。
 この人でよかったと。
 思わなくては、ただの傲慢な人間だ。
「気持ち悪いでしょ。そんな人が、傍にいること……。だから、もういいんだよ、清香」
「人を好きになるって……そういうことも含めてなのは、当然だよ」
 清香はなんとか堪えるようにして、そう声を絞り出した。
「私は、”くーちゃん”を理解はできないかもしれない。……でも、認めたいって、そうは思う」
「…………」
「だから、……否定してしまった私が言うのは、とても調子が良いかもしれないけれど、くーちゃん自身を自身で否定するようなことは言わないでほしい」
 その言葉に、舞はクッと息を飲み込んだ。
 飲み込みづらい空気を、飲み込んだ。
「否定しなくちゃならないものじゃない」
「清香は」
「…………?」
「誰にでも人当たりよくて、そのくせ、厳しいこと言う、からなぁ……」
 舞は髪を掻き上げて、ため息を吐いた。
 ポロッと涙がこぼれる。
 飲み込まなければ良かった。
 涙の薬だと、自分でもわかっていたのに、息を飲んだせいで……堪えられない。
「厳しい、かもね」
「うん……」
 舞は右手で目を覆い、コクンと頷いた。
「でも、私、自分にも厳しいの」
 清香の声。
「だから、今言ったことは、取り繕うためとか、そういうのじゃないから」
 柔らかそうな手が、舞に向けてハンカチを差し出してくる。
 舞はそれを受け取って、涙で曇ったままの目で、清香を見つめた。
「……やっと、すっきりしたー」
 清香が本当に満足げにそう言った。
 そして、やかんを持ち上げる。
「くーちゃん、夏休み、遊ぼうね。今学期部活漬けで、悪夢のようだったから、遊びたいんだ」
「後悔するかもよ。あんなこと言っちゃって」
「してもいいよ」
「え?」
「……だって、何かをしなきゃ、何かを知ることも、何かに気づくこともできないもの」
「…………」
「傷つけるかもしれない。傷つくかもしれない」
「…………」
「でも、それでいい」
 すかっと清香が言う。
 舞が惚れたのは、この強さだ。
 女の子らしい見た目の割に、肝が据わると梃子でも動かない。
 柚子のように寛容ではないけれど、繊細な彼女は、厳しく優しい。
「それじゃ。また」
 清香はそう言って笑うと、ふらふらした足取りでその場を去っていった。
 舞は、その背中をしばらくの間見送っていた。



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