◆◆ 第5篇 恋水・風に揺れるスズラン ◆◆
Chapter3.塚原 勇兵
部活が終わった後の後片付け。 息を吐き出しながら、モップを強く押し出して、身体の筋肉をしっかりと使いながら、前進する。 後片付けでも、帰り道でも、何かしら自分の身体を苛める要素がないかどうかを考えながら行動する。 勇兵はそれを呼吸をするのと同じように、当たり前に出来る人間だ。 彼は頭で理解するよりも、そういったことが身体に染み付いている。 理論よりも見よう見真似で出来るようになるタイプ。 なので、教えるのには全く向いていないが、選手としての能力には恵まれていた。 「うわっ、ちょっと、こっち来ないでぇ」 「タエ、早くしてよぉ。あと、アンタのトコだけじゃん」 「だって、カメムシが……」 タエと呼ばれた女子が泣きそうな声でそう言い、窓の傍でモップを持ったまま立ち尽くしていた。 「あぁ……モップ、乗っちゃった……」 「どうしたの?」 勇兵は男子バレー部と女子バレー部のコートの間に、ボール止め用に天井から垂らしてある網をくぐって、タエの元に駆け寄る。 タエは泣きそうな顔でこっちを見て、モップを床に投げ出した。 「カメムシ、が」 「カメムシ?」 「あたし、虫、駄目で……」 「ああ、そゆことか。コイツ、どっかにやればいいの?」 「う、うん」 「じゃ、そのモップ、俺が使うよ。高橋はこれ使っていいよ」 勇兵は自分が使っていたモップをタエに渡して、颯爽と、カメムシの乗ったモップの柄を持ち上げた。 「で、でも、塚原くん」 「寒いし、早く終わらせて帰ろうぜ。汗、冷えちまうぞ? な?」 勇兵は白い歯を見せ、朗らかに笑う。 それを見て、タエが照れるように俯いた。 「んじゃ、明日も頑張ろうな!」 勇兵はそぉっとモップを引きながら、来た時と同様に、網をくぐって男子バレー部のコートに戻り、外への扉を開け、誰もいないことを確認してから、軽くモップを振るった。 モップの毛先にしがみついていたカメムシも、数回振るうと勢いに負けるように、ポロリと落ちる。 「寒いのはわかっけど、体育館は危ないから、入ってこないほういいぞー」 勇兵はカメムシに向かって、ボソッと言うと、特に変な臭いが発されていないことを確認してから、コートに戻って、また丹念にモップ掛けを始めた。 「ねぇ、お兄ちゃんさぁ、今年も色んな人にくれって言ってるの?」 妹の歌枝(かえ)が明後日のバレンタインデー用にチョコの準備を台所でしながら、そう問いかけてきた。 半ば呆れているのは、手に取るように感じられた。 勇兵には、姉が二人、妹が一人いる。 女系家族で、父と勇兵は、家では肩身が狭い。 「言ってっけど、悪いか?」 「悪いとは言ってないじゃん。いやさ、友達が、お兄ちゃんにあげたいから渡してって、私に言ってるんだけど、もらってくるようかなぁ? って聞きたかったんだよ」 「ああ……」 「あれ? あんまり乗り気じゃない?」 「んー……これ以上増えると、返すの厳しいかもしんねーなぁって、ちょっと今考えてた」 「だよねぇ……じゃ、断っておくよ」 「ああ、悪いな」 勇兵は愛想良くそう言い、冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出す。 そのまま、口を付けて飲もうとしたが、歌枝がそれを声で制した。 「ちょっとお兄ちゃん! 使うから、飲むならコップで飲んでよ!」 「……あー、はいはい……」 面倒くさいが仕方ないので、コップを取り出して、それに牛乳を注ぎ入れた。 使うならそれ用に買っておけよ、と思わず言いたくなったが、こんな口を聞きながらも、歌枝は父にも自分にも、毎年律儀にチョコをくれるいい子なので、そこは抑えた。 「あとさぁ、舞先輩にあげたいって子もいるんだけどさぁ」 「あ? そんなの、ガク通せばいいだろ?」 「ガク、駄目だよ。最近、全然女子と話さないもん」 ガクというのは、舞の弟だ。 『楽』と書いて、ガク。 名前の割に仏頂面で、全然楽しそうな顔はしていない。 舞の顔をした男バージョンなものだから、無駄に二枚目なのだが、姉のような愛想はないので、全然可愛くない。 歌枝とは同級生で、勇兵と舞の関係とほとんど同じだ。 しかも、兄妹ぐるみの付き合いだから余計に、腐れ縁度が濃い。 「へぇ……。でも、舞も、要らないと思うぜ? ほら、去年の騒動とか、アイツ、トラウマになってるぽいし」 「だよねぇ。私もさぁ、あれは行き過ぎてると思ったんだぁ。確かにカッコよかったけど、その後の皆の反応は、ふざけてるにも程があるっていうか」 「一応、舞に聞いとっか?」 「あー、いいよいいよ。明日聞いてきてもらっても、間に合わないし」 「今、ちょっと電話で聞いてもいいけど?」 「あのねぇ、そこまでするんだったら、私がガクに聞きます」 勇兵の言葉に歌枝はおかしそうに笑い、そう言った。 「私は、舞先輩が嫌がることは断固させませんよ〜」 「昔から、お前は舞の舎弟だもんなぁ」 「ヤクザみたいに言わないでよねぇ。あ、そういえばさぁ、舞先輩、もうバスケやらないのかな?」 突然、話が切り替わったので、勇兵は少し戸惑ったが、すぐに答えた。 「やらないんじゃね? やる気あったら、部活入ったろうし」 「勿体無いなぁ……せっかく、上手いのにさぁ」 「それ言ったら、舞欲しがる運動部なんて、他にもいくつもあらぁ」 「そうだよねぇ……あーあ、今年、バスケ部入っても、舞先輩とバスケ出来ないのか。つまんない」 「受験生、余裕だねぇ」 「お兄ちゃんが入れた高校で、私が落ちる訳ないでしょ」 「はー、そうですか」 「ガクも余裕だろうしね」 「ガクも、うちの高校受けるって?」 「うん。よろしくね、先輩」 「はー、嫌な後輩が入ってくんなぁ……」 勇兵は妹が寒い中、チョコを湯煎にかける様を、ぼぉっと眺めた。 浮かない表情の修吾に、勇兵は苦笑を漏らした。 バレンタインデーを翌日に控え、女子は楽しげに準備の話で盛り上がっているグループもあった。 男子は男子で、そわついている者もいるが、我関せずといった顔をしている者のほうが多い。 彼らの内心はどうかわからないものの、基本的に、バレンタインを純粋に楽しめるのは女の子だけなのだろう。 「修ちゃん、チョコの数勝負しよっか?」 「勇兵のほうが多いに決まってるじゃないか」 「いやいやー、そんなことないってー。だって、修ちゃん、中学の時も、無記名チョコ、わんさともらったんでしょう? むぐっ」 勇兵が能天気にそう言うと、修吾は慌てるように勇兵の口を塞いだ。 勇兵は息が出来ずに、もがもがと言葉にならない声を発する。 「お願いだから、そういうことを教室で言わないでくれる?」 仕方ないので、勇兵はコクコクと頷いて、ようやく、修吾に手を離してもらった。 勇兵のはおどけてチョコをおねだりして回って貰うチョコ。 修吾は何も言わずとも、朝来ると机の中に入っているチョコ。 なんとも、重みが違うよなぁ……そんなことを勇兵は考えながら、イシシシと笑う。 とはいえ、それを毎年貰う当の本人は浮かない表情だ。 「お返しも出来ないし、いつも弱るんだよ。知っての通り、甘いの苦手だし」 「自己紹介欄に、嫌いなものは甘いものって書かないと駄目かもね」 勇兵がおかしそうにそう言って笑った。 「それ、一年のはじめに書くやつだろ?」 「そうそう」 「そんなところまで頭回らないって」 修吾は苦笑して、前髪を直し、はぁ……とため息を吐いた。 勇兵はそんな修吾の様子を見てから、舞と柚子が話している廊下側の席に目をやった。 舞が柚子をからかうように何か話しているのが見えて、勇兵はその横顔をじっと見つめる。 楽しそうに笑う彼女は、明日のことで盛り上がっている女子たちとは全く違う話で笑っているのだろうな。そんなことを考える。 「あ、あの……二ノ宮くん」 修吾の斜め前の席に座っていた女子が、意を決したように振り返った。 確か、桜川……だったろうか。 さほど目立つタイプの女子ではないが、勇兵のクラスにも仲の良い女子がいて、結構頼りにされているようだったので、顔を覚えていた。 修吾は突然声を掛けられて、驚いたようにきょとんとした表情で彼女を見る。 桜川は周囲を慎重に見てから、静かに言った。 「あの、明日、チョコ持って来るけど……迷惑かな?」 「……え、と」 真っ直ぐな問いに、修吾は言葉に困るように目を細めた。 そう聞かれて、迷惑、と答えるような性分ではない。 桜川の問いかけ方はそういう意味では上手かった。 勇兵がすぐ傍にいるのを知っていながら、彼女は修吾に声を掛けてきた。 半端な覚悟ではないだろうし、勇兵の人となりも見定めた上での行動だろう。 勇兵は出来うる限り、干渉しないように視線を逸らし、唇を噛む。 修吾は言葉に困っているのか、しばらくだんまりが続いた。 けれど、あまり迷っていても、誰かに聞かれてしまうかもしれないことを分かっているのか、ようやく、口を開いた。 「迷惑ではないけど」 「うん」 「特別な想いが、もし込められているものなら、その……受け取れない、かな」 「……そっか」 「うん」 勇兵が修吾のほうに視線をやると、修吾はしっかりと桜川を見つめてそう言っていた。 修ちゃん、言うようになったなぁ……と、思わず勇兵は心の中で呟いてしまった。 勇兵から見た二ノ宮修吾は、顔には出にくいけれど、人の顔色を気にしながら、言葉を口にするところがある。そういう人だった。 少なくとも、仲良くなった五月頃、彼はそういう人だったのだ。 元々、他人のことを気に掛けられない部分があることを自覚しているからこそ、合わせなくてはいけないと考えてしまう節があったのだろうけれど、修吾が勇兵を気の置けない友人として認めてくれたからか、勇兵に対しては、そういう素振りはほとんど見せなかった。 彼の中には元から誰にも媚びない強さがあったし、賢い人だから判断力も悪くない。 だから、勇兵は仲良くなってすぐに、修吾は人気者になれる素養のある人だと、勝手に思っていたし、本人にもそのように伝えていた。 どうだ見てみろ。二ノ宮修吾は、やっぱりいい男だ。 思わず、勇兵は、修吾に対してひがみ感情を密かに持っている堂上ヒロトに、そう言ってやりたくなったくらいだ。 「じゃ、やめようっと」 桜川は悲しそうに目を細めたが、すぐにほんわりと笑ってそう言った。 修吾も優しく微笑んで、冗談めかしく言う。 「桜川さん、オレなんかに寄越すのは、お小遣いも労力も勿体無いよ」 「……勿体無いことはないよ、絶対」 桜川は静かにそう言って、何事もなかったかのように前を向き、五時限目の準備を始めた。 勇兵はしばらく唇を噛んで、舞のほうを見ていたが、修吾がふぅ……と息を吐いたのが聞こえて、そこでようやく、修吾に顔を向けた。 「修ちゃん、シャドー、チョコくれると思う?」 全く聞いていなかった体を装って、そう声を掛ける。 修吾はそれを察しながらも、静かに笑った。 「そんなにシャドーが気になるなら、勇兵があげればいんじゃない?」 修吾の言葉に、勇兵は不意を突かれて笑ってしまった。 「なんで、俺が……」 「イギリスじゃ、愛する人に対してプレゼントとかを贈り合う日らしいよ。友達でも家族でも誰でもいいんだって。……たぶん、友チョコとか言って女子が交換し合ってるやり方のほうが、既存のバレンタインデーっていうのに、近いのかもしれないね」 「ふ、ふーん……」 「男からカードを贈るとか……あっちは男性から女性に、のほうがマジョリティなんだってさ。やってみたら?」 「俺にやらすなら、修ちゃんもやってよ」 「え? ぼ、僕はいいよ」 修吾がしれっと言うのが面白くなくて、勇兵はすぐにからかうようにそう言った。 修吾はそう言われて、桜川を気遣うように見て、すぐに手を横に振る。 彼なりのアピールの仕方としての参考情報を教えてくれただけだったのだろう。 しかし、アピールしたところでどうともならないことは、自分が一番分かっているわけで……。 勇兵は修吾の机に頬杖をつき、舞の横顔を見つめる。 どうして、彼女はあげるあげないを迷っているのだろう。 数日前の彼女の言葉を思い出して、静かに目を細めた。 その日だけは、そういうことが許される日、と言ったって過言ではないのに。 周囲の女子を見たって分かる。 その日ばかりは浮かれていい日なのだ。 勿論、先程の桜川のように涙を飲む者だっているかもしれないけれど、それも含めて、そういう勇気を持って行動していい日だと、日本の女の子ならば、考える日なのではないのだろうか。 それなのに、舞はあの時、浮かない顔をしていた。 あの時の冴えない表情が、浮かんでは消え、また浮かぶ。 勇兵は目を細め、静かに修吾に視線を戻す。 そんな勇兵を修吾は優しい眼差しで見つめていた。 |