◆◆ 第4篇 手繋ぎ・みんなでお絵描き ◆◆

Chapter14.二ノ宮 修吾



 笑顔で一緒に帰ろうと言い、柚子を引き止めるのに成功したものの、すっかり元気を失ってしまっている柚子を見て、修吾は言葉が出てこなくなってしまった。
 そこは相も変わらず。口下手の、シャイボーイなので、仕方のないこと。なんて、舞の冷やかしが入りそうなほどに。
 けれど、柚子はしょげた表情のまま、それでも、修吾と同じ歩幅を崩さなかった。
 修吾はすぐに学校前の公衆電話で、家に電話し、兄に車を出してもらえるように頼んだ。
 運良く、兄はまだアルコールが入る前で、文句を言いながらも、最終的には母にせっつかれて、車を出してくれることになった。
 車を待っている間も、車に乗ってからも、修吾と柚子は言葉を交わすことはなかった。
 ただ、修吾と柚子の距離だけは、その日、その時が、今までの中で一番近いものであった。
 そのことに、修吾自身は全く気が付いていないことが残念でならない。
 迎えに来た賢吾は、柚子の家の住所を聞いて、遠いなぁ……とぼやきながらも、すぐに車を発進させた。
 綺麗なヴァイオリンの旋律が耳に優しく、修吾は心を弛緩させる。
 派手な格好に似合わず、車内で聞く曲は専らクラシック。
 それが賢吾のいつものスタイルで、そんな背中を見ると、時々、胸が痛くなることもあった。
 音楽を聴く時、ジャンルは一切問わないくせに、一番愛して止まないのは、クラシックなのだ。
 ポップスを弾きたがる子供たちも多かった中で、賢吾は、ピアノを習っていた時、一度もクラシック以外を弾きたいと言ったことはなかった。
「何か聴きたい曲あったら入れるから言ってくれ」
 しばらく経っても二人が全く喋る気配がないので、賢吾は静かにそう言って、助手席に積んであるMDを適当に放り投げてきた。
 おそらく、誰か乗せた時用に用意してあったものなのだろう。
 ジャンルも歌手の趣味もめちゃくちゃだった。
 信号で車内灯をさりげなく点け、
「早めに」
とぶっきらぼうに言った。
 修吾は柚子にもMDに貼ってあるラベルが見えるように見せる。
 けれど、柚子はあまり最近の曲が分からないのか、首を傾げてそれを見るだけ。
 なので、修吾は静かに考えてから、尋ねる。
「この前映画でやってた、ジャズの曲ってある?」
「ああ、あれか……あいつらが吹いたのじゃないけど、あるぞ。赤のMD」
「あ、これか。じゃ、これで」
「わかった」
 修吾は賢吾に赤いMDを手渡し、車内灯を消して、残ったMDをかき集めて助手席に返した。
 勢いよく曲が流れ出し、賢吾が節を刻むように時折指を軽く動かした。
 すると、それまで、だんまりを決め込んでいた柚子がようやく口を開いた。
「二ノ宮くん……わたし、駄目だね……。舞ちゃんに、迷惑ばっかり掛けて……」
 彼女はとても掠れた声で、修吾にそう言った。
 修吾は車に揺られながら、ただ、ふるふると首だけ振る。
 大丈夫。全然そんなことないよ。
 その言葉が、上手く出てこない。
 迷惑なんかじゃない。
 舞は、柚子のことをそんな風に感じることは絶対にない。
 修吾は二人を見ていて、そう思う。
 柚子だって、それは分かっているはずなのに。
 先程の舞の言葉を聞いて、柚子の心は弱くなってしまっているのだ。
 舞は一切悪い意味で言ったわけではない。
 柚子自身を心配して言ったことだ。
「だ……」
「迷惑掛けねー人間なんて、この世の中に一人もいやしねーよ」
 修吾が言葉を発するのに時間が掛かりすぎたためか、業を煮やしたように賢吾が煙草をふかしながら、そう言った。
 柚子がその言葉に視線を上げる。
「友達の面倒みるなんてのは、迷惑とは思わねーだろうが。それが違うって言ったら、そいつは友達じゃねーってこった。それだけのことだよ」
「…………」
「迷惑かどうか、本人に聞きもしねーで、へこむな。そんなのは不毛だ」
 賢吾は煙を吐きながらそう言い、ただ前方を見つめる。
 しっかりとした意志を持って、兄はいつでも言葉を言ってのける。
 修吾は兄のそんなところだけは、尊敬していた。
 とはいえ……。
「ま、事情も知らないおっさんが口挟むことでもねぇだろうけどな」
 修吾の思っていたことを、すぐに賢吾は口にし、誤魔化すように笑う。
「……だが、おれの経験から言わせてもらうと」
 その後、賢吾はまた付け足すように言った。
「言い合いしてでも、答え出してからにしたほうがいいぜ。あーだこーだ悩むのは。出ちまった言葉は消えないかもしれないが、出なかった言葉は永遠に心ん中にあって、そのまま、自分を腐らすだけだ。な? ちびっこ」
「ち……兄貴! もう少し呼び方ってものがあるだろ……?!」
「あ、あ、修吾くん、いいよ、わたし、気にしないから!」
「え? いや、気にする気にしないの問題じゃなくて……」
「ふっふーん。ちびっこは話の分かる子のようだな、修♪」
「修♪ じゃねぇよ。気色悪い!」
「駄目だよぉ、喧嘩はぁ」
「……け、喧嘩なんかじゃないよ、これは」
 柚子に止められて、修吾はすぐに言葉を引っ込める。
 賢吾がその様子を見て、楽しそうに笑った。
「なんだよ?」
「いや、そうかそうか、と思っただけ」
「何が……?」
 修吾は賢吾のからかうような素振りに、少々苛立ちながら尋ねるが、賢吾はその問いに対しては、誤魔化すようにMDの曲に合わせて鼻歌を歌い始めた。



「お、お邪魔します……」
 修吾はかしこまって、玄関先で頭を下げた。
 よりにもよって、体育祭の練習後のジャージ姿のまま、柚子の家に上がることになるとは思っていなかった。
 確かに、舞が後から行く、と言っていたのだから、こういう局面も考えられたわけだけれど、さすがに、ここまでは全く考えていなかった。
「そんなにかしこまらずに上がってちょうだい」
 柚子の母親・和海(かずみ)が笑ってそう言う。
 娘を車で送り届けてくれたのが、男子であろうと、全く気にする風でもなく、無邪気に微笑んでいる。
 どうやら、柚子は母親似らしい。
 まだ30代後半だろうか? 春花も年の割に若いけれど、和海は明らかに若かった。
「柚子、ご飯は?」
「あ、う……要らない……」
「えー……何? 具合でも悪い?」
 修吾が靴を脱いでる間に、和海は柚子の額にぴったりと額をあてがって、心配そうに目を細めた。
 車を庭先に停めて、賢吾も中へと入ってきた。
「ううん。食欲ないだけ」
「……まーた、悪い虫出てるなぁ?」
「…………」
「ま、いいわ。どうせ、今日もお父さん、帰り遅くなるって言ってたから、もし、お腹空いたら、その時、一緒に食べなさい」
「……う、うん。あ、二ノ宮くん、こっち」
 柚子は困ったように目を細め、ただ、修吾に手招きをする。
 賢吾はそれを横目で見ながら、紙袋を和海に差し出して、軽く頭を下げた。
 和海は賢吾の風体を見ても全く物怖じせずに笑った。
「いつも、弟が世話になってるみたいで。これ、母からです。手作りクッキーなんで、早めに食べてくださいって言ってました」
「ありがとうございます。お世話になってるのはこっちのほうでしょうに。お勉強も教えていただいたそうだし」
「いやいや。コイツ、取り柄、頭と顔だけですからそのくらい安いもんです」
「面白いお兄さんねぇ……二ノ宮くん」
「あ、はぁ……」
 和海の言葉に、修吾は照れたように耳の後ろを掻く。
 柚子は賢吾に深々と頭だけ下げて、階段を上がっていってしまった。
「修、おれ、車で待ってるから」
「……あ、ああ、わかった」
「あ、ごめんなさい、気が利かなくて。どうぞ、上がってくださいな」
「いや、おれは単に弟が世話になってるんで、挨拶させていただいただけですんで」
「そうですか?」
「はい。それに、おれ、煙草吸うんで」
 賢吾は普段見せないような愛想笑いで、煙草を見せながらそんなことを言い、さっさと家を出て行ってしまった。
 修吾は柚子を追うように階段を上がる。
 柚子は部屋のドアを開けて立っていた。
「どうぞ」
「あ、うん」
 柚子は招き入れるように部屋を右手で指し示し、恥ずかしそうに目を細めた。
 それを見て、修吾のほうも照れて、言葉が出てこない。
 初めての彼女の家。彼女の部屋。
 いきなり過ぎて、緊張状態がピークに競りあがっている。
 二人が身動き取れずに見つめ合っていると、階段を上がってくる音がした。
 和海がアップルジュースの入ったコップをプレートに乗せて、上がってきた。
「あら? 何やってるの? そんなところで……」
「あ、は、早く、入って、修吾くん!」
「ああ、うん!」
 二人は和海の登場で、ようやく目が覚めたように動いた。
 修吾が中に入って、柚子は和海からプレートを受け取る。
 修吾は床に座って、部屋を見回す。
 勉強机の上に、スケッチブックや絵の具のストックが積まれていて、少しごちゃついた印象を持ったが、それ以外はすっきり整頓されていた。
 ところどころにある小物やぬいぐるみは少女趣味で可愛らしく、壁には写真を貼ったコルクボードが3つほど吊られている。
 柚子は床にプレートを置いて、修吾のほうにクッションを渡すと、ドアを閉めて戻ってきた。
 そして、ベッドに寄り掛かり、傍にあったクッションを胸に引きつけると、恥ずかしそうに笑った。
「あ、あんまり、マジマジ見ないで」
「あ、ああ、ごめん」
 修吾はその言葉に、ただでさえ、硬直していた体を更に硬くした。
 とりあえず、リラックスしようと、ジュースを口に含む。
「ごめんね、今日、送ってもらっちゃって」
「あ、や、別に。それはいいから」
「……うん。ごめんね。なんか、舞ちゃんにも、気を遣われてたんだなぁって思ったら、つい……。わ、わたし、舞ちゃんの、中立で、だけど、はっきりしたところが好きだから」
「気は、誰に対してだって遣うよ。渡井だって、遣ってる部分あると思うけどな」
「……そう、だよねぇ……」
「別に、悪いことじゃないと思うんだ。仲良くしたいから、気配りをすることって、むしろ、良いことだろ? ただ、今回みたいなことで、言わないのはどうかなぁってオレは思ったけどさ」
「うん、わたしも、嫌」
「シャドーはシャドーで、渡井に心配掛けたくなかったんだろうね。大事だから、余計にさ」
「うん。わかってる。わかってるんだけど……ショックだったんだ」
 柚子はゆっくりと姿勢を正して、やんわりと笑う。
「舞ちゃんの一番は、わたしだって、思っていたかったから。一番には、なんでも、話して欲しかった」
「……渡井……」
「修吾くん、わたしが、悩んでたことね?」
「うん」
「誰かの、一番で在りたいってことだったの」
「誰かの、一番?」
「……うん……。わたし、ほら、変な子だから、お友達いなくて……。だから、久しぶりに出来た、舞ちゃんや修吾くんの、一番がいいって…………そんな風に思っちゃって。でもね、そしたら、……わたしの彩が見えなくなっちゃった」
「…………」
「それまでは綺麗に見渡せていたのに、視界を色んなものが覆って、わたしの彩も、世界の彩も奪われていってるように感じた。わたしが、舞ちゃんや修吾くんと仲良くなりたいなんて、贅沢なこと考えるから、駄目なんだって、そう思った」
 柚子の目から涙が零れ落ちる。
 柚子は慌てて、零れる涙を制服の袖で拭き、俯く。
「みんなが、いつか、いなくなっちゃうんじゃないかって思ったら、怖くなったの」
「どうして……?」
「え?」
「仲良くなりたいって思うことは贅沢なことなんかじゃないよ。むしろ、そう思ってもらえるのは、素敵なことだ。オレなんかには勿体無いくらい、ありがたいことだよ」
「…………」
「渡井、自分を下に見過ぎないで。渡井は、とっても、素敵な子だもの。勿体無いよ」
 君がどれほどの輝きに溢れているのか、それを、僕の目で見せてあげられたらいいのに。
 修吾は心からそう思う。
「僕……少なくとも、オレは、そう言ってもらえて嬉しい」
 それがたとえ、恋愛的な意味でなくたって。とても光栄なことだ。
 柚子は顔を上げて、修吾の真剣な顔を真っ直ぐに見つめてくる。
 そして、思い出したように笑った。
「……お兄さんの、言ってたことは正しかったんだね」
「え?」
「わたし、……言って良かった。このまま、言わなかったら、自分が駄目になっていくだけだった」
「そっか」
「うん、舞ちゃんにも、言う。このこと」
「ああ、そうするといいよ」
 修吾は優しく微笑んで、そして、言葉を継いだ。
「あのさ、渡井。渡井、オレに訊いたじゃない? 自分の彩が分からないって」
「……あ、うん……」
 一瞬、言葉を躊躇うが、それでも、なんとか、口を動かす。
 照れたら駄目だ。
 ここで、彼女を笑顔にしなくちゃ、自分は0点のままだ。
「オレにとっての渡井は、お日様の彩!」
「え?」
「光があるから、世界には色があるって、人間は認識できるんだ。渡井は、そういう彩を持ってると思う。普段は透明で、でも、ふとした時に、色んな色を見せる。とっても、素敵な彩だよ」
 言いながら、やっぱり恥ずかしくなってきて、修吾は途中で後悔しそうになった。
 けれど、柚子はその言葉を笑うことなく、優しい目で聴いてくれた。
 修吾は熱くなる顔を誤魔化すように、立てている膝に額を置いた。
「それと、渡井」
「なぁに?」
「彩がないと思うなら、作ればいいんだ」
「え?」
「オレの言った言葉でも足らないなら、もっと作ればいい。そして、カンバスをたくさんたくさん、塗っていこう」
「塗って、いく?」
「みんなで、塗っていこう? 渡井が、これだって思える彩が出来るまで!」
 修吾は顔を上げて、はっきりと言い切った。
 柚子は理解できないように首を傾げる。
「わたしが、これだって、思える?」
「うん、この、三年間で! 渡井の、心の中に!!」
 修吾は床に手をついて、勢いよくそう言った。
 柚子がビックリしたように目を丸くする。
 そして、数秒間が空く。
 その間で、修吾は思わず、言うんじゃなかったか……と、肩を落としそうになった、けれど、それよりも早く、柚子が楽しそうに笑った。
「みんなでお絵描き? 楽しそう♪」
 そう言って、ベッドに寄り掛かる姿勢から、お姉さん座りになる。
「わたし、一人でしか絵描いたことない。みんなでお絵描きなんて、考えたこともなかった」
 柚子は嬉しそうに笑い、感心するように修吾を見る。
「やっぱり、修吾くんはすごいね♪ そっか。わたしのこれからは真っ白なカンバスなんだ♪」
 柚子が思った以上に感動して、そんなことを繰り返すので、修吾のほうが恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
 思わず、柚子の言動を止めたくなるくらいだった。
「おぉやおやぁ?」
 と、その時、茶化すようないつもの声が、部屋の外でして、カチャリとドアが開いた。
 舞が清香の肩を借りて立っていた。
「清香、もういいって。大袈裟。歩けるから」
 そう言って、清香の肩から腕を離して、片足を若干引きずりながら、中に入ってきた。
 突然の登場に、修吾も柚子も言葉が出ない。
「柚子ー、ベッド座らして〜」
「あぁ、うん」
 舞が甘えるようにそう言ったので、柚子が慌てて立ち上がり、場所を譲って、舞の手を取った。
 清香は心配そうに目を細めていたが、舞がベッドに腰を下ろすのを見届けると、静かに笑って言った。
「車で待ってるから」
「……ええ。ありがとう、清香」
「うん」
 清香は修吾と柚子に小さく会釈をして、踵を返した。
 階段を下りていく音と、「お邪魔しました」という穏やかな声が聞こえた。
 舞がそれを聞き届けてから、クックックッとおかしそうに笑う。
 柚子が不思議そうに舞を見ると、舞はからかうように言った。
「しゅ、しゅ、二ノ宮くん、じゃなかった?」
 その言葉の意味が修吾はよくわからずに首を傾げ、柚子は顔を真っ赤に染める。
「ま、舞ちゃん! あ、なんでもないから、二ノ宮くん!!」
 舞の口を手で覆って、睨むように見つめる柚子。
 修吾はその凄みにただコクンと頷くだけ。
 舞は柚子の手を両手で優しくどかして、悪戯っぽく笑った。
「だってぇ……あたしの柚子さんが、ニノに奪られるかと思ったんだも〜ん」
「舞ちゃん! もう、本気で怒るよぉ!!」
「あはははは。痛い痛い……!」
 ポカスカと柚子に叩かれるも、舞は楽しそうに笑って、その攻撃を受け止めた。
 修吾は目の前のその光景に、呆気に取られながらも、柚子が久しぶりに楽しそうに笑っているので、ただ優しく微笑んだ。



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