◆◆ 第3篇 篝火・たこ焼き弾丸ストライク ◆◆

Chapter1. 遠野 清香side



「別れよっか」
 先輩は軽い調子でそう言った。
 中学の頃の話だ。
 ……まだ中学1年で、恋も、付き合うも、よく理解していなかった頃の話。
 告白されるままに、清香は押し切られる形で3年の先輩と付き合い始めた。
 けれど、そんな曖昧な態度で始まった関係が、上手く続くはずもなく、別れを切り出してきたのは、告白してくれた先輩のほうだった。
「遠野、オレのこと、そんなに好きじゃないよな」
「そ、そんなことは……」
「いいっていいって。無理しなくて。オレもさ、イメージだけで告ったとこあるし。そのへんはお互い様ってやつだと思う」
「…………」
「……それでも、少しでも近づけたらって思ってたけど……」
 先輩は悲しそうな表情でそこまで言って、そこからは言葉にせずに、息を吐き出した。
 清香は静かに頭を下げる。
「ごめんなさい」
 それしか言えなかった。
 きっと、先輩は先輩なりに、時間を費やして、労力を費やして、清香を理解しようとしてくれていた。
 けれど、当の自分は、素を出すこともせず、ただ静かに先輩の言葉に頷いていただけ。
 自分が物静かに相手の言葉を受け止めていれば、誰も傷つけることがないと思っていたけれど、そんなことはなかった。
 自分の態度は、先輩を傷つけた。
 これならば、告白された時にはっきりと断りの言葉を告げるべきだった。
『俺はガキには興味ねーんだよ。お前みたいなガキが俺に釣り合う訳ねーだろ』
 5年前の記憶が過ぎって、泣きそうになった。
 けれど、この場で泣けるわけはなく、清香は先輩が立ち去るまで、何度も何度も「ごめんなさい」を言い続けた。


 初恋は実らないもの、とはよく言ったもので。
 清香の初恋も、それはそれはいとも容易く砕け散った。
 初恋の相手は、同じピアノ教室に通っていたお兄さん。
 8歳の年のバレンタインに、チョコを持って、告白をした。
 自分でもませているとは思うが、その時の想いは本物だった。
 けれど、お兄さんは子供相手だろうとなんだろうと関係なく、清香に容赦ない言葉を放ち、チョコすら受け取らずに去っていった。
 それ以来、清香はお兄さんとレッスンの日をずらした。
 その後、お兄さんがどうなったかは知らない。
 ただ、とてもピアノの上手な人で、コンクールでもいくつも賞を取っていたから、きっと今頃は音大にでも進んでいるのではないだろうか。


 1人教室で物思いに耽っていると、ブレザーの上着を小脇に抱えた舞が教室に入ってきた。
「あれ? 遠野さん? 何やってんの?」
「ああ、車道さん……か」
「どしたー? 暗い顔して」
「ん……振られちゃった」
 清香はなんとか笑ってそう言ったつもりだったが、どうやら笑えていなかったようで、舞が少々表情を堅くして、こちらに近づいてきた。
「あの、先輩?」
「……実質、振られたというよりは、振られる状況に私がしてしまったんだけど」
「ふーん」
 舞は興味があるのかないのかわからないような反応をして、清香の席の前の椅子に腰掛けた。
 その頃は、それほど仲が良いという認識はなかった。
 だから、どうして彼女にこんなことを話しているのだろうと、自分でも少し戸惑った。
「駄目だねぇ……上手くいかなくて」
「しょうがないよ」
「そうかな?」
「こればっかりはしょうがないよ」
「……そういえば、車道さんも、前、2年の先輩と付き合ってなかったっけ?」
 清香は思い出したように目を細めてそう言った。
 入学してまもなくの頃の話だ。
 だから、結構周囲でも噂になった。
 けれど、すぐにめっきりその話を聞かなくなったので、その後どうなったのかは知らなかった。
「ああ、あれかー。あれ、付き合ったとかそんな大層なもんじゃないよ。単に、帰る方向が一緒だっただけ。……でも、相手はそれなりに盛り上がってたみたいで、後が大変だったなぁ。なんでか知らないけど、学年じゃ人気者だったらしくて、2年の女子が次から次へと来てさぁ。あたしは適当な関係になっちゃう前に結論出しただけなのに、あたしが悪者扱いなんだもん。しばらくこりごりね。しかも、どうでも良い相手で、あんな苦労するのは二度とごめん」
 舞は思い出すことすら煩わしいような表情でそう言った。
 清香はそれを見つめて、羨ましくなった。
 それくらい言えるような人間だったらどんなにかいいだろうと。
 きっと、こういう人間だったなら、あのお兄さんだって、自分のことを、ガキ、だなんて言いもしないだろう。
「好きだったの?」
 舞が静かな声でそう言った。
 眼差しは気遣うように優しい。
 いつも、クラスの中心にいる彼女が、清香のことだけを見つめている。
 清香はふるふると首を横に振った。
「そっか。じゃ、あんまり気にすることないって」
「でも」
「ぅん?」
「私、酷いことしたなぁって」
「好きでもないのに付き合ってたこと?」
 舞は的確に清香の気持ちを突いてくる。
 だから、清香はただ頷くだけでよかった。
「一緒にいてみないとわかんないこともあるし。しょうがないって」
「……対等じゃなかったって思って」
「対等?」
「先輩ばっかり頑張ってたって思って」
「……うーん。でも、しょうがないでしょ。先輩に魅力がなかったんだよ」
「え?」
「遠野……清香の心を掴むほどの魅力がなかった。だから、しょうがないの」
 わざわざ名前で呼んでくれた舞の暖かさに、清香は一瞬心が弛緩するのを感じた。
 クラスの中心に彼女がいられる理由が、こういう時だからか分かった。
「しょうがないことを悔やんでも、勿体無いぞ」
 舞は優しい声でそう言って、クシャクシャと清香の頭を撫でてくれた。
 清香は静かにされるがままの状態で、舞を見つめる。
 綺麗な黒髪。長い睫。整った顔立ち。
 自分とは全く雰囲気の違う綺麗さを持った彼女を間近で見るのは初めてのことだった。
「……うん……」
 すごく間を空けて、清香はようやくそう声を発し、その声と一緒に嗚咽が漏れた。
 舞は頬杖をついて、清香の頭を撫でながら、清香の涙が止まるまで、ずっと傍にいてくれた。



「好きです、付き合ってください」
 真っ直ぐな声。
 シンプルな告白。
 なんとなく、察していた空気。
 校舎裏に呼び出されるのも、もう何度目か。
 清香は静かに目を細め、すぐに目の前の男子を見つめた。
 何度か話しかけてくれたことがあったけれど、クラスも違うし、苗字しか知らない人。
 酷い振り方にはならないように。
 それでも、きちんと自分を持った返事を。
 清香は息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「ごめんなさい」
「駄目ですか?」
「あなたが駄目なのではなく、私にそういった気持ちがないんです。だから、ごめんなさい」
「試しに付き合ってみるとか」
「ごめんなさい。出来ません」
「でも……」
「中途半端は好きじゃないんです」
「……意外と、芯強いんだ……」
「……ええ。だから、やめておいたほうがいいですよ?」
 清香はふっと口元を緩めて、優しく微笑んだ。
 彼は困ったように清香を見つめて、けれど、特に悪びれることなく、納得したように頷いて立ち去っていった。
 去っていく背中を見送って、少し心許ない気持ちになっている自分自身を支えるように、きゅっと拳を握り締める。
「もてるねぇ、清香」
 そんな声が頭上でした。
 驚いて、清香は顔を上げた。
 2階の窓から舞が身を乗り出している。
「く、くーちゃん、何やってるの?」
「え? 部活サボって外見てたら、急に告白タイムに入っちゃったもんだから、閉めるに閉めらんなくて」
「……見てたの?」
「わざとじゃないよ」
 舞はサッシに肘を乗っけて頬杖をつき、にんまりと艶っぽく笑った。
 風が吹いて、長い髪がサラサラと頬にかかる。
 その仕草ひとつひとつが、中学生とは思えない。
 車道舞という人は、そういう印象を周囲に与える。
 清香が懸命に演じる大人のような雰囲気を、舞は当然のように持ち合わせている。
 ここだけの話、やっかみでしかないが、そういう面では、清香は舞が好きではなかった。
 羨望と嫉妬。
 その2つが混ざり合ったところに、車道舞はいる。
「ここ、人来ないし、涼しいからお気に入りでねぇ。ま、その分、見たくもない場面に遭遇してしまうこともあるんだけど」
 ふふっと可愛らしく笑って、舞は優しい目で清香を見下ろしている。
「見たくもない場面見せてごめんね」
「いいえ、修羅場じゃないから別に。まぁ、また清香が先輩女子に絡まれてるところだったら、助けに入ってあげてもよかったけど」
「くーちゃん」
「何?」
「私、そんなに絡まれてばかりじゃないよ?」
「ふふー、まぁねぇ。でも、去年は凄かったからさー。1年ってあんなに肩身狭いもんだったんだねぇ。小学校じゃ出来ない体験させてもらったよ、ホント」
 舞は楽しそうに笑ってそう言ってから、そっと周囲を見回して、ゆっくりとこちらに向き直った。
「清香、今日部活は?」
「ないよ」
「そっか。じゃ、一緒に帰ろ」
「くーちゃんは部活あるんでしょう? サボってばかりは駄目だよ」
「堅い事言わないでよ。もう少ししたらさ、大っ嫌いな先輩連中も引退だから。それまではこのペース維持♪」
「……もう」
 舞の言葉に呆れて、清香は少々子供っぽい声を漏らした。
 漏れ出た声に驚いて、すぐに口元を正す清香。
 舞を見上げるが、舞は特に気に留めた様子もなく、髪を軽くいじってから笑った。
「じゃ、下行くから校門でね」
「うん」
 清香が頷くと、舞はカラカラという音ともに窓を閉めた。
 窓から舞の姿が見えなくなってから、清香はゆっくりと踵を返した。
 大人のような雰囲気と、人懐っこい可愛らしさが同居した彼女は、同性にもなんら嫌味を与えることがない。
 こんな風に、少し冷たい目で見ているのは、きっと自分くらいなものだろう。
 彼女の優しさを知りながらも、ひやりとした視線を放ちそうになる。
 自分は、本当に。
 彼女と一緒に立つ時、思い知らされる。
 人間として、どうしてこれほど器が小さいのだろうと。



「文化祭、文芸部は何やるの?」
 清香は透明なマニキュアを塗りながら、肩と耳で器用に挟んだ電話に向かって尋ねた。
 電話の向こうには舞がいる。
 舞も舞で、向こう側で唸りながら答えてくる。
「文集販売と、高校生はこれを読め特集」
「……くーちゃんも何かするの?」
「とりあえず、今特集用の原稿書いてるよ」
「ふふ」
「なに?」
「適当にやるんだろうなぁと思って」
 清香は目を細めて優しい声でそう言うと、マニキュアを塗り終えた爪に軽く息を吹きかけた。
 舞は少しの間何も言わなかったが、一瞬カチャッと音がした後に、少しクリアな声で言葉が返ってきた。
「真面目にやるよ?」
 スピーカーホンに切り替えたのだと、なんとなく感じ取る。
「へぇ、そなんだ」
「意外?」
「うん。くーちゃんの真面目を見られる日が来るとは思わなかった」
「なにそれ」
「だって、くーちゃん、いっつもどこか1歩引いてるんだもの。他人にはとってもお節介焼くのに」
「…………」
「……そういう気配り屋なところが、くーちゃんの良さだけどね」
 そこまで言ったところで、再びカチャリと音がした。
 元の音質に戻ったのを感じ取る。
「何の嫌がらせ?」
「ふふっ、誉めただけじゃない」
「あのねー。買い被るのやめてよ。それじゃ、本気出せばすごい人みたいじゃないの」
「あれ? 違うの?」
「……あたしは、ただの凡人なんだからやめてよね。期待されるの、大っ嫌いなんだから」
 舞の要領の良さを見て、ただの凡人と思えというほうが無理があると思うのだが、彼女にとってはそうではないらしい。
「口調が堂々としてるだけで、出来る人ってわけじゃないのよ」
「いいじゃない。くーちゃんの取り柄だよ」
 清香の言葉に困ったのか、舞からの言葉が返ってこない。
 舞にとっては地雷だったらしい。
 なので、清香はすぐに話題を切り替えた。
「くーちゃんは、当番の時間帯いつ頃? 私は午後の1時からなんだけど」
「あー、そんなのも決めないといけないんだったね。うちの部、ホント駄目だなぁ」
「……クラスのほうは?」
「クラスのほうは、展示だから必要ないと思う」
「手抜きだ」
「そうでもないよー。それなりに準備は面倒だったんだから。ニノと同じ班にしといてよかったよ。アイツは本当に出来る奴」
 電話の向こうで本当に惚れ惚れしたような声で舞が言う。
 清香はその声にふっと笑いをこぼした。
 本当に、他人を誉める時だけ歯切れのいい人だ。
「シュウちゃんか……」
「え?」
「ううん。ねぇ、まだ当番の時間決まってないなら、午前中空けて? 一緒に回ろうよ」
「……うん……」
 舞の声が少しこもった感じになった。
 照れた、のかな? と、心の中で呟く。
「清香」
「ぅん?」
「お化け屋敷で抱きついてくれるはデフォでオーケー?」
「……くーちゃん……?」
 清香は一瞬動きを止めて、その後に呆れてため息を吐いた。
 どうして、この人は雰囲気をぶち壊すようなことを言うのか。
 照れ隠しなのか、デリカシーがないのか。
 全くもって。
 清香が再びため息を吐くと、舞が電話の向こう側で真剣な声を出した。
「こらそこ、引かない。結構重要。お化け屋敷なら浮かないんだから」
「……手、繋いであげるよ」
「ぇ?」
「満足?」
「……うん……」
「全く……えろおやぢぃ……」
 そう言いながらも、満更でもない自分がいるのだから、これはこれでなんとも困ったものだ。
 認めることができるように努力するどころか、そういう境界線を踏み越える位置まで来ている。
 半年程前まで固執していた世間の常識も、自分の中の常識も、この人の前では無力なように思う。
 性別なんて、結局それほど意味のあるものではないような気が、最近はしていた。
 勿論、崩れ去ったとまでは言えない。
 抵抗感はまだ頭の片隅にあり、彼女と話している間、いつもいつも清香の思考を突っつく。
 それは……これから先も消えはしないかもしれない。
 この感情が刹那的なものであるのかどうかは、今現在では判断することも出来ないが、今は今で、自分の感情に従って動くことしか出来ない。
 結局、答えは未来に辿り着かなくてはわからない。
 わからないから、歩ける限り歩くと決めた。
 それが、彼女との距離を戻す時に自分でつけたけじめ。
「あ、もうこんな時間。くーちゃん、私、明日早いからそろそろ寝る」
「……ああ、うん。おやすみ」
「ええ、おやすみなさい。原稿、頑張ってね」
「ありがと」
 舞の声は穏やかだ。
 あの夕暮れの美術室で見せた、切羽詰ったような色はどこにもない。
 清香はピッと外線ボタンを押して電話を切った。
 しばし、子機を握り締めて、額を押し付ける。
 中途半端は嫌い。
 その気持ちはないつもりだった。
 けれど、取り戻そうとした距離は……とても大きかった。
 だからなんだと思う。
 その距離の示す意味を。
 その距離が示す感情を。
 まだ測りきることが出来ない。



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