◆◆ 第4篇 手繋ぎ・みんなでお絵描き ◆◆

Chapter12.遠野 清香



 グラウンドがざわついていたので、清香はボール拾いの手を止めた。
 小さなプラスチックのカゴの取っ手をきゅっと握り締め、近くにいた男子に声を掛ける。
「すいません」
「あ、は……い……」
 こちらを見た瞬間、相手の表情が見惚れるようにカチンと固まったが、清香はそんなことは構わずに尋ねた。
「何か、あったんですか?」
「いや、俺も、よくわかんないんすけど……1年の女子が、怪我したとかで」
 清香はその答えに表情をきつくした。
「ありがとうございます」
「あ、でも……怪我した子……は……」
 頭を下げ、カゴを置いて、すぐに駆け出す。
 1年の女子なんてたくさんいる訳で、それほど気にするようなことでもないのかもしれないけれど、なんとなく、嫌な予感がする。
 こういう時感じる予感だけは、困ったことに、清香の場合、外れたことが無い。
 傷つく前の防波堤の作り方が上手くなったせいか、覚悟を決めるスピードもそれと共に速くなったのだと思う。
 清香は行き交う生徒をかわして、グラウンドのにわかに人垣が出来ている場所まで走った。
「す、すいません。ちょっと、通して……ください」
 清香は人垣の中へと果敢に入っていく。
 そして、ようやく人垣を抜けたところで、その輪の真ん中に柚子が立っているのを確認した。
 1年の……舞のクラスの女子が数人、柚子を慰めるように声を掛けている。
「大丈夫だよ、足怪我しただけみたいだから。ね? 渡井さん、そんなに泣かないで」
「そうだよ。早く、保健室行こう? 車道さん、呼んでたみたいだよ?」
 彼女たちの言葉に、柚子は泣きながらブンブンと首を横に振っていた。
 首を振る度に、三つ編みが大きく揺れる。
 慰めの言葉を掛けながら、柚子に触れようとその中の1人が動いたけれど、柚子はその動きに反応して、どんどん後ずさってしまう。
 まるで、怪我をした子犬を懸命に救助しようとしているレスキュー隊のようだった。
「すいません、怪我した人って……」
 清香はすぐ横にいた女子に声を掛ける。
 その女子は清香の顔を見た瞬間、嫌そうな目をしたが、無愛想ながらも答えてくれた。
「1年A組の車道って子」
「くー……」
 その答えに、一瞬気が遠くなったが、踏みとどまる。
「?」
「あ、車道さんは?」
「保健室じゃない? すっごい勢いで、塚原くんが連れてったみたい」
「そう、ですか。ありがとう」
 清香は頭を下げ、踵を返そうとした。
 が、いきなり人垣がざわついたので、足を止めた。
 すぐに柚子のほうを見る。
 すると、柚子を慰めるクラスメートたちが立っている場所と反対の場所から、2年の女子が現れ、その中の1人が柚子の肩を掴んだ。
 急に後ろから肩を掴まれたのもあって、柚子はパニックに陥ったように暴れて、掴まれた手を思い切り引っ掻いた。
「いった……何すんの、コイツ」
「ねぇ、今、そこで聞いてきたんだけどぉ、車道って子が怪我したってホントぉ?」
 柚子は気が動転しているのか、肩で息をし、問いには答える様子も見せない。
 頬をボロボロ涙が伝っている。
 おそらく、柚子との練習中に怪我をしてしまったのだろうけれど、あそこまで柚子が取り乱すとは思っていなかったので、清香は目を丸くした。
 柚子の代わりに、クラスメートがその問いに答えた。
「はい。後ろから、人がぶつかってきたらしくて」
「……だから、こんなのと組んで欲しくなかったんだよねぇ……」
 2年の女子が1人、そんなことを呟き、その呟きに対して、2年グループが盛り上がったように笑い出した。
「うっわ、本人前にして言う? フツー」
「だってぇ、本当のことじゃん。これで、リレーは絶対取れなくなったもん」
「ごめんなさい……」
 柚子が怯えるようにそう言った。
 その言葉に、クラスメートの子が反論した。
「渡井さん、悪くないよ。ごめんなんて言わなくていいんだよ?」
「ごめんなさい。ごめんなさい。全部、わたしが、悪いの。ごめんなさい。ごめんなさい」
 柚子の呟きはもう呟きではなかった。
 みんなに聞こえる声で、何度もごめんなさいを言い続ける。
 それは傍から見ているこちらからすると、若干狂気染みていて、その声が途絶えないことに、周囲の生徒たちが緊張するように息を飲んだ。
「なに、コイツ……」
「うわぁ……超きもいんですけど……」
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
 柚子は怯えるように頭を抱えて口を動かす。
 周囲の生徒たちは、彼女の声の悲痛さに只事でない空気を感じ取っていた。
「渡井さん……」
 慰めるために傍にいたクラスメートたちですら、若干引き気味でその様子を見つめていた。
「何なの? コイツ、もしかして、これ?」
 2年の女子の1人があざ笑うように、頭の上で、指をクルクル動かし、最後に手を開いてパーを作った。
 それを見た瞬間、清香の中で、何かが弾けた。
 拳を握り締め、2年の女子を睨みつける。
「あたしらの体育祭、もう無茶苦茶じゃん」
「あの子に期待してたのにねー」
 柚子のことなど、ほとんどどうでもいいように、2年の女子たちはそんなことを話している。
 それでも、彼女のごめんなさいは止まらない。
 清香は意を決して、柚子の傍に駆け寄った。
 柚子の顔を覗き込むと、彼女は放心状態のように目を見開いて、口だけ動かしていた。
 2年の女子がした仕草のものとは違う。
 おそらく、彼女が元から持っている発作のようなものだと感じられた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 清香は優しく柚子の手に触れた。
 触った瞬間、拒絶するように手を払われたが、構わずに今度はしっかりと握り締めた。
「渡井さん、落ち着いて。大丈夫だから」
 清香の言葉が聞こえたのか、ようやく、柚子の言葉が途絶える。
 清香は笑顔で、柚子を引き寄せ、抱き締める。そして、ポンポンと幼子をあやすように、彼女の背を叩く。
「大丈夫。大丈夫よ。くーちゃんなら、大丈夫だから。くーちゃんは、こんなことで、怒ったり、嫌ったりしないから」
 彼女が錯乱状態に陥ってしまったのには、他にも理由があるだろうけれど、きっと、この言葉が一番、今の彼女には必要なのだと思った。
 分かるのだ。彼女は、自分に似ていると思うから。
 舞を好きな者同士だから、分かり合える部分がある。
 清香は柚子を落ち着かせながら、静かに2年の女子を見据えた。
「さっきの言葉、取り消してください。彼女に対して、失礼です」
 いつも風当たりを気にして、何も言わないことを選んできた。
 けれど、今ここでこう言えるのは、自分しかいない。
 自分は、舞がいればやったであろうことを、そのまま、実行するだけ。
「なに、アンタ」
「この子の友達です」
 清香はしっかりとした口調でそう言い切った。
 その言葉に、柚子は可愛らしい目を丸くして、こちらを見上げてきた。
 2年の女子が腕組みをして、こちらへと近づいてくる。
 清香は眼差しを険しくして目を逸らさない。
「喧嘩売ってんの?」
「いいえ、ただ、先程の言葉を、いえ、今、ここで彼女に言った言葉、全部取り消して欲しいだけです」
「はぁ? 馬鹿じゃん?」
「恥ずかしくないんですか? 自分の都合で、人に不快な思いをさせるなんて」
「今、あたし、アンタの言葉で、すっごい不快なんですけど」
 2年の女子が清香と柚子を囲み、後ろにいた柚子のクラスメートたちはビクビクと後ずさった。
「1年が粋がる気?」
「今時、流行りませんよ、後輩いびりなんて」
「はぁ? 何それ……」
「あたしら、そんなつもりないけどぉ?」
 清香よりも背の低い人たちだったので、清香は見下ろす形で言葉を返そうとした……が、その時、修吾が割って入ってきて、双方静かになった。
 ゼェハァと肩で息をし、汗を拭って姿勢を正す修吾。
 その所作のひとつひとつに、2年の女子が見惚れるように表情を緩めた。
「渡井、大丈夫?」
「え?」
「さっき、勇兵とシャドーに会って、練習で転んだって聞いたんだ。……平気?」
 柚子は目を白黒させていたが、数瞬後に、コクンと頷いた。
 清香はその様子を見て、修吾が来るのならば、自分が割って入ることはなかったのかな……と少しばかり卑屈な方向に考えが行った。
「そっか。人垣出来てるから焦った……」
 修吾のその言葉に、柚子がようやく平常通りの反応を見せた。
 クスクスと笑い、小首を傾げてみせる。
「わたしのほうが大怪我してるなら、舞ちゃんだけ保健室に行くわけないじゃない」
「そ、そうなんだけど……さ」
「でも……」
「 ? 」
「走ってきてくれてありがとう」
 柚子がニコリと笑い、修吾はその笑顔に見惚れたのか、表情が固まった。
 修吾はコホンと咳き込む。
「う、うん。そりゃ、友達だし、当然だよね」
 その繕うような言葉に、今度は清香のほうが笑いそうになってしまった。
 可愛い生き物がここにいる。舞なら、そう言うのだろう。
 笑いを堪えている清香に対して、柚子は向き直って頭を下げてきた。
「遠野さん、ありがとう。おかげで落ち着いた」
「うん。友達だし、当然でしょう?」
 修吾の言葉を真似てそう言うと、修吾がゴホゴホと咳き込んだ。
 柚子はその返しに、一瞬困ったように目を細めたが、その後ほんわかと笑った。
「……そう言ってもらえて、嬉しい。ありがとう」
 いきなり空気が和やかになったため、2年の女子は毒気を抜かれたように、何も言葉を発さなかった。
 修吾がこの場にいる、というのも、もしかしたら、いい効果があるのかもしれない。
 柚子は2年の女子の間をすり抜け、クラスメートたちの元まで歩いていき、同じように頭を下げた。
「ごめんなさい。わたし、取り乱すと、抑えが効かなくて。さっきはありがとう……」
「う、ううん。大丈夫ならいいよ。全然気にしないで〜」
「そうそう。ちょっと驚いたけどさ、うちのお姉ちゃんのヒスに比べたら可愛いもんだよ」
「それより、早く、舞ちゃんのとこ行ったげなよ〜。呼んでたよ」
「……う、うん、そだね」
 柚子はニコリと笑顔を返し、こちらへと戻ってきた。
 人垣を作っていた生徒たちも、問題が解決したらしいことが分かったのか、バラバラと散り始めた。
「あ」
 修吾が柚子の顔を見て、少し迷うように目を動かしてから、そっと柚子の前髪を上げた。
 額に擦り傷が出来ており、うっすらと血が滲んでいた。
「 ? 」
「あ、渡井さんも怪我してるじゃない。早く保健室行こう」
 清香は迷わずに柚子の腕を優しく掴んで、導くように引っ張った。
 柚子の足が引かれるままに動き出す。
 修吾もそれに従うように横に並んだ。
「みんなに心配かけたみたいで、ごめんなさい」
「……ホントだよ」
 柚子の言葉に、修吾は静かにそう答えた。
 その言葉に驚いたように、柚子が修吾を見る。
 修吾は照れるように目を細め、静かに言った。
「もう、話し掛けても大丈夫?」
「え?」
「ほっといてって、言われたからさ」
 清香は傍でその言葉を聞きながら、一切茶々を入れることなく、2人を見守る。
 柚子は少し迷うように目を細めたが、すぐにコクンと頷いてみせた。
「……大丈夫かは、わからないんだけど……」
「うん」
「わたしの中で、ひとつだけ、答えが出たの」
 その言葉に、修吾が不思議そうに柚子を見た。
 柚子はその後は何も言うことなく、ゆっくりと歩いてゆく。
 修吾の歩速は、柚子のそれにぴったり合っていて、それに気が付いた柚子がクスリと笑った。
「ど、どうしたの?」
「二ノ宮くん、ゆっくりも歩けるんだね」
「え?」
「いっつも、速いんだもん。小さいわたしはついてくの大変なんだよ?」
「…………。あ、うん。ごめん」
「ううん。別に、怒ってるわけじゃないから」
 柚子がニコニコ笑ってそう返す。
 修吾はそんな柚子の様子を見て、安心したように目を細める。
 清香はそんな2人の様子に、こっちの顔が赤くなりそうなんですけど……と心の中で呟きながら、2人より少し前を歩いた。



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