◆◆ 第1篇 恋の味・ときめきビターチョコミント風味 ◆◆
Chapter10. 二ノ宮 修吾side
畑と畑の間の野良道をテクテクテクテク、テクテクテクテク。 高校のある位置からだいぶ上のほうまで登ってきた。 じんわり浮いた汗を修吾は手の甲で拭った。 柚子は頼りない肩からは想像できないほど、しっかりとした足取りで歩いている。 「バテた?」 彼女の声。 修吾はすぐに小さく首を振った。 「暑いだけ」 「……暑いのは嫌い?」 「嫌い」 「……ふふ」 「何?」 「やっぱりって思っただけ」 会話はほんの少しと。 とても短くて。 けれど、ほわんとくすぐったい空気がそこにあふれだす。 柚子はそういう不思議な間を持っていた。 二又路まで来て、柚子はその場に荷物を置き、片側の道を駆けていった。 黄色いバケツだけ持って、水を汲みに。 修吾はその後姿を見つめて、つい奥歯を噛み締めた。 思った以上に緊張している自分がいる。 元々、自分から話題を振るタイプの人間ではないのだから、それは仕方ないと思うのだけれど、自分なんかと話していて、彼女は退屈ではないだろうかと、そんな要らない不安が心の中を渦巻いていた。 白いセーラー服は柚子の綺麗な黒い髪によく似合っている。 屈んでバケツに水を汲み、その後、コクコクと幾分かの水を口に含んだようだった。 修吾は柚子を見つめ続けることが悪いことのように思われて、野良道に視線を落とした。 柚子が慎重にバケツを持ち、こちらへと戻ってくる。 ニッコリと笑って、 「さ、行こ」 と修吾を促してくる。 バケツを一度地面に置き、画板を肩に掛ける柚子。 修吾は黙ったまま、置いてあるバケツを手に持った。 「え、に、二ノ宮くん?」 「……持つよ」 慌てたように柚子がこちらを見上げてきたが、修吾はとても無愛想な顔でぼそっとそう言った。 その声には有無を言わさない間があったが、正直、もっと愛嬌があってもいいと、舞や勇兵がいたら突っ込まれそうなほど、ぞんざいだった。 柚子が困ったように修吾を見、それから水彩道具を持ち上げた。 視線は重ならずに、再び歩き出す。 修吾は学生鞄を持ち直し、バケツを持つ手にきゅっと力をこめた。 ポソリと、横から聞こえる。 「ありがとう」 その声がくすぐったくて、修吾の鼓動が徐々に早まる。 自分は間違いをしていないだろうか? 正解や間違いなんて、やり取りにはありもしないことをわかっているのだけれど、不安になる。 困ってしまう。 蝉の鳴き声を近くに感じた。 少し山に近づいたからだろうか。 けれど、普段思うように騒々しいとは思わなかった。 修吾の意識が少しだけぼんやりと膜の掛かった世界にいたからなのかもしれない。 柚子が早足で修吾の後ろをついてくる。 修吾は柚子のその様子には気が付かずに歩き続ける。 気遣えるほどの余裕がなかった。 修吾は背中を伝う汗を感じながら、ただ坂道を登ることしか出来なかった。 野良道を抜けて、坂のてっぺんまで来た。 柚子がすぐに荷物を下ろすので、修吾はその傍にバケツを置いた。 修吾は顔に浮いた汗を、鞄を持っていたほうの袖で拭った。 チョイチョイ……と、柚子が修吾のシャツを引っ張ったので、修吾は彼女のほうに顔だけ向けた。 「何?」 柚子はにこぉと笑って、クルリと修吾に背中を向けた。 修吾は意図がよくわからずに振り返り、そこでようやく彼女の意図を察した。 特に高い建物のない町並みがよく見えた。 そして、町並みの向こう側には海がキラキラと輝いており、遠くには小さな島々がいくつも見える。 少しばかりオレンジ色に変わり始めた空は、透明な青とオレンジが混ざって、不思議な色を作り出していた。 蝉の鳴き声が少しだけ近くなった。 「すごいでしょ?」 修吾が少しばかり驚いたような目でそれを見たのがわかったのだろう。 柚子は肩越しに修吾を見て、誇らしげに笑ってそう訊いてきた。 ハンカチで額を拭い、柚子は上気した赤い頬を冷ますようにヒラヒラと手団扇で扇いでいる。 「ふー……暑い……。涼しいって言っても、夏、だね」 そう言う彼女の横顔も、修吾はその景色にマッチしているように感じた。 胸に切なさが込み上げる。 胸が苦しくなって、喉も息苦しさに支配された。鼻がツーンとして、本当に……これが切なさかと、修吾は初めて思った。 そして、そんなことを感じている自分自身が恥ずかしくて、このまま消えてしまいたいとも思った。 「私は、今から暗くなるまで絵を塗るけど……二ノ宮くん、何描く?」 「本当に、オレ下手なんだよね」 修吾は真面目な声で言った。 柚子はその言葉に、にこり、と笑う。 「描きたいものを、描きたいように描く」 「え?」 「ルールなんてないし、決まりごともない。絵は、自由な世界だから」 さわりと風が吹いて、彼女の前髪を揺らした。 彼女は、修吾に一言を紡ぎだす時、まるで何かに恵まれているかのように、暖かな間をもたらす。 「でも、題材はないって言ったら、きっと二ノ宮くんは困るね」 柚子はすぐにそう言葉をかぶせた。 真面目すぎる修吾の性格を察してのことだろう。 「……それじゃ……自分の夢ってのはどうかな?」 「オレの、夢?」 「うん。そのものズバリでもいいし、抽象的でもいいよ」 柚子は水彩道具の中から、小さなスケッチブックと鉛筆を取り出して、修吾に手渡してきた。 ゆっくりと草の上に腰を下ろし、カチャカチャと絵の具を取り出して、景色を見つめる柚子。 どの色で表現しようか考えるように、今まで見たことのない真剣な眼差しがそこにあった。 「……嫌じゃなければ、少し見ててもいい?」 「え?」 「人が絵を描くところって、そんなに意識して見たことなかったから」 坂を登って少し体が疲れていたのもあったろう。修吾はごく自然にそんなことを言うことが出来た。 柚子は目を細めて迷うように目を泳がせたが、すぐにお茶目にニヘラッと笑った。 「別にいいよ。……あ、ここね、日が沈む前が一番綺麗なんだ」 「夜の色になる前?」 「……うん。夜の色になる前」 修吾の言葉に少し驚いたように眉を上げたが、柚子は柔らかく返してきた。 「何か、不味いこと言った?」 「ううん。素敵な表現だと、そう思っただけ」 絵を描き始めた柚子の表情は、話している時の和やかな感じでもなく、クラスの中で静かにしている彼女でもなかった。 そこには、彼女の世界があった。 色味の差した日の光に照らされて、彼女のその表情は何よりも美しかった。 修吾は……ゴクリと唾を飲み込んで、少しだけ彼女と距離を取って腰を下ろした。 修吾の心ごと、彼女はさらってしまった。 怖い。 こんなにも、創作に没頭する者の表情を怖いと感じたことはない。 スランプに陥ってしまった修吾が、一番見てはいけないものだった。彼女のこの表情は、見てはいけなかった。 惹きこまれる感覚とともに、柚子への畏怖感を覚えた。 「わたしね」 「うん?」 「絵描きになるのが夢なんだ」 「……そっか」 なんとなく、それは感じていた。 柚子の表情は、本当に……本当に、それと座して対した時の、真摯なものだったから。 「二ノ宮くんは、どんな夢があるのかなって、そう思ったから」 「…………」 「だから、課題は夢」 「はは」 「でも、描きたくないなら、描かなくてもいいよ」 「え?」 「なんとなくわかってる。二ノ宮くんは、不言実行の人」 「…………」 「自分の中の決意を、決して声には出さない。勝手なイメージだけど、でも、これだけは外れてない自信あるの」 夢を描いて100点満点……というのは、一体いくつまで許されるだろう? ……それを知りたかった。 好きな進路を選べなかった兄の背中がちらついた。 修吾は……それを見て、子供心に気付いてしまった。 僕もいつかそういう目に遭うんだ、と。 父という壁がそこに立ちはだかって、きっと、弱い僕はそれに勝つことも出来ない。 そう……思っていた。 だったら、誰にも悟られずに、自分で生きられる力を持ってから、それに立ち向かえばいいんだと……思った。 そうであれば、誰にも迷惑を掛けない。 母だって、気に病んだりすることなく、生きられる。 けれど、修吾の計画は全然上手くいかなかった。 そう悟ったその時から、修吾の翼は……まるでイカロスの翼のように、小さく小さく……飛ぶことができないのが当然なように、形を失ったのだ。 見えない翼はノートの上に。 空の上を風切って走る。 そこにあるのは自由な世界だった。 それを描き出すのは、自分の左手だった。 そこに描かれるのは、自分でも恥ずかしくなるようなキラキラした綺麗な世界で。 現実の自分とは全く異なった、奔放で、自由で、……誰よりも前を走り続けているようで。 修吾は読み返す度、そんな過去の自分に焦がれた。 賞をもらってもぶすっとしていた。 その分、母が喜んだ。 その喜びを、修吾は文章に変える。 何度も何度も、それが繰り返される。 綺麗な世界は、綺麗な感情のやり取りから生み出されたのだ。 だから、そこに一点の曇りが、一点の歪みが生じた瞬間、修吾の翼は急激に力を失った。 「渡井さん」 「何?」 「ご両親は反対しない?」 「……ママはいいって言ってる。パパは難しい顔をする」 「そっか」 「でもいいの」 「え?」 「そのうち、わかってもらえるって、思うから」 「自信、あるんだね」 「ううん。これしかないの」 修吾の言葉に柚子は大きく首を横に振った。 パレットの上に出来ていく、いくつもの色の組み合わせ。 「これしかないって、わたしはそう思ってる。これをやめたら死んでしまう。泳ぐのをやめたら死んじゃうマグロみたいに、自分は……描き続けるしかないの」 「マグロか」 よりにもよって、なぜそんな表現なのかと、修吾は噴出してしまった。 「マグロは、泳ぎ続けることを疑問には思わないんだろうか?」 修吾は静かに言った。 「疑問に思ったその時が、死ぬ時」 柚子が澄んだ声で酷なことを言った。 「とても残酷だけれど、その生き方は愚かかもしれないけれど、それでも……」 「そう運命づけられているのだと思うと、たまらなく羨ましくなるね」 「そう。そうなの」 柚子は笑顔でそう言い。 修吾は、本当にたまらなく羨ましくなった。 「二ノ宮くんの心の炎は、どんな風に燃える?」 「…………」 「綺麗なカンバスに、色んな色を描くように、色んなことをして、色んな人と出会って、……きっと、二ノ宮くんは心の中に、綺麗な世界を作り出すんじゃないかなぁって思うな」 「なんだか、買いかぶられてる?」 「ううん。買い被りじゃないよ」 「そう?」 「あは。わたしの心は無色彩」 「え?」 「無色が私の彩。どの彩にも染まらない。そう決めてる」 彼女は……そう言って、本当に屈託なく笑った。 その笑顔はほのかな恋を知った修吾には十分すぎるほど可愛くて、……けれど、夢を追っているのか追っていないのかが中途半端な自分自身を、惨めにするような……そんな残酷さも持ち合わせていた。 修吾は弱い。でも、渡井柚子という人は強い。 彼女の光は……あまりにも眩しくて、修吾を惨めにする。 ……けれど、ようやく、走り出せる……そんな気がした。 いつだって、些細なことから始まる。 誰かに誉められたいとか、誰かに知ってもらいたいとか、ほんの些細なものが元になる。 色々な色を重ねて一枚の絵が完成するように、色々な経験や知識を重ねて修吾の目指すものは出来上がるのかもしれない。 ただ、綺麗なものだけではなく、色々な……例えば汚いものでもそこに取り入れて、描ける世界がある。 自分にしか書けない『何か』はきっとある。 柚子との会話は、修吾に、ほんの少しの勇気をくれた。 昔、修吾はこんな話を書いた。 幸せの欠片を探す男の子の話だ。 希望に満ち溢れたその話を、先生がコンクールに出展してみないかと薦めてくれて……それから、修吾の夢が始まった。 幸せの欠片はどこにでも落ちている。 気づくか気づかないか。 違いはそれだけで。 欠片が散らばっているから、世界はたくさんの彩を持つのだと。 子供ながらに、自分はそんなことを書いた。 そっと目を伏せ、子供の時に抱いたようなわくわくとした、湧き出してくる熱を受け止めた。 この感情を知っている。 書きたいという気持ちだ。 書かないと、という義務感じゃない。 心から紡ぎ出したいという、純粋な気持ち。 ドクンと鼓動。 柚子が真剣な表情で筆を水につけた。 修吾は、その様子をただ隣で見つめていた。 |