◆◆ 第4篇 手繋ぎ・みんなでお絵描き ◆◆
Chapter11.車道 舞
『舞ちゃん!』 舞はその声で振り返った。 柚子がパタパタと駆けて来て、きゅっと舞の手を握り締めてくる。 『どうしたの? 柚子?』 『舞ちゃん』 『なに?』 『大好き!』 今まで見た中で、一番可愛らしい笑顔で彼女はそう言った。 その一言に、舞はつい目を丸くする。 おいおい、言う相手を間違えてるよ。そんな突っ込みすら言えないほどのエネルギーを感じた。 『ゆ……』 名前を呼びかけようとした瞬間、体が落下するような感覚に囚われる。 その時、舞は気付いた。これは、夢だ。と。 ガタン、と音を立てて、机を腿で軽く蹴り上げてしまった。 周囲の席の生徒が、一斉にこちらを見る。 寝てた。 舞は静かに髪を掻き上げて、何事もなかったように教科書をペラリと捲る。 すると、こちらを見ていた生徒たちもすぐに教科書に視線を戻した。 教師は、居眠りに気付いていたのかいなかったのか、素知らぬふりで授業を進める声を緩めなかった。 こういう時、成績がある程度良い人間は便利だなぁ……。そんなことを思いながら、チラリと柚子のほうを見た。 いつもならば、ノートにスケッチをしているのだが、今日はコックリコックリと舟をこいでいた。 おやまぁ。シンクロ? そんなことを考えながら、教科書を立てて、頬杖の姿勢を取った。 体育祭のリレーの練習で昼休みに借り出され、眠くて眠くて仕方が無いのだ。 とはいえ。 『大好き!』 夢の中の柚子の笑顔が過ぎる。 いつもの和むようなほわぁんとした笑顔ではなく、生き生きした笑顔だった。 「なんつー夢……」 小声で呟き、頬杖をついているほうの手で耳たぶを撫でた。 夢とは言っても、もしも、色素の薄いふわふわお姫様にこの事が知れたら、1週間くらい口を聞いてもらえない自信がある。柚子の言っている言葉の意味が、友情としての意味でも、だ。 舞は、そっと長い睫を伏せる。 そういえば、見たことないなぁ……。あんな風に柚子が生き生きと元気に笑うところ。 舞にとっての柚子は、いつでも、ほんわりのほほんとマイペースにスローライフを満喫している。そんな子だ。 けれど、もし見られるのだとしたら、柚子が心から思い切り笑っている、そんな笑顔を見てみたい。そんなことを、今更ながら思った。 ぐったり。 舞は、机にひれ伏して、はー……と大きくため息を吐いた。 柚子がパタパタとスケッチブックで風を起こして扇いでくれる。 「だいじょうぶ?」 「あー、うん。平気」 「お疲れですね」 「今日は運が悪かった」 タイヤ引きの簡易的な練習。騎馬戦練習。加えて、リレーの練習が昼休みに引き続き、放課後も少し入った。 舞はあっちに行ったり、こっちに行ったり、もう十分。お腹は空いたけど、お腹いっぱいです。もう要りません。まさに今そんな状況だった。 「今日は帰ろうか?」 「いや、二人三脚の練習、少ししようよ」 ジャージ姿で舞の練習が終わるのを待っていたくせに、そんな風に言うのがひどく滑稽だ。 「い、いいよ。無理しないで」 「なんで? だって、ようやく、柚子がやる気になったんだもの。やらなきゃ勿体無いよ」 そう。どういう風の吹き回しか、月曜にお昼を食べていたら、柚子がおずおずと言ったのだ。 『や、やっぱり、二人三脚、頑張ろうかな……』 運動嫌いのあの柚子がそう言ったので、これは応えない訳にはいくまいと、そう思うのが人情というものだと思う。 なので、もっとシャキッとしてカッコよくこなしてみせたいのだが、1年以上、部活のように長い運動時間から離れていたのもあり、だるいこと極まりない。 「ただ、もう少し休ませて。久々に長時間ドタバタやったからしんどい」 「もう6時過ぎたし、本当にいいよ」 「柚子?」 「なに?」 「あたしがやると言ったらやるの」 舞がピシャッとそう言うと、柚子は何も言えないように黙ってしまった。 別に怯えているわけではないようだ。 少しだけ、嬉しそうに目を細めたから、それは間違いないと思う。 「柚子?」 「なに?」 「なんだか、嬉しそうだよ。どうしたの?」 「そ、そう、かな?」 「ニノと何かあった?」 「ないよー。あるわけないじゃない」 柚子が全く動じずに切り返してきたことに、舞は驚いて目を丸くした。 いつもだったら、両の拳を握り締めてブンブン振りながら、『あ、あ、あるわけないよ、そ、そんなの!』と修吾にも負けないくらいの面白さ爆発で返してくれるというのに。 柚子はパタパタとスケッチブックで扇ぎながら、人気の無くなった教室を見渡している。 「二ノ宮くん、6時から練習って言ってた」 「へぇ……ずいぶん遅くからなのね」 「バレー部の練習が終わってからになっちゃうらしくて」 「ああ、でも、練習相手いるのかな? ニノって見るからに弱そうじゃん? 乗る練習じゃなくて、取る練習しないと意味ないよねー」 「ふふ……でも、いいんじゃないかな。始まってすぐに取られるんでも。そのほうが、二ノ宮くんって感じがするし」 「それは、男子としては言われたくないんじゃないかなぁ」 「え? ど、どうして?」 「一応、プライドはあるはず」 特に、好きな子にそんな風に言われてしまうのは、男子としては誇れることではない。 柚子はわからないような顔をして、扇ぐ手を止めた。 柚子が考え事をしている間に、舞は思い切り伸びをして立ち上がる。 「さって、行こうか」 「あ、う、うん」 舞が颯爽と歩き、柚子はその後をついてくる。 「舞ちゃん、あのね」 「ん?」 「お願いがあるんだけど」 「なに?」 「あ、あの……ゆ、柚子って呼んでくれないかな?」 改まって言うことでもなかったので、舞はつい苦笑してしまった。 少し歩速を緩めて、柚子の横に並ぶ。 「いつも呼んでるじゃん」 柚子はそう言われて、少し困ったように眉を八の字にした。 舞は意図がよく分からず、首を傾げる。 すると、柚子は勇気を振り絞るように拳を握り、小声で言った。 「……み、みんなの、前でも」 内輪呼称・外輪呼称に分けているのが、嫌だということか? 舞は呼称を変えることにそれほどこだわりを持っていなかったが、いつの間にか癖になっていて、そう呼んでいただけのことだったので、すぐに首を縦に振った。 「ああ、うん、わかった」 けれど、舞の軽さとは対照的に、柚子はその返しに嬉しそうに微笑んだ。 廊下ですれ違った男子が、多少気にするように2人をチラチラ見たが、舞は全くそんなことは気にも留めずに歩いてゆく。 柚子の手が舞の腕に触れた。 それに驚いて柚子を見ると、柚子は怒られるのを怖がる子供のように肩をすぼめて、すぐに手を離す。 その様子に、舞は噴き出した。 「何? どうかしたの? 今週、柚子、変だよ〜」 いつも触れられるのさえ、ビクビクするような子がそちらから絡んでくるのがおかしかった。ただそれだけだ。 けれど、柚子はそう言われて、少し悲しそうに目を細める。 「あ、う、ご、ごめん……」 「いや、怒ってないし、謝るとこじゃないんだけどさ」 「う、うん、ごめん……」 「柚子」 「はい?」 「ごめんは禁止」 「え?」 「謝るとこじゃないって言ったでしょ〜」 そう言って、舞はワシワシと柚子の頭を撫で回した。 すると、柚子はまた嬉しそうに笑うのだった。 二人三脚の練習は順調だった。 柚子がすっ転ぶのは計算の内だったし、それに、舞が以前忠告した『舞の肩から手を離さないこと』をきちんと実践できるようになってきたから、転ぶ回数も以前練習した時よりは確実に減っていた。 このまま、当日を迎えられる。 そう思っていた矢先の、体育祭前日・木曜日に事件は起こった。 最後の仕上げとして、2人は実際走る距離である100メートルを走ることにした。 前日ということもあって、グラウンドは準備に追われる体育委員の生徒と、練習をする生徒、それに部活をする生徒でごった返しており、いつも以上にグラウンドが狭く感じられる状態だった。 柚子は少しそわそわしているようだったが、舞が2人の足を繋ぐタオルを結んで上体を起こすと、少しだけ緊張を解いた。 「よし、行こう」 舞はにんまり笑って、柚子の肩を優しく抱き寄せる。 柚子も慣れた調子で、舞の肩に手を置いた。 「はじめは外から! 行くよ! 外、内」 舞の掛け声に反応して、柚子は一生懸命に足を動かす。 舞は柚子の動きに注意しながら、掛け声のペースを調整する。 2人の息はピッタリ揃って、50メートル地点までは速くはないけれど、転ぶことなく到達できた。 なので、舞は励ますように言った。 「柚子、あと半分! 外、内」 その励ましの言葉が不味かったのだろうか。 それまで揃っていた足並みが若干乱れ、柚子がつんのめって、前に体重が掛かった。 舞はすぐに後ろに体重を移動させ、柚子の体を支えて踏みとどまった。 いつも通りの対処方法で、すぐに気を取り直して走り出そうとしたのだが、後ろから急に声がして、舞は振り返った。 「どいてどいてー! 危ないったらぁ!!」 2人と同じ二人三脚の練習中の2年生が必死に叫びながら、こちらへ向かって走ってきた。 そして、無理に避けようとしたが、体が上手く反応できなかったらしく、変な体勢で倒れこんできた。 舞の背中に思い切り相手の肘がぶつかる。 なんで、止まることを選択しないのよ! そんなことを心の中で叫びながら、舞は柚子を庇うように倒れこむ。 倒れた拍子に左足首に激痛が走った。 捻った上に、その上に2人分の体重が乗ったせいで、余計痛い。 2人がどいても、舞は痛みで目を開けることが出来なかった。 ただ、搾り出すように柚子に声を掛ける。 「柚子? 怪我、ない?」 ぶつかった人がどこに行ったかはわからないが、謝ることなく、逃げていったのだと察して、ひき逃げされる人の心境ってこんな感じなのかなぁ……と、そんな疑問が頭に浮かんだ。 「だ、だいじょうぶ。舞ちゃん、平気?」 「うん……平気……」 舞は痛みを堪えながら目を開け、上体を起こして、柚子から体を離した。 左足がズキズキと脈打ち、熱い。 立ち上がれる気がしなかった。 「だ、大丈夫ですか?」 2人を心配するように、近くで作業していた体育委員らしき男子が声を掛けてきた。 男子にしては線が細く、可愛い系に分類されるのではないかと思われた。 不思議なことに、切羽詰った時というのは、どうでもいいことばかり頭を巡る。 柚子がタオルを外して、ゆっくりと立ち上がった。 「大丈夫、みたいです。ありがとうございます」 そう返すと、その男子が顔を赤らめて、しどろもどろで声を発した。 「あ、い、いえ。その、どっか怪我したなら、保健室に、連れて行くので、い、言ってください」 「はい」 柚子はその男子に笑顔を返し、舞がまだ立ち上がらないので、不思議そうにこちらを見てきた。 不味い。ここで立ち上がらないと、柚子に変な心配を掛けてしまう。 舞は右足に体重を掛けて、無理矢理立ち上がった。 「この通り、どっちも平気です。ありがとう」 笑顔と一緒に、左足をつく。その瞬間、激痛が走った。 「痛ぅ……」 「舞ちゃん?」 痛みを堪えきれず、舞はその場に座り込む。 「あ、や、やっぱり、怪我……」 柚子よりも早く体育委員の男子が屈みこんで、舞の様子を真っ直ぐに見つめてくる。 「足? どっち?」 けれど、その質問に答えるより前に勇兵が駆け込んできた。 「シャドー? どうした? 怪我か?」 「……うっさい。あんたが来ると大袈裟になるから、来んな!」 舞は頭を押さえて、必死に痛みを堪えながらそう叫んだ。 けれど、その言葉に対して、勇兵は怒ったように叫んだ。 「怪我人が言えた口かよ! ほれ、乗れよ。おぶってってやっから」 「……立てない」 「…………。あ、あとで、殴るとか、無しだぞ?」 「え?」 舞の返事など待たずに、勇兵は軽々と舞の体を抱き上げた。 「ちょっと……!」 舞は下ろせと言おうとしたが、勇兵はそんなことは全く気にしないように、ズンズン歩き出した。 「ゆ、柚子……」 仕方が無いので、柚子に呼びかける。それで、勇兵の歩速が緩んだ。 勇兵の肩越しに、柚子を見る舞。 けれど、柚子は茫然自失しているように、その声に反応しなかった。 「柚子、おいで」 柚子は何か呟いているのか、口だけが時々動いた。 それ以外の反応はなかった。 「柚子……ぅっ……」 舞が苦しそうに声を上げ、体を硬直させるので、勇兵が代わりに声を張った。 「先に保健室行ってっから、渡井、あとから来いよ!」 そう言うと、勇兵は歩くスピードを速めた。 舞は呆然と立ち尽くす柚子を、見えなくなるまで見つめていた。 |