◆◆ 第4篇 手繋ぎ・みんなでお絵描き ◆◆

Chapter16.渡井 柚子



 修吾の言うとおりだった。
 柚子の言葉を聞いて、舞は優しく目を細めて笑ってくれたのだ。
 その笑顔は今までで一番可愛らしくて、思わず、ほわりと頬が緩むほどに。
『あたしさ、誰かの一番とか、そういうの、あんまり考えたことなかったのよ』
 彼女は髪の毛をクルクルといじりながら、目を伏せてそう言った。
 一緒に居るのが自分だけならばそんな風にしなかったろうけれど、今、部屋の中には修吾もいた。
 舞は、そのことをすっかり忘れていたのだろう。
 心からの笑顔を見られて、照れたのか。
 この人は、本当に……どこまでも可愛い人だと思う。
『自分で言うのもなんだけど、誰とでも仲良く出来るし、普通に過ごしていれば、それなりに仲良くなれたしね。だから、仲良い人はたくさんいたけど、グループなんてものには一切属したこともないし』
 彼女はいつでも中立で、飄々と風のように人と人との間を歩いていく。
 みんなが舞に心を許すのは、その自然さゆえで、おかげで、彼女は誰からも嫌われない。
 柚子の知る限り、舞のことを嫌いだと言っている人は見たことがない。
 それなりに目立つ部類の人であることを考えると、それはとても不思議なことだった。
 けれど、仕掛けは結構単純だ。
 なぜならば、……風に、人はさほど気を配らないのだから……。
『いつも一緒にいるよねって言われるような子、柚子が初めてなんだよ?』
『と、遠野さんは……?』
『清香? 彼女は、そういうのじゃないし。……何より、中学の頃は、たまに一緒に帰るくらいだったよ』
『そうなんだ……』
 舞の表情が少し寂しげに揺れて、その後、思い直したように笑った。
 『中学の頃』を思い出したのだと思う。
 人知れず、悩んでいた頃のことを。
 舞の手がそっと柚子の頬に触れる。
 冷たい指先に少し身じろぎし、そのまま舞に視線を向ける。
 彼女の目は優しい。
 いつでも、舞は柚子を包むように見つめてくれる。
 そのことに、ずっと気が付いているようで、気が付かなかった。
『いつか』
『え?』
『柚子の昔の話も聴かせてね』
『…………』
『話したくなったらで、いいから』
 彼女は風のように吹き抜けて、決して傍には寄ってこない。
 そんな風に思っていたけれど、本当はそんなことなどなくて、いつでも、すぐ傍を漂って、待っていてくれたのだ。
 柚子の脳裏に、一枚の絵が過ぎる。それは、昔描いた柚子の絵。完成することなく終わった……、のっぺらぼうな少女の絵。柚子が、人物を絵の中に取り入れなくなったきっかけとなった絵。
 柚子はコクンと頷くだけ。
 話す日はきっと来ない。来るはずもない。
 だって、今、自分は幸せだから。
 幸せな今に、過去にあった冷たすぎる日々の話は必要ない。
『あ、そうそう。気が早いんだけどさー、クリスマス、どうする?』
 舞は柚子の表情でなんとなく察したのか、話を逸らすようにそんなことを言って笑った。



「ってことで、申し訳ないんですけど、あたし、出られなくなりました」
 柚子の前の机に腰掛けた状態で、ジャージ姿の舞は廊下から話しかけてきた先輩に対し、物怖じすることなくそう言ってのけた。
 頭に巻くべきハチマキをネックストラップのように首から提げ、それをクルクルと指で弄びながら、舞は笑っている。
「笑い事じゃないって」
「いやー、だって、走れないものはしょうがないじゃないですかぁ」
「でも」
「それよりもぉ」
「なに?」
「この子にあることないこと……いや、ないことばっかりの暴言を吐いた先輩がいらっしゃると、耳にしたんですけど、どなたかわかります?」
「……何のこと?」
「いえ、知らないなら別にいいんですよ」
 舞はにっこりと笑って、相手方の苛立ちを軽くかわす。
 今、舞と話している彼女が、柚子に暴言を吐いたグループの一人であることは、クラスの子たちから聞いて、舞は知っていた。
 けれど、柚子からすると、彼女の顔は全く記憶になかった。
 取り乱していたのもあって、あの時、何を言われたかなんて、あんまり覚えていないので、なんとも思っていない。
「とにかく、リレーは別の子当たってください」
「……わかった。お大事にね」
「ありがとうございます」
 舞の笑顔に押し切られる形で、先輩は不服そうだったが、そこで引き下がった。
 柚子はそこではぁぁぁと息を吐き出す。
 それを見て、舞が不思議そうに首を傾げる。
 周囲で聞き耳を立てていたクラスメイトたちも、同様に安心した表情になった。
「車道さん、度胸ありすぎ」
「え? 何が?」
「だって……感じなかったの? 殺気ビリビリ」
「あんな殺気大したことないよ。あたし、もっと怖いの知ってるもん」
 舞はふざけるようにそう言って、ゆっくりと伸びをする。
「女が一番怖いのは、男がかかった時だよ」
「舞、その例えは生々しすぎるからやめて」
「あははは」
 柚子が楽しげに笑う舞を見上げて、ふわりと口元を緩めるのが見えた。
「これで、舞が無理しないで済むけど、渡井さんの二人三脚の相手はどうするの?」
「ああ。誰かやる?」
 舞は気楽にそう尋ねる。
 誰もいないだろうと思い、柚子は別に気にも留めないように廊下に視線を向けた。
 仲良くしている人が舞以外にいないのだから、それは仕方が……。
「あ、私、やってもいいよ」
 けれど、予想に反して、そんな声がすぐ傍でした。
「私、最初の徒競走走ったら、あとは応援だけだし」
 穏やかに微笑む彼女の名を、柚子は知らなかった。
「よし、じゃ、亜湖に任せる」
 舞はすぐにそう言って、ポンと『亜湖』の肩を叩く。
「桜川さんかぁ」
「さすが、困った時頼れるお姉さん」
 桜川亜湖は笑って、みんなを見、最後に柚子に視線を向けてきた。
「よろしくね。渡井さん」
「よ、よろしくお願いします」
「あのね、昨日、本当にごめんね」
 縮こまっている柚子に対して、亜湖は顔の前で両手を合わせてそう言った。
 柚子は何のことかわからずに首を傾げる。
「揉めてるって聞いて、駆けつけた時、遠野さんがもう仲裁に入ってて……クラスメイトなのに、助けてあげられなくて申し訳なかったなぁって思って」
 亜湖は見た目的なものは至って普通と分類される人であるように見えるけれど、その言葉の端々からにじみ出てくる人柄の良さが、彼女を取り巻く空気となって、好意的な印象を放ち、そこに在る。そう感じさせる人だと思った。
 柚子はその言葉にすぐに首を横に振る。
「それは、謝ることじゃないよ。気にしないで」
「そうかな?」
「うん。わたしも、昨日って言われて、何のことかすぐわからないし。その程度のことだから、全然気にしなくていいよ」
 昨日は、柚子にとっては素晴らしい日で、だから、何か嫌なことがあったとしても、それはとても瑣末なことだ。



 何度もつんのめりながら、それでも、なんとか二人三脚でゴールまで辿り着いた。
 亜湖は巻き込まれて転びそうになっても、笑いながらすぐに柚子の体を引き起こしながら、ゴール目指して走ってくれた。
 ゴール傍には、5位の旗を持った修吾が立っていて、柚子は思わず首を傾げる。
「あれ?」
 足元のタオルを解いて立ち上がった亜湖が、いるはずの無い人がそこに立っていたことで、恥ずかしそうに目を伏せた。
「5位の人、この列で待ってて」
 修吾は慣れない風にボソリとそう言って、ため息を吐く。
「何やってるの?」
「勇兵が、トイレ行きたいから、代わりにここ立っててって」
「ああ……塚原くん、体育委員か」
「そう」
 修吾は亜湖のことをチラリと見てから、周囲を気にするように、それ以上は話さなかった。
 なので、柚子もそれに合わせて、それ以上は言葉を投げかけないことにした。
 次の組がスタートする音も響いたので、自然に視線がそちらに向く。
 亜湖が横目で修吾を見て、彼が離れていったのを見計らってから、柚子に尋ねてきた。
「渡井さん、二ノ宮くんとよく話す?」
「え? ……あ、たまに、かな? ほら、舞ちゃんとよく一緒にいるから」
「そうなんだ……」
「うん」
 柚子は彼女の意図が読み取れずに、ただ静かに次の言葉を待つ。
 けれど、彼女は何か考えるようにそれ以上は何も言っては来なかった。
 聞かれないことをペラペラ話すのもなんだし、と、柚子もそれ以上は修吾のことには触れなかった。
 亜湖は少しすると、切り替えたように今シーズン見ているドラマの話をし始めた。
 柚子はドラマよりもバラエティ派なので、意気投合はしてあげられなかったが、彼女が思いのほか話し上手なので、気が付くと笑いながらその話を聞いていた。



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