◆◆ 第4篇 手繋ぎ・みんなでお絵描き ◆◆

Chapter5.渡井 柚子



 塗り固められたカンバスを、白く塗り直す。
 そうして、もう、過去を無かったことにして、傷を忘れたように装って、外界をただ覗き見るだけで生きていけば、心は楽なままでいられる。
 ジャバジャバと洗い場で汚れたパレットを洗い流すように、柚子は心のパレットさえも一心に洗い流した。
 だから、入学当初……柚子の心のパレットには色彩が無かった。
 色を持たない絵の具を、ただひたすら心のカンバスに描き殴っていた。
 普段通りに過ごしている。
 その体を装うためだけに……柚子は、時をやりすごしていた。
 けれど、人間というのは、本当に気まぐれなもので。
 決めたことなど、簡単に変更されてしまう。
 柚子が無為に過ごすだけの時間だったもの。
 それを変えたのが……車道舞との出会いだった。

『中学の頃から、好きだったの』
 美術室で油絵を塗っていて、誰が入ってこようと全く気にも留めなかった。
 けれど、その一言を聞いて、柚子の手が止まった。
 別に誰が誰を好きであろうと、誰が誰を嫌いであろうと、自分に関わることのないものであれば、そんなものはどうでもいいと思っていた。
 その時、柚子の心にカチリと引っ掛かってしまったのは……、告白をした人も、告白をされた人も、女の子だったからだと思う。
 ……なんとなく察して、物音を立てないように息を殺した。
 その言葉から、『精一杯の勇気』が伝わってきたから……だから、絶対に雰囲気を壊すようなことは出来ない。
 長い沈黙。
 気まずい間が続いた。
 ……駄目か……。
 柚子はそっと目を細め、心の中でのみ、その言葉を口にした彼女に労いの言葉を掛けた。
 けれど、その間にも2人の間で言葉が交わされ、『精一杯の勇気』に、たくさんの傷がついていくのが見えた。
 『冗談』『変なこと』『からかい甲斐』『恋愛感情と勘違い』『そのうち直る』。
 言葉の端々に散りばめられる偏見の片鱗。
 柚子は唇を噛み締める。
 どうして?
 そんな風に言うことないじゃない。
 ただ、その言葉を受け取って、『ありがとう。だけど、その気持ちには応えられない』……その言葉で終わればいいじゃない。
 どうして、わざわざ傷つけるようなことを言わなければならないの?
 柚子は握っていた拳に力を込めた。
 ……拒絶しないであげて……。
 声にならない言葉が、心の中で響く。
 拒絶は怖い。
 自分を理解してもらえない。
 自分の考えを気に掛けてもらえない。
 自分の気持ちを拒まれる。
 それが辛いことだということ。
 柚子は……そのことを知っている……。
 目頭が熱くなってくるのを感じた。
 思い出したくもない記憶に思考が行って、慌てて、それを思い出すことを拒んだ。
 様子を窺うために顔を上げると、なんとなく、こちらに視線を感じた。
 どうやら、美術室に取り残された子が……自分がいることに気が付いたらしい。
 その心を想像した。
 拒絶されただけでなく、……全く知りもしない人間にまで、自分の心を見られてしまった……。
 自分の心は、誰にも見られたくはないものだ。
 懸命に盾を持って、ガードして、その中から出しても構わない……本音から離れた優しい言葉を出す。
 ……それが社会で生きていくコツで……、けれど、本当に欲しいものだけは、本音を口にしなければ、絶対に手に入らない。
 その本音を口にする勇気。
 それがどれほどのものか。
 その気持ちを託された人は……どれだけの気持ちを預けられたか。
 ……預けた重さにさえ、この人は苦悩しているかもしれないのに。
 その上、偏見の目で見られることもある恋であれば、尚のこと。
 第三者がその中に存在したと知れば、それはどれほどの苦痛だろう。
 柚子は優しい声で言った。
『ごめんなさい。聞いちゃって』
『い、いいえ。確認もせずにごめんなさい』
 動揺しているのが分かる。
 大丈夫。
 怯えないで。
 わたしは、拒まないよ。
 あなたの気持ち、分かるから。
 だから、どうか、怯えないでください。
 柚子はそんな気持ちを込めて、思いつく限りの言葉を口にする。
『綺麗だからって、男の人好きじゃなきゃいけないルールなんてないよねー』
『…………』
『たまらなく好きだから言葉にしたのに、ああいう返しはないと思うし』
『でも、あの子の気持ちもわからなくはない。色々考えはしたからさ、あたしも』
 その言葉に、思わず息を飲む。
 ああ……この人は、強い人なんだ……。
 自分を慰めるために、誰かを貶めることはしない。
『あは』
『何?』
 思わず漏れてしまった声に、彼女は不思議そうな声を返してきた。
 どうしよう。
 慰めようと思って、声を発したのに、彼女の心に触れて、自分の心がとても穏やかになったのを感じる。
 一人きり、ざわざわと肌がささくれ立つような……そんな場所に立ち尽くしている自分の心が、ほんのり、和んでゆく。
『優しい人』
 本当に、優しい人。
『そう、かな。優しかったら、全部抱え込むでしょ』
 きっと、色に例えるのなら、ふんわりふわふわした……甘くてとろけそうなピンク……。
『どうして?』
 時折、他の色に埋もれそうになるくらい、薄くて淡いペールカラー。
『相手を苦しめるだけだもの』
 優しい色。
『わからないじゃない』
 それでも、例え埋もれたとしても、絶対に色を変えない……芯の強い色……。
『そう?』
 あなたを幸せな気持ちにさせてくれる、綺麗に染まった色を持った人が、きっと、また、現れるよ。
『出会うかもしれないよ、いつか。それが、同性か異性かはわかんないけど。その想いが、幸せの欠片になる時が来るかもしれない』
 恥ずかしげもなく、柚子は心のままにそう言った。
 すると、彼女はそれを聞いて噴き出した。
 柚子はその反応に目をきょとんとさせる。
 あれ? なんで、この人笑ってるんだろう?
 笑い事じゃないのに。
 今、一番辛いのは、この人なのに。
 そう思ったら、涙がこみ上げてきた。
『どうして、笑うのー?』
『いや、あんまり詩的な表現だったからさ……』
『笑い事じゃないよ! だって、あなた失恋したんだから……!』
 そう叫んで、ガバリと立ち上がった柚子を見て、彼女が驚いたように目を見開いた。
 柚子も、顔を見た瞬間、時が止まった。
 クラスメイトだった。
 車道 舞。
 不思議な苗字だったから、周囲に関心を持たないと決めた柚子でも、すぐに覚えられた人だった。
 なんでもそつなくこなせる、器量の良さそうな人。
 自分とは正反対で、きっと、話すことも無いだろうと思っていた人。
 先程描いた、甘くてとろけそうなピンクとはかけ離れた……真っ青なブルーを思わせる人。
 その日から、舞は柚子の色の無いパレットの中の一色になった。
 けれど、柚子は……その色をカンバスに塗るのを躊躇っている。
 綺麗な色だと見惚れながら、パレットの中に置かれているその絵の具に、筆を伸ばせずにいた。



「柚子さん?」
 柚子は舞の声で我に返った。
 あまりに反応が無いのが気になったのか、舞が首を傾げて、柚子の顔を覗き込んでいた。
「あ、ど、どうか、した?」
 慌てて、柚子はそう問いかける。
 すると、舞はすぐに優しく笑って言った。
「たこさんウィンナー食べたいなぁって言ったの」
「あ、え……どうぞ」
 柚子はお弁当用のフォークにウィンナーを刺して、舞に差し出した。
 舞が嬉しそうにそれにかぶりつき、ひと口で口の中に収める。
 お昼休み。
 いつもの通り、柚子の席にお弁当を広げて、二人は向かい合っていた。
 教室内はガヤガヤと賑やかで、そんな中、修吾だけが一人ぽつんと本を読んでいる。
 それも、いつもの光景。
 机の向こうの舞がもぐもぐと口を動かし、学食で買ってきたコーヒー牛乳を飲んだ。
 柚子はその様を見つめて、にこー、と笑う。
「ん? なに?」
「ううん、なんでも」
 本当になんでもなかった。
 舞を見ていたら、勝手に笑みが浮かんだ。それだけのことだった。
「……そういえば」
「ぅん?」
 柚子は玉子焼きを口に運びながら、返事をした。
 はむはむしながら、舞の言葉を待つ。
 母の作る玉子焼きは柚子の大好物。
 朝ごはんの残りであろうとなんだろうと、美味しいことに変わりは無かった。
「なんか知らないけど、清香が柚子さんのこと怒らせたかもー、とか言ってたよ?」
「え?」
 柚子は玉子焼きを飲み込んでから、落ち着かないようにカチコチと頭を揺らした。
「ごめんなさいって伝えて、だって。自分で言えばいいのにねぇ」
「な、何か、謝られるようなこと言われたかな?」
「……それは、あたしが聞きたいんだけど」
 柚子の反応に、舞が困ったように目を細めた。
「だ、だって……わたしも、遠野さんのこと、怒らせちゃったかと思って……それで……どうしようって……思ってて」
「……うーん……? まぁ、清香はね、たまーに笑顔でムキになることあるから」
「うん、それで、怒らせたかと思って……」
 舞はコーヒー牛乳に再び口を付けた。
 様子を窺うように柚子の顔を見つめてくる。
 ゴクンと喉が動き、すぐに言葉が続く。
「大丈夫よ。あの子、本気で怒ったら、口も聞いてくれないから。笑顔でムキになる時は、カチーンと来た時。それも、あとで自分で後悔するような感じだし。今回みたいにね」
「…………」
「あ、ここだけの話ね」
「うん」
 柚子はコクリと頷いた。
 舞が机に頬杖をついて、柚子が食べるのを見つめている。
 二人のほうが付き合いは長いのだし、舞が生き生きと『彼女』のことを語るのは当然のことだ。
 舞が嬉しそうであれば、それでいいと思うし、自分はこの人の話を聞いていれば、それだけでいい。
 そのはずなのだけれど、最近、妙に不安が心を支配する。
 その不安が少々の心細さになって、つい昨日のような反応として飛び出してしまう。
 何をそんなに不安になる必要があるのか。
 その理由が分からないから、余計にその不安に怯えている自分がいた。
「何を話してたかとか……聞かないの?」
「ん? なんで?」
「気にならないのかなぁって思って」
「二人が何を話したかって? 別に。気にしないよ。喧嘩したとか言われたら、おろおろするかもしんないけど」
「あは。舞ちゃんがおろおろ?」
「ええ。どっちの肩も持てないし、どうしよぉ、おろおろ……ってね」
「どっちの肩も持たないの?」
「ええ」
 舞は当然のようににっこりと笑み、スッと長い髪を掻き上げた。
 目の前の人は面倒なことが嫌いだと言うけれど、この人の生態自体が面倒ごとを引き込むタイプのものだと、柚子は時々思うことがある。
 美人でさっぱりした性格。
 けれど、自分の魅力を自覚していないために、たくさんの爆弾を周囲に撒き散らしている。
 それは、舞が勇兵のことを同様に表現するのと同じようなもので。
 ただひとつ、異なるとすれば、舞の場合は、自身が気に入った相手にしか、必要以上の愛想を振り撒かないということだろうか。勇兵も懐く相手は選んでいる、とは言っているが、彼の感情表現は時として過剰な部分もあるので、やはり、この点が、2人の違いだと思う。
「舞ちゃんって」
「ん?」
「大切な人2人が溺れています……とか、そういう究極の選択をしなくちゃいけなくなったら、どうするんだろうね?」
「どうしたの? 突然」
 突拍子もない話題の転換に、舞が笑った。
 勿論、柚子の中では、地続きな話題なのだけど、舞の中では繋がらなかったらしい。
 言った後に、柚子自身、そういうたとえ話を出すのは煩わしいかな、と思った。
 これでは、まるで、恋人に対して、ある一定の言葉を期待する女の子みたいだ。
 が、もう言ってしまったので、そのまま舞を見つめる。
 舞は特に重く受け止めていないようだったが、柚子がじっと見つめたので、考えるように宙を見つめた。
「……そうねぇ……。あたしだったら」
「うん」
「まず、泳げない子を連れて、そんなところまで、行かない、かな」
 舞は、柚子が言った『大切な人2人』に誰を選択したのか分からないが、当然のようにそう言った。
 柚子はその返しを聞いて、目を見開き、その後、クスッと笑った。
 その返しが、あまりにも舞らしかったからだ。
「あ、これじゃ、主旨に合ってない?」
「うん。……だけど、舞ちゃんらしい」
「……だって、そうでしょ。溺れちゃうような子を連れて行ったら、危ないもの」
 柚子がにこにこ笑って舞を見つめるからか、舞は照れたように目を細めて、髪を掻き上げた。
 ……そう。
 そうだ。
 舞は、相手のことを第一に優先する。
 だから、余計に不安になるのだと思う。
 彼女はどこでも生きていける。柚子の手を引いて、安全なほう、安全なほうへと導いてくれる。
 けれど、柚子自身、わかっていることがあるのだ。
 ……ずっと、そうではいられないということ……。
 いつか、その手は離される。
 目の前の人の、大切な人に……両手ごと持っていかれる。
 そのヴィジョンがくっきりと浮かんでしまう。
 そうでもいいと思っていたはずなのに、今はそうではない。
 クラスメイトたちとどんどん打ち解けてゆく舞を見ているだけでも、不安に駆られてしまうことに……今一番戸惑っているのは、他でもない自分自身だった。



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