◆◆ 第4篇 手繋ぎ・みんなでお絵描き ◆◆

Chapter10.渡井 柚子



「あー、柚子ちゃん、いらっしゃい」
 日曜の昼下がり。
 母方の祖母がいつものように優しい笑みを浮かべ、迎えてくれた。
 細身で小柄で、顔には小皺のある可愛らしいおばあちゃん。
 品の良い雰囲気で、背筋もしゃんとしており、柚子が遊びに行くと、驚くほどテキパキとお茶とお茶菓子を用意してくる。
 もう亡くなってしまった祖父曰く、若い頃は柚子そっくりだったそうだ。
 自分もこんなおばあちゃんになるのかな。祖母を見る度、そう思い、ふわりと口元がほころんだ。
 柚子は昔から、大のつくおじいおばあちゃんっ子だった。
 子供の頃は、それこそ毎週のように遊びに来て、お泊まりもよくしたが、父の都合で一度地元を離れてからは、ふた月に1度でも来ていればいいほうになってしまっていた。
 祖母がいつも通り、台所に引っ込んだので、柚子もいつも通り、仏間へと足を向けた。
 茶の間を抜けて、仏間へ入り、仏壇の前に綺麗な姿勢で正座した。
 慣れた手つきでマッチを擦り、蝋燭に火を灯した。灯した火を線香に分け移し、軽く手で扇いで火を消す。ゆらりと細い煙が立ち上るのを確認してから、慎重に香炉に立てた。
 一息、線香の匂いを嗅ぎ、目を閉じると、心が落ち着くのが実感できた。
 ゆっくりと目を開けると、祖父がとても快活そうな笑みを浮かべた写真がそこにあった。
 また写真が変わっていることに、柚子はつい笑みが漏れる。
 祖父の写真はそれほど多く残っていないそうだが、それでも、数ある中から、祖母がまめに写真を変えているのだ。
「おじいちゃん。柚子ね……また、いけないことしちゃったかもしれない」
 目を細めてそんなことをぼんやり呟き、それから、そっと手を合わせて、目を閉じた。
 こんな一言だけ言ってやめてしまったら、そこにいるかもしれない祖父が無駄に心配するかもしれない。
 それはわかっているのだが、それしか言えなかった。
 柚子が修吾を初めて見たのは、入学式の日。
 彼は入試をトップで入学したらしく、新入生代表の宣誓、なるものをとても澄んだ声で読み上げた。
 無論、宣誓の内容は全くと言っていいほど覚えていなかったのだが、緊張の震えひとつ感じさせず、とても聞き入りやすい声が印象的だった。
 けれど、クラスに戻って、彼を見たらどうだろう。
 確かに、クラスメイトに話し掛けられれば受け答えをするが、どこか、浮いた感じが否めなかった。
 宣誓の時の堂々とした声は、まるで幻だったかのように、つっかえるような、くぐもった声で話す彼。
 柚子は、そんな彼に……同じ世界の住人かもしれない、という、親近感を勝手に覚えた。
 芽生えた親近感は止まらない。
 ふと気が付くと、視線が彼に向いていた。
 他人には興味も持たず、埋もれて生きる。目立つことなく、『変な子』とすら言われず、『そんな子いたっけ?』な枠に入ってしまおうと決めていたのに。
 無意識な行動だけは止められなかった。
 落書き用のノートのページが、彼のスケッチで埋まってゆく。
 それを見られたら、自分の心なんて簡単に覗かれてしまう。そんな代物を作り出してしまったことが怖くなって、柚子はそのノートを部屋の本棚の奥に隠して、それからは、極力、人の手のスケッチに専念した。
 しかし、それを描いていて、またもや気が付く。
 二ノ宮修吾の手は、柚子にとって、理想のフォルムをしているということに。
 いつの間にか、修吾観察は、柚子の楽しみのひとつになっていた。
 夏のある日の放課後、柚子は偶然、修吾が教室に残っているところに居合わせた。
 教室には誰もおらず、彼はひたすら何かを考え込むように眉間に皺を寄せて、頬杖をついていた。
 柚子は描きたい衝動に駆られて、すぐにスケッチブックを広げて、彼を見据えた。
 思えば、あの日が始まりだった。勇兵に話し掛けられて、宿題のノートを貸して(実際は落書き用のノートを貸してしまうという大失態だったが)、柚子は初めて、修吾の視界に入った。
 他人への頓着があまりなさそうに見える修吾は、そのくせ、他人の目を気にするナイーブな人だった。
 やっぱり、同じ世界の住人。
 話してみて、柚子はそう思った。
 同じだという親近感と、ほのかに芽生えていた恋心が混ざり始めてから、半年すら経っていない。
 たまに話すようになって、たまに遊ぶようになって、そんな状況がとても楽しくて、どうしようもなく嬉しくて、……けれど、ふと気が付いた時押し寄せる寂寥感に心が潰れそうになる。
 自分の中のもう1人の冷めた自分が言う。
 そんな日々は長く続かないよ。君は幸せになれないもの。迷惑掛けないうちに1人になればいいのに。そしたら、痛いことなんて何にも無くてすむんだから。と。
 柚子は首を振る。そんなことない。そんなことない。と、必死に首を振る。
 けれど、今、首を振るのを躊躇いそうになっている自分がいた。
 修吾にも舞にも、少しずつ、新しい友達が出来始めた。
 入学当初、要らないと言っていたはずのものなのに、自分の存在が彼らの中で薄れていくのではないかと。
 そんな愚かな考えに囚われ、自分ひとり、寂寞の中にいた。
「柚子ちゃん?」
 肩を揺すられて、柚子は我に返った。
 目を開けて、合わせていた手を下ろし、祖母を見た。
「何度も呼んでるのに返事が無いから見に来たんだよ。なんだい? おじいちゃんとお話でもしてたのかい?」
 祖母は優しい眼差しでこちらを見ている。だから、静かに頷いた。
「……うん、おじいちゃんに、高校のお友達のこと、話してたの」
 ほんのり嘘が混じっていることに、少々心が痛む。
「そう。おばあちゃんも聞きたいなー。茶の間行こうか? ここは冷えるからね」
「うん」
「今日はねー、柚子ちゃんの好きな将観堂のプリンを買っておいたから」
「え?! ホント?」
 将観堂のプリンと聞いて、柚子はようやく笑顔になった。
 それを見て、祖母がおかしそうに笑う。
「本当に、柚子ちゃんはプリンが好きだねぇ」



「これが二ノ宮くんで、これが舞ちゃん。それに、これが塚原くん」
 柚子はその場で描いた3人の絵を指差し、楽しそうに笑ってみせた。
 祖母は老眼鏡をかけて、その絵をまじまじと見つめる。
「柚子ちゃんは相変わらず絵が上手だねぇ」
「うん! だって」
「絵描きさんになるんだものね?」
「うん!」
 柚子がほやぁんと笑顔を浮かべると、祖母も楽しそうに笑う。
「舞ちゃんは、とっても美人で気さくで、頭も良くて、スポーツ万能で、そのうえ、優しいんだよ。わたしの自慢のお友達なの」
「本当にめんこいねぇ。柚子ちゃんとは違うタイプのめんこさだ」
「サバサバしててテキパキ屋さん。だけど、本当はとても可愛い人。舞ちゃんには、ピンクがよく似合うんだ」
 目を細めて優しい声を発する柚子。
 柚子がどれだけ舞を好きなのか感じ取れたらしく、祖母はコクコクと頷いた。
「塚原くんは、とにかく元気で、学年じゃこの人のことを知らない人がいないくらい有名。背が高くて、肩幅も広くって、バレーボールをやってるの。あ、舞ちゃんとは幼馴染で、二ノ宮くんとも仲良いんだ〜」
「今流行りな子だねぇ」
「あ、うん、そだね。塚原くんは結構おしゃれさんだと思う」
 学校ではなかなか見られない生き生きとした表情で、柚子は話す。
 祖母はそれを見て満足そうだった。
 けれど、指先が修吾に動いてから、柚子の表情が翳った。
 祖母は絵を見つめていたが、柚子の解説が始まらないので、不思議そうにこちらを見た。
 柚子は慌てて口を開く。
「二ノ宮くんは、硬派で無口な人って皆に思われやすいけど、本当は照れ屋で話すのが苦手なだけなの。すごく穏やかで、頭も良くて、少し歩くのが早いけど……人の話を最後まで聞いてくれる、とっても律儀で真面目な人なんだ」
「そう」
「うん」
「柚子ちゃんの恋人?」
「ぇ、ううん! 違うよ、そ、そんなわけないじゃない!」
 柚子は三つ編みをプルプル揺らして、大否定。
 祖母はそれを見てクスクスと笑った。
 外を車が通る音がし、その後に子供たちが楽しげに走っていく声が聞こえた。
 柚子の心臓がドクンドクンと音を立てる。祖母がいきなりからかうようなことを言うから、驚いてしまった。
 そう。そんなわけない。そんなことに、なるわけない。
 柚子は俯いて、静かに祖母を上目遣いで見た。祖母は修吾の絵を見ていたが、ふいに視線を上げて、柚子が自分のことを見ているのを確認して、また、クスクスと笑う。
「……きっと、嫌われちゃったよ」
「え?」
「ほうっておいてって、言ったの」
 柚子の言葉に、祖母は首を傾げる。
「今日、本当は……しゅ、二ノ宮くん、誘ってくれたんだけど……おばあちゃん家に行くからって」
「うん」
「じゃ、昨日でもいいよって言ってくれたんだけど、わたし、ほうっておいてって言っちゃったの」
「どうしてだい?」
「だ、だって……、わたしは、別に、話なんて聞いて欲しくないのに。悩んでいることがあるなら、聞くからって」
「うん」
「すごく、優しくしてくれるんだもん」
 そう。きっと、あの時の誘いは……柚子の話を聞こうとして、言ってくれたものだった。
 そんなのは、簡単に予想できて。心は半分喜んだけど、それでも、半分は、それを煙たがって拒絶した。
「……おばあちゃん……」
「ん?」
「わたし、まだ……」
 柚子は手が震えそうになるのを必死に抑えて、続ける。
「まだ、他人(ひと)が……怖いよ……」
 柚子は下唇を噛んで、こみ上げてくる空気を必死に飲み込んだ。
 過去のことが浮かんで、背中に冷や汗が浮く。
 祖母が老眼鏡を外して、カチカチと音をさせてフレームを閉じた。
「柚子ちゃんは、この子らが、離れてくって思ってるんだねぇ?」
「……みんな、それぞれ、新しいお友達が出来始めてるんだ。わ、わたしは、こんなだから……他に、お友達いないし」
「小学校でも、中学校でも、柚子ちゃんは変な子って言われたらしいけど、おばあちゃんからすると、柚子ちゃんは普通の孫なんだけどねぇ」
「舞ちゃんは、変わってるところが良いところだって言ってくれた」
「だったら、いいじゃない」
「うん……それで、満足しなくちゃいけないんだよね」
「? どうしてだい?」
「え、どうしてって……」
「柚子ちゃんは、昔から絵以外のことは聞き分けが良かったからねぇ」
 祖母は懐かしむように笑い、その後にポンポンと柚子の頭を撫でた。くすぐったさに、柚子は肩をすぼめる。
「わがままを言っても良いんだよ」
「…………」
「不安があるなら、聞いてもらえばいいじゃないの」
 柚子は目を細め、不安そうに髪をいじった。
「おばあちゃんが聞いてあげてもいいけど、きっとそれじゃ解決にならないもの」
「ごめんね。こんなお話するつもりじゃなかったのに」
「いいのよ。元気な顔見られただけで十分。優しい二ノ宮くんによろしくね」
「お、おばあちゃん?! だから、そんなんじゃないって、言ってるのにーーーー」
 柚子は少し加減をしつつも祖母の肩をポカポカと叩いた。
 祖母はそれを楽しげに受け、最後にはまた頭を撫でてくれた。
 満足なのだと。そう思っていた。
 自分を想ってくれる人がいる。そう思うだけで満足なはずだった。
 けれど、それだけじゃ足らないように最近感じる。
 人間は、欲するという衝動に関しては、飽きることがないという。
 そんな衝動は、絵だけで十分だったはずなのに、みんなと過ごす中で、それだけじゃ足らなくなってしまった。
 無色なはずの心に、色々な彩が混ざり始めたように感じる。
 だから、混乱していたのもあったと思う。
 柚子の言いたいわがままは、ひとつだけ。
 『大好きだよ』の一言だけ。
 そんな控えめなわがまますら、臆病な柚子は言うことが出来ないのだ。



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