◆◆ 第4篇 手繋ぎ・みんなでお絵描き ◆◆

Chapter4.渡井 柚子



 ほんの半年とちょっと前。
 渡井柚子は、自分の生まれた町の高校に入学した。
 中学時代は父親の仕事の都合で、のどかな生まれ故郷とは全く異なる……都会と呼ばれる街の一部で過ごした。
 そして、久しぶりに戻ってきた生まれ故郷は……全然彩を変えていなかった。
 只ひとつ、変わってしまったものがあるのだとすれば、それは……自分自身だったろうと思う。

『……渡井柚子です。趣味は……絵を描くことです。これから一年間よろしくお願いします』
 深々と頭を下げて、柚子は着席した。
 心臓がドクドク言う。
 みんなお決まりの拍手をして、あっという間に向き直ったのがわかった。
 ……そう。
 自分は空気でいい。
 空気みたいな存在でいい。
 特に引っ掛かることもなく、目に付くこともなく、静かに、この学校という空間に……溶け込んでしまえばいい。
 そう……ただ、それだけを願っている。



 辛くて悲しい夢を、何度も何度も見る。
 目を覚ますと、決まって頭痛がして、涙がこぼれる。
 そんなことを、一体何度繰り返してきただろう?
 頭を押さえて、涙ににじむ天井を見上げる。
 そこにはただ天井がある。
 そのことを実感して、ようやく、目が覚めたのだと自覚し、安堵するのだ。
 それが、柚子の迎えるいつもの朝。

「柚子ー? 起きてるー?」
 下の階から母の声がした。
 朝餉のにおいに胃が反応し、頭の鈍い痛みが引いてゆく。
 お味噌汁と……甘い玉子焼きのにおいだ。
「……出汁巻玉子」
 柚子はぽつりと呟き、むくりと起き上がる。
 柔らかめの髪がサラリと肩から零れ落ちた。
「柚子ー?」
「起きてるよぉ。今行きまーす」
 少し腹に力を入れて返事をし、気合を入れて布団をどかした。
 11月も半ば。
 寒い地方に属すこの地域では、11月でも朝ならば余裕で5度を切る。
「うぅ……寒いよぉ」
 体を若干震わせながら、ベッドから降りて、くまさんスリッパを履く柚子。
 パジャマのボタンを外して、中のキャミソールを脱ぎ、下着を着けると、制汗スプレーを軽く振ってから、ハンガーに掛けてあった制服に手を伸ばした。
「寒いなぁ……寒いよねぇ……ああー、寒い寒い」
 意味もなく言葉が口から漏れ出す。
 モゾモゾとセーラー服を着、横のチャックをゆっくり閉めた。
 スカートを履いた後にパジャマのズボンを脱ぎ、紺色のハイソックスをフラフラしながら履く。
「おはよーおはよー。おはよう、ユーズー。おっはよ〜、タムさん、おっはよー、コーディー♪」
 おかしな歌を口ずさみながら、ハイソックスを履き終え、再び足をスリッパに戻した。
 因みにタムさんというのは、頼れる顔をした右のくまさんスリッパで、コーディーというのは少々つぶれて間抜けな顔のように見える左のくまさんスリッパのことである。
 制服のリボンをキュッと結び、形を整える。
 ひとつ呼吸を置き、目を閉じる。
 そして、またひとつ呼吸を置いてから、ゆっくり目を開けた。
 壁に掛けたコルクボードに視線を動かし、穏やかにふんわりと笑う。
 そこには、文化祭の時に撮った修吾と勇兵と柚子の写真に、柚子と舞の写真が貼られている。
「おはよう、……修吾くん、舞ちゃん……」
 柚子は写真に向かって、静かに声を掛けた。



「渡井さん」
 グラウンドへ続く階段に腰掛けて、絵を描いている柚子に、優しく声を掛けてきた少女が一人。
 柚子は鉛筆を動かす手を止めて、顔を上げた。
 エンジのジャージ姿の清香が、テニスボールを入れた小さな籠を持って立っていた。
「……遠野、さん」
 柚子が名前を呼ぶと、清香はおっとりと穏やかに笑った。
「何を描いているの?」
「……部室棟……」
「ああ、そっか。ここからよく見えるもんね」
 清香の言葉にコクリと頷き返し、それきり言葉を発さない柚子。
 いや、発せなかった。
 何を言えばいいのかが、絵に集中していたのもあって、全く思いつかない。
「ずっと、ここで絵を描いてて、寒くない?」
「だいじょうぶ」
「そう……。私は、ボール拾いに行ってきたところ。必ず、週に2、3個行方不明になっちゃうのよ。一生懸命探してるんだけどねー……」
「そう、なんですか」
「…………。隣、座ってもいい?」
「はい」
 清香が少々戸惑ったような表情をしているのだが、それには全く気が付くことなく、柚子は彼女に返事をした。
 清香が柚子の隣に座り、けれど、柚子は特に気にも留めずに絵を描くのを再開した。
 ジッと部室棟を見つめ、シャッシャッシャッと鉛筆を動かす。
 素描を何度も繰り返していた。
 何度描いても何度描いても、納得のいく絵が描けなかったからだ。
「お礼を、言わなくちゃいけないと思って」
「…………」
「渡井さん?」
「…………。え、はい? 何か言いましたか?」
 そう言って、顔を上げようとした瞬間、鉛筆の芯がボキリと折れた。
 柚子は、ふっと息を吹きかけて、芯を飛ばし、残った粉も払った。
 折れた跡がついたところを丁寧に消しゴムで消す。
「ごめんなさい。集中している時に、話し掛けちゃ不味かったね」
「……いいえ。ちょっと、ここ最近、不調で……」
「……そうなんだ」
「はい」
「……バイオリズムってあるもんね。そういう時は、休むのもひとつの手段なんだって」
「……そう、らしいですね」
 柚子はありきたりすぎる言葉だなぁと静かに心の中で呟いた。
 描いて描いて、ずっと描き殴っていないと、生きられない。
 そういう世界を知らない人間の言葉だ。
 柚子は斜に構えたそんな言葉を心の中で思い浮かべながら、スケッチブックを閉じて、鉛筆をペンケースにしまう。
「……今日は終わり?」
「はい。寒くなってきて、手も言うこと聞かなくなってきたし、描くのはやめます」
「そっか」
「……だから、お話しましょ。何か用があったから話し掛けてくれたんですよね……?」
 ほんわりと笑い、小首を傾げて、清香を見つめた。
 清香が柚子の変化についていけないように唇を軽く尖らせたが、すぐにふわりと笑みを浮かべて応えてくれた。
 絵を描く時だけ、自分の世界を保てる。
 絵を描いている時だけ、自分は何も考えずにいられる。
 しがらみなど何ひとつ意識せずに、その中に没頭できる瞬間……それが柚子にとって至福の時だった。
 だから、その空間に異物が混入してくると、上手く対応出来ない。
「お礼を、言ってなかったから」
「お礼?」
「その……くーちゃんのことで」
「……お礼言われるようなことしてないですよ?」
「でも……」
「わたしは、舞ちゃんに笑って欲しいから、あなたに考えて欲しいと言っただけで、それは全然お礼を言われることじゃないです。むしろ、おせっかいでしかなかったと思います」
 それに、お礼を言われても、自分がどうすればいいのか分からない。
 清香はその言葉を口にすれば気が済むのだろう。
 そんなのは、柚子にだってわかっている。
 ならば、黙って頷いて、その言葉を受け止めてあげればいいんだと思う。
 たったそれだけのこと。
 それをすれば、彼女の気は済む。
 いつもだったら、柚子は何も言わずに和やかに微笑んで『いいえ』と言えたと思う。
 けれど、今回は違った。
 なぜか、出てきた言葉はお礼は要らないという言葉で……。
 何よりも、清香の口からその言葉を聞きたくない自分がいた。
 ……だって、これじゃ、まるで、舞が清香のものみたいだもの。
 そんなの、おかしい。

 ……おかしい?

 どうして?
 舞は清香のものだ。
 そう。舞は清香のもので、自分のものじゃない。
 自分は何を考えているんだろう?
 そこまで、考えが動いた途端、体が動かなくなった。
 そうだ。
 自分を外の世界に連れ出してくれた人は……決して自分のものにはならない。
 わかっていたはずなのに。
 だから、見送るものになると……修吾にも言ったのだ。
 見送って、時折戻ってくる彼女を、柔らかく包んであげられる……そんな強い存在になりたいと。
 願ったはずなのに。
「渡井さん……?」
 突然動かなくなった柚子を心配そうに清香が見つめていた。
 肩をそっと揺らされ、我に返る。
「あ、え……ご、ごめんなさい」
「大丈夫? 具合でも、悪いんじゃ……」
「ううん。平気です。気にしないで」
「……そう……」
「わたしに、お礼を言うくらいだったら」
「え?」
「舞ちゃんに優しくしてあげてください」
「…………」
「そしたら、舞ちゃん、もっと笑ってくれるでしょう?」
「……そう、ね。でも」
「でも?」
「くーちゃんにどう接するかは、渡井さんに言われなくても、私が決めるわ」
 清香は芯のしっかりした笑顔を浮かべて、そう言った。
 その笑顔に柚子は思わず息を飲む。
 なんとなく、やってしまったことに気が付く。
 ……本当は言うつもりなんてなかった。
 お節介な言葉であることくらい、柚子ならば容易に判断できた。
 息が詰まる。
『渡井さんってさー、空気読めないよねー』
 遠くから、そんな声が聞こえた気がした。
 柚子は声がしたほうに視線を動かす。
 勿論、誰もいない。
 幻聴だ……気にすることじゃない。
 何にも無い。誰もいない。誰もそんなこと言っていない。
 落ち着け。
 落ち着け、自分。
 ここで、錯乱したら……また、変な子だと思われる……。
「渡井さん? 渡井さん? どうしたの?」
 急にキョロキョロし出した柚子の行動を清香が不思議そうに見つめていた。
 慌てて首を横に振る。
 三つ編みがその振動で軽く揺れた。
「……なんでも、ない、です……」
「そう? 顔色が、少し悪くなったような気がするんだけど……」
「いえ……だいじょぶ」
 懸命に言葉を返す柚子。
 清香が心配そうに目を細めて、こちらに手を伸ばしてきた。
 柚子はビクリと体を小さく震わせた。
 その反応に、清香は躊躇うように手を止めたが、次の瞬間、暖かい手が柚子の額に触れた。
「……うん。熱はないみたいだけど……寒いし、そろそろ中に入ったほうがいいんじゃないかな? くーちゃんがいつも渡井さんは絵ばっかりだって愚痴をこぼしてるけど……本当にそだね。すっごい肌が冷えてるよ? 寒くない?」
「だ、だいじょぶです」
 柚子は上目遣いで清香を見て、かぶりを振る。
 振ったことによって、清香の手が離れた。
 柚子は胸に手を当てて、深く息を吸い込む。
「……それじゃ、私はそろそろ行くね?」
「はい……」
「渡井さんに拒否られちゃったからありがとうは言わないけど、これだけ言わせて? あなたのおかげで、私たち、仲直りできた。くーちゃんが笑っているのを近くで見られて、本当に嬉しい」
 清香が立ち上がりながらそう言った。
 柚子はその言葉に顔を上げる。
「……おかしいかもしれないけど、私、あなたとも仲良くしたいの」
「え?」
「だって、くーちゃんの話の半分は、あなたのことなんだもの」
 清香は少々寂しそうな目でそう言って、ふふふと笑った。
 柚子は、そこで目を見開く。
 清香はそれじゃーねと言って、パタパタと駆けていってしまった。
 一人だけ残された柚子は、唇を噛んでため息を漏らした。
「……私、サイテーだぁ……。失礼なこと言っちゃったかもしれない……」
 階段に座ったまま、スケッチブックを抱き寄せ、目を細める。
 舞ちゃんはわたしのもの。
 そう言わんばかりの言葉だったように思う。
 不快な気持ちにさせたんじゃないだろうか……。
 だって、清香は舞の『彼女』だ。
 そんな人に対して、そんなことを言ってしまった。
 清香が優しいことを言ってくれたのも手伝って、自分の思考回路の愚かさが凄く恥ずかしくなった。
 柚子は目を細めて、スケッチブックの角に額を乗せ、はー……とため息を吐く。
 鏡の外は……情報が多い……。
 優しい光と、冷たい光。捉えようもない光がいくつも交錯している。
 柚子には、それら全てを捉えて、行動できるような器用さが無い。
 ごちゃごちゃになっていく自分自身に、気が付いている反面、どうにも出来ないもどかしさが……そこにはあった。



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