◆◆ 第2篇 残夏・見送る夏と隣のキミに ◆◆
Chapter4. 車道 舞side
子供の頃。本当に子供の頃だ。 よくからかわれた。 勇兵は、舞が好きだと。 けれど、舞はそんなことはどうでもよかった。 舞にとって、勇兵は悪友なだけだったから。 勇兵も、そんなことを言われる度に大笑いして、『それはないない』と言い切る日々が続いた。 小学生の頃のそういった噂というのは本人たちが動じるから面白いのであって、どちらも無反応であると、いつの間にか掻き消えになるものらしい。 だから、そういった話があったのがいつのことだったのか、今では思い返すのも難しい。 ただ、よく覚えているのは、中学の頃、ふとした拍子に『勇兵』と呼んで、ザラザラッとした女子の視線をなんとなく感じたあの瞬間のことだろうか。 それ以降は、ただ悪友なだけの、あの人畜無害のレトリーバーを呼ぶことを気にかけなくてはならなくなった。 人畜無害どころじゃない。 扱い方を間違えたら、自分まで病院行きだ。 ……本当に、そういう面倒くささは、いつでも付き纏ってくる。 どうでもいいと割り切ってしまえば強いけれど、自分だけではないから、……できないこともある。 修吾に伝えた感想で、ひとつだけ思っていたことを伝えていなかったことがあった。 それは伝える必要性がなかったからだし、自分でも言葉にしてしまったら、重たくなりそうで言わなかったこと。 ……困ったことに、杉子のような女に惹かれる人間の気持ちは、よくわかる、というところだけは、言うに言えなかった。 言ったところで、それは不自然ではなかったろう。 けれど、舞にとって、その言葉は禁句だった。 サラリと髪を掻き上げて、ふーとため息を吐く舞。 今は体育の時間で、目の前ではバレーの試合が繰り広げられている。 ……といっても、楽しそうでほのぼのとしたバレーだけれど。 舞は半袖の袖を軽く折って、こもる熱を少しばかり外に逃がした。 もうそろそろ秋さんこんにちはかと思えば、暑くなるから、天候というのは侮れない。 「あつ……」 「体育館は、熱がこもるからねー」 脇にはほのぼのーとした女子が1人。 まるで茶でもすすっているかのように、のほ〜んと言う。 舞は柚子を横目で見て、ふっと笑った。 「今日の見学の理由は何?」 「怪我したら絵が描けなくなるので」 「ストレートね」 「……うん。だから、体育の成績が悪いのは仕方ないねぇ」 そう言って、ほわんほわんした空気を放つ柚子。 体育の成績なんて、それほど査定に響かなそうだから、問題ないといえば問題ないのだろうけれど。 どこまでも絵優先な柚子は、見ているこちらが惚れ惚れする。 「どのみち、ちゃんと出ても、へたくそだしね」 「う……」 柚子が舞の言葉にすぐに傷ついたように小さな胸を押さえた。 「どうせどうせ、わたしは舞ちゃんみたいに、頭も良くなければ、類稀な運動神経もないですよぉ」 ふーんと、柚子はわざとらしくいじけてみせる。 舞はその言葉に特に何も返さなかった。 ただ、ぼぉっと柚子の横顔を見るだけ。 「舞ちゃん……?」 「ん?」 「どうしたの?」 「……別に」 舞は静かに言うと、バレーボールの行方を目で追った。 気がつくと、ため息が出そうになる。 だから、それを飲み込むので時々忙しくなるのだ。 「舞ちゃんさ……」 「ん?」 「あの、聞いていいのかわかんないんだけど……」 「うん……何?」 「”あの人”と一緒にいるの、最近よく見るけど……大丈夫なの?」 舞はその言葉に少し動きを止めた。 柚子が、舞の相手がどれであるのか、そこまでは察しがついていないものだと思っていた。 けれど、違ったようだ。 「……うん……」 舞は少しの間の後に、なんとか頷く。 「……舞ちゃんが、辛くないならいいけど」 「楽しいよ」 「そっか。そうだよね。最近、舞ちゃん、可愛いもんね……。気にしたら、駄目か」 「ふふ。心配してくれてありがと」 舞は可愛く笑ってそう言うと、柚子の頭を軽く撫でた。 柔らかな髪質が、手の平を通して伝わってくる。 「あたしは感謝しなくちゃいけない」 「え?」 撫でられながらも、柚子がこちらを可愛らしく見上げてくる。 「この気持ちを、まだしばらくは持っていてもいいのだということに」 「……それじゃ……」 「”あの子”も、見定める期間が欲しいって」 すっと目を細めて、視線を逸らしながら言った。 気恥ずかしくて真っ直ぐなんて見れるはずがない。 「そうだよね」 「…………」 「柚子には、言わなくちゃ駄目だったね」 柚子の頭を撫でていた手を、そのまま自分の額に持っていって、俯いた。 心配をかけていたこと。自分は全く無自覚だった。 「ごめん……」 「ううん。違うの。……ただ、気に掛かっただけだから」 柚子はほんわりと言うと、よしよしと舞の頭を撫でてきた。 舞はそれに驚いて顔を上げる。 今まで、柚子に撫でられたことは一度もなかったのだ。 「わたし、馬鹿だし、鈍感だし……出来ないこと山ほどあるけどさ。でも、舞ちゃんのこと、一番に思いやれる人でありたいって、思うんだ」 「柚子……」 「わたしの世界は彩がなくて、何にも染まらないで、外の世界をただひたすら映し出す、鏡のような世界。……そう、思ってた。そう生きれば、楽だって」 柚子がすっと目を細めて、そして、微笑んだ。 「でも、ある日映し出した世界に、わたしは関わりたくなった」 「…………」 「それが、舞ちゃんだったの」 柚子は季節外れの春風だ。 本当に、そう思う。 聞いててこちらが恥ずかしくなるようなことを、いとも容易く口にして、それなのに、その言葉の非凡性に全く気がつかない。 思いをストレートに帯びたその言葉は、どれだけの威力を持って、相手に届くのかを、当の本人は全く自覚していない。 「ゆ……」 「車道さ〜ん! 次、うちらのグループだよ、試合〜!!」 「あ、はーい! 今行く」 クラスメイトの声に、舞はすぐに自分を立て直して、返事をした。 本当は言いたいことがあったけれど、それはすぐに消えてしまった。 忘れるようなことなら大したことがないのか、それとも、言葉になりきれていない気持ちだったから、すぐに消えてしまったのか、どちらなのかはわからない。 「頑張って」 「ええ、程々にやってくる」 「舞ちゃんの程々は、私の全力より凄いからなぁ……」 柚子はクスリと笑ってそう言い、ゆっくりと壁にもたれかかって、ズリズリと床に腰を下ろした。 「ま、6限だし、本気出してもいいけどね」 「……本気、見たことないや」 「そう?」 「うん」 「見たよ、柚子は」 「え?」 「柚子は、あたしの本気を見て、受け入れてくれたじゃないの」 舞は優しく笑ってそう言い、タタタッと駆け出した。 どんなにクラスメイトと馴染むようになっても、これだけは絶対に譲れないものがある。 柚子の隣は舞のもので、舞の背中をしっかりと見守ってくれるのは、柚子だということ、だ。 体育用具を片付けて、舞はだるそうに表情を歪ませた。 掃除当番の柚子はさっさと校舎に戻ってしまったので、舞は一緒に用具を片付けた女子の集団に混じって、ふらふらと歩いていく。 時折、話を振られて談笑し、クラスのうざい男子の話題で盛り上がった。 意外だったのが、1学期、修吾の前の席だった堂上ヒロトは女子には嫌われているということ。 あまり話をしたことはないが、身奇麗にしていていつも男子の中心にいるような男だったから、それなりに女子にもウケがいいと勝手に思っていた。 「アイツ、絶対オレオレだよね。オレの話聞いて聞いて! みたいなの」 「だよ。だって、時々、二ノ宮くんが相槌打っても、スルーしたりするじゃん? 時々聞こえてきてイラッとする」 「……そうなんだ」 舞は女子の情報網もなかなかに侮れないなぁと思いながら、話を聞いていた。 「つーかさ、聞いた話なんだけど、堂上、二ノ宮くんのこと嫌いらしいよ」 「……あれ、そうなの? えぇぇぇ……なんか、女々しくない? 男の子ってそういうのあんまりないと思ってたんだけどなー」 「聞いた話でしょ?」 舞はすぐにそう言った。 その言葉で、シーンと女子が静まる。 「まぁねぇ……。そうだといいなぁ。だって、二ノ宮くん、可哀想だもん。ウチのクラスじゃ、一番堂上と話してるのにさ」 「だよねぇ」 「うん」 ニノもてるなぁ……と心の中で呟きながら、すっと視線を動かすと、ちょうど視線の先に清香の姿が映った。 困ったように木の上を見上げていたが、女子たちの声でこちらを向いた。 舞と視線が合う。 明らかに助けてオーラを出しているので、すぐに舞は輪を抜けた。 「お嬢様、どうなさいましたか?」 舞はふざけるようにそう尋ねる。 清香は少しだけ笑いをこぼして、すっと木の上を指差した。 それに沿うようにゆっくりと木の上を見上げる。 すると、ニャーと猫の鳴き声がした。 「猫?」 そう言うと、清香はコクリと頷いた。 「……が、どうしたの?」 「降りられないみたいなの」 「……だって、あれ、猫でしょ?」 高いところから飛び降りるのは得意分野な生き物だ。 むしろ、それが取り柄とも言える。 「目が合っちゃって」 「……はぁ」 時々、清香の言うことは意味が分からない。 「で、私がいなくなろうとすると……」 舞が自分の言いたいことをわかってくれないと思ったのか、少し木から離れてみせる清香。 すると、突然、ニャーーーーーーニャーニャー! と騒ぎ出す木の上のうるさいやつ。 「というわけ♪」 なぜか得意そうに笑う清香。 舞は頭を抱えて、とりあえず、ちょいちょいと手招きした。 猫がようやく黙る。 清香が不思議そうに舞を見つめているので、すぐに中指を親指で押さえて、彼女の額の前に持っていった。 デコ、ピン! ピシッと音がして、清香が地味に痛そうに額を押さえた。 「……いたい……」 「猫にまで惚れられるな、ばか」 「……知らないよ。目が合っただけだもの……」 困ったように清香が言う。 舞はふーとため息を吐き、まだ清香が制服なので、すぐに尋ねた。 「今日、部活は?」 「ある」 「じゃ、無視無視。こういうのは自己責任。つか、むしろ、自分で降りろ、猫なんだから」 本当に呆れたように言う舞に、清香は決意するかのようにきゅっと手を握り締めた。 「わかった」 「何が?」 「くーちゃんがやってくれないなら、私がやる」 「お嬢さん、あたしに登らせる気だったのか……」 いい度胸してんねぇとでも言いたげな口調でそう言い、ニィッと舞は笑った。 「くーちゃん、運動神経いいから行けるかなぁって」 「……男子に頼もうよ」 「だって、なかなか通らないから……」 「まぁ、こっちの道はあんまり通り道に使わないしね」 舞は髪を掻き上げ、すっと目を細めた。 とりあえず、柚子ほどではないにしろ、抜群にとろいこの人に木登りなんて無理。 もう一度木を見上げて、舞は考える。 それほど高くないといえば高くないが、低いかと言われたら低くもない。 登る分にはいいが、降りられるかが問題だ。 舞はすっと周囲を見回す。 本当に、素晴らしく人がいない。 「そういえば、どうして、こっち来たの? 部室棟向こうだし、テニス部のグラウンドもあっち側でしょ?」 「……あ、うん……」 清香は少し言葉を選ぶように黙り込んだ。 舞はきょとんとして、彼女を見つめる。 柔らかい面差しをほころばせる清香。 「くーちゃん、今日体育だと思って」 「……ん?」 「……それだけ……」 「…………?」 「えっと、特に、用はない」 「顔見に来てくれたの?」 「………………」 「そうならそう言って」 「……うん」 恥ずかしそうに言う清香を見つめて、舞はふーとため息を吐いた。 天然なのか意図的なのか。 どちらでも良いが、清香は自分をやる気にさせるツボを本当に心得ている人だ。 「しょうがないなぁ……じゃ、将観堂(しょうみどう)のミックスジュースでやってやろう」 「え?」 「登るから、離れてて」 「で、でも……あの、やっぱり、男子に頼んだほうが……」 「体よくジャージだし、なんとかなるよ」 「でも……」 「気になる子は放っておけないんだから、清香は」 舞はうーんと伸びをして、スタスタと木に近づき、幹を軽くさすった。 枝もすぐ手の届くところにあるし、行ける……? ぐっと伸びて枝を掴み、ゆっくりと幹に足の裏をつける。 「くーちゃん……」 「ちょっと黙っててね。木登りなんて10年ぶりくらいだから、集中しないとできない」 できるだけ余裕を見せるように、いつも通り茶化すように言うと、腕と足に同時に力を入れて、一歩幹を登った。 ギシッと木が揺れる。 猫が驚いたのか、ニャーニャー騒がしくなった。 「ったくうるさい。出来ないならはじめから登るな……動物だろうが」 1人ごちて、次の枝に手を伸ばし、足を動かす。 それを繰り返して、どんどん上へと登っていく。 結構集中力を要するため、汗がツーと額から鼻筋を通って流れた。 「えっと……次の枝……」 猫がいる枝に手を伸ばそうと思ったが、そうすると逃げてしまうので、別の枝を探すように首を動かした。 首の裏が少しピリピリしてきた。 慣れないことはするものじゃない。 なんとか、猫のいる枝と同じ高さまで上がり、すっと左手を伸ばした。 「おいで」 そう言って、柔らかく笑いかける。 この猫は相当愚かだが、頼る人間を誤らなかった。 その点だけは、非常に評価できる。 怯えるようにこちらを見ているので、しょうがなく、猫の体をゆっくりと持ち上げて引き寄せた。 すると、下が見えたのか、ガタガタと体を震わせて、舞の腕にしがみついてきた。 「ちょ……待て待て。落とさないよ……ちょっと。お願いだから落ち着いて……」 ただでさえ、無理な姿勢でいるのに、片腕の中で暴れる猫の動きに耐え切れずに、舞の枝を掴んでいる指が滑った。 「げ……」 舞は冷静にその声を発した。 支えを失った体が、背中から落ちていく。 自分は猫ではないから、ここから体勢を戻すなんて出来るはずもない。 ああ、カッコつけようとなんてしなきゃ良かった。女なんだし。 そんな言葉が心を過ぎる。 「くーちゃん……!」 清香の悲鳴に近い声が響く。 重力には逆らえず、落ちる体。 意味もなく、猫だけ抱き締めた。 ……………………。 ガスッと地面に落ちることはなかった。 何か、クッションのようなものを下に感じて、舞は慌てて目を開ける。 まさか。 「清香……?!」 「ざ〜んねん。みんなのアイドル・勇兵でぇす」 へへっと笑いながら、そんな声が下からした。 舞は驚いて、すぐに地面に手をついて立ち上がり、猫を抱き締めた。 地面に寝転んで、おかしそうに笑っている勇兵。 ジャージはジャージでも、バレー部のジャージを着ている。 ああ、そういえば、コイツバレー部だ。 舞は心の中で呟いた。 「な、なにやってんの、あんた」 「何って……華麗なレシーブでしょ?」 にへっと笑ってそう言うと、勢いよく跳ね起きて、ズボンについた土をパンパンと払う。 「何やってんのかなぁってよく見たら、遠野とシャドーだったからさ」 土を払い終えてから、擦ったせいで少し穴が開いた部分を気にするように指でなぞっている。 「あ、でも、遠野も飛び出そうとしたのよ? 俺が割って入って、そのまま突っ込んでセーフ! よかった、俺バレー部員で」 ようやく、そこで勇兵は上体を起こしてこちらを見た。 舞は呆然とその様子を見上げる。 清香もゆっくりと立ち上がったところだった。 「割って入ったっつーか、チョイ押しちまったんだけど、だいじょぶ?」 「あ、うん。でも、よかった……私じゃ、クッション、なれなかったかもしれないし」 「いや……というより、突っ込んじゃ駄目よ。危ないでしょ」 勇兵と清香のやり取りに、舞はすぐに突っ込んだ。 勇兵がそれを聞いて、素早く2人にチョップをかましてきた。 清香は何が起きたのか一瞬分からなかったようで、驚いたように目をきょとんとさせた。 舞はすぐさま頭を押さえて叫ぶ。 「何すんの?!」 「女子が無茶するな、アホー!」 「?!」 「勇兵、ちょっと、肝が冷えましてよ!」 真剣な声で、少しばかりしなを作るので、本気なのか冗談なのかがわからずに、舞は一瞬たじろいだ。 「いや、マジで。無茶すんな。猫は体やらかいからちょっと落ちたくらいで死なねぇよ! どうすんだよ、一生消えないような傷出来たら!! 無茶したらダァメ!」 顔も声も真剣そのものだったので、舞は考えるように唇を尖らせた。 そして、目を細めて俯き、はぁっとため息を吐き、髪を掻き上げた。 「なんだよ」 「や。サンキュ」 舞がぽそっと言うと、警戒するような動きを見せた勇兵もすぐにニッカシ笑った。 「将観堂のミックスベリージュースでいいぜぇ」 「……あー、はいはい。いいよ」 「マジ?!」 「清香のおごり」 「へ?! え、いや、遠野? え?」 「うんー。そだね。私がおごるよ」 「そ、そっか? ま、まぁ、いいや。じゃ、そのうちな。俺、そろそろ時間だから」 勇兵はそう言うと、タタタタッと急ぎ足で駆けて行った。 それを見送ってから、清香が静かに言った。 「ごめん、無理させちゃって……次からはくーちゃんに頼らないから」 清香が反省したような目でそんなことを言うので、すぐに舞は猫を突き出して手渡した。 「ありがとう、くーちゃん」 猫を受け取って、にこっと笑う清香。 なので、舞は言い添えた。 「そゆこと言わないで」 「え?」 「……相談くらいは、して」 舞の言葉に、清香が唇を可愛く尖らせた。 そして、形のいい唇をふわりと動かす。 「うん、勿論」 と。 ……自分にとっての杉子は……この人。 舞はすっと目を細めて、手とは反対側の肩にそっと触れた。 |