◆◆ 第5篇 恋水・風に揺れるスズラン ◆◆

Chapter4.車道 舞



 鳴がいつもの席で分厚い全集を読んでいる。
 舞は今日出された宿題をやりながら、それを横目で見た。
「部長、明日チョコあげるんですか?」
「…………。それどころじゃないですよ、今の時期は」
 舞の問いかけに、鳴は全集から顔を上げて、眼鏡越しにこちらを見た。
「ああ……試験ですもんね」
「ええ。明日試験だから、もう今日から出かけてます」
「そうなんだ……受かりそうです? 元部長」
「さぁ? あの人は、いつも通り、大丈夫大丈夫って言ってたけど、どうなんだか」
 鳴は苦笑を漏らし、目を細めた。
 その声があまりに優しいので、舞は耳がくすぐったくて、首を軽く振った。
「ねぇ、部長」
「はい?」
「バレンタインにチョコをあげるって、くだらないイベントだと思いません?」
「……思いますよ? 特に、日本のイベント事というのは、どうにも色物染みていて、私はあまり好きにはなれません。日本本来の行事は好きなのですけどね」
「部長らしい」
 舞は鳴らしい答えに、安堵するように微笑んだ。
 文芸部員三人は、年甲斐もなく考えが老成しているとでも言えばいいのか、周囲が騒いでいることに対して、乗り切れない。そういう考え方が強い者ばかりだ。
 そのおかげか、舞はこの空間がひどく落ち着く。
 最近、それを実感するようになってきた。
 舞はシャーペンを置いて、冷えた指先を暖める。
「車道さんは?」
「え?」
「あげるんですか?」
「あはは〜。あたしはあげないですよー」
「そうなんですか?」
「意外です?」
「あなたの性格上、意外ではないですけど、いつも誰かの帰りを待っているみたいだから」
「…………。はは、そうですよね」
 舞は鳴に視線を動かす。
 鳴は舞のことをしっかりと見据えていた。
 眼鏡越しにクールな眼差し。
「友達なんですよ」
「え?」
「仲の良い友達なんです。別に、付き合ってるわけでもなんでもなくて」
「……でも、恋人に近しい存在ではないんですか?」
「……は、恥ずかしい表現しますね、部長」
 舞は茶化すようにわざとらしく笑って誤魔化す。
 そう言われて、鳴が困ったように目を細める。
「そう、ですか?」
「あ、わ、悪い意味じゃないですよ。ただ、照れるというか」
「あ、ああ……それならいいんですけど。先輩にも、表現が時々古いって言われるので」
「友達以上恋人未満、とか言われない限り、大丈夫です」
 苦笑いする鳴を見て、舞はフォローするようにそう言って笑い、頬杖をついた。
 落ちてきた横髪をつまみ、毛先をじっと見て、パラリと落とす。
「私は、柄にもなく、今年度は色々頑張ったので、その経験から言わせてもらうと」
「? はい」
「あげたほうがいいんじゃないですか?」
 舞はその言葉にただ微笑を返した。
 事情を知らない人だからそう言える。
 なんとなく、そういう思いから出た笑みだったと思う。
 自分の境遇が他人より重い位置にあるなどとは言うつもりはないし、考えたこともない。
 ただ、周囲から見て、それを口にすると奇異の目で見られる可能性が高いことだけは認識している。
 舞にとって、自分の恋は、そういうもの。その程度でしかない。
 ならば、何を悩み、何を迷う必要があるのかと。
 鳴や勇兵、そして、柚子が言うように、あげたほうがいいのだろう。あげれば、きっと喜ぶのだろう。
 けれど、自分はこれだけは譲るわけには行かないのだ。
 なぜなら、自分の想いは、もう伝えてあるのだから……。
 舞は、答えを待つと決めた。
 だからこそ、彼女に触れることも、彼女と手を繋ぐことも、躊躇い、惑う。
 清香は今、答えを導き出すための途中にいるから。
 そんな中で、自分はガンガン攻め込めるような性質を、残念ながら持ち合わせていなかった。
 どんなに近しく感じても、どんなに心を感じても、清香はまだ答えを出していない。まだ、舞はその言葉を聞いていない。
 舞はそっと目蓋を閉じ、息を吐く。
 心の中、浮かんだ清香に舞は呼び掛ける。
 ねぇ、清香。
 自分は、そんなに強くない。
 返って来ないボールは投げられない。
 入るはずのないシュートは打ち込めない。
 あなたの優しさと厳しさを受け取ったあの時から、春に味わった痛みを、本当に本当に、怖いと感じているの。
 そんな言葉、誰にも言えない。
 どんなに情けないと思われていても、どうしようもない人と思われていても、この言葉だけは、この不安だけは誰にも言えない。
 言いたくない。



 忘れ物を思い出して、舞は教室へ戻った。
 外は真っ暗で、校舎の電気もところどころしか点いていなかった。
 教室の電気も消えていたので、舞は誰もいないだろうと思い、電気も点けずに自分の席まで軽い足取りで歩いていく。
 視界に、ぼんやりと席に座っている人影が映って、舞は思わず声を発した。
「誰?」
「…………。その声は、舞さん?」
「……亜湖?」
 舞は首を傾げて、彼女の名を呼んだ。
 いつもより、少し元気の無い声。
 舞は、すぐに踵を返して、教室の電気を一ヶ所だけ点けた。
 パチパチッと光が弾けるように、蛍光灯が明滅し、すぐに教室を照らし出す。
 亜湖は何か四角い箱を大事そうに握り締めて、俯いていた。
「何やってるの? 確か、亜湖、今日は部活なかったでしょ?」
「……うん。ちょっと考え事してた」
「考え事って……この寒い教室で、コートも着ずに? 風邪ひいちゃうよ」
 舞は亜湖の席に歩み寄りながら、気遣うように覗き込む。
 そこで、亜湖の持っている物が、バレンタイン用の包みであることに気が付いた。
 舞は、少々戸惑いながらも、穏やかに微笑んで亜湖の席の前の席の椅子を引いて座る。
 そして、いつも通りの茶目っ気たっぷりの口調で、話し掛ける。
「あー、そっか。誰もいないところで、チョコ入れてくつもりだったんだね? うわ、じゃ、あたし、思いっきり邪魔者じゃん」
 内心ハラハラしていた。
 タイミングが悪いにも程がある。気まずすぎるにも程がある。
 どんだけ、間が悪いのよ、自分〜。そう言いたくなる。というよりも、心の中で言っていた。
 亜湖は動かずに、何かをじっと堪えているようだったが、沈黙が続くのを嫌ったのか、目の辺りを指先で拭ってから、ゆっくりと顔を上げて、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべた。
 目が潤んでいるのは、すぐに分かった。
 違う。入れてから帰るつもりだったのではない。
 バレンタイン前日に、……もう答えが出てしまったのだ……。
 舞は亜湖の表情を見つめながら、その結論に辿り着き、目を細めた。
「それ、さぁ……明日、渡すつもりだったの? ニノに」
 声が萎縮している。情けないことに、茶化しの言葉が出てこない。
 体育祭の前。
 彼女は照れながらも、とてもキラキラした瞳で、修吾のことを聞いてきたことがあった。
 その表情や素振りを、舞はとても可愛らしいと感じた。
 だから、とてもよく覚えている。
「……ううん。勇気なくて……、机の中に入れて帰るつもりで、今日、持ってきたの」
「そっか……」
「でも、お昼休み、二ノ宮くんと塚原くんが話している声が、耳に入ってきて……。二ノ宮くん、甘い物苦手みたいなこと言ってて……」
「あー、うん……ニノは、そうみたいね。コーヒーも無糖。ヨーグルトも無糖」
「二ノ宮くんが嫌いなものあげてもしょうがないから、聞いてみたの」
「思い切ったわね」
「うん、自分でも自分にビックリした。今まで、話したこともなかったのに」
「で?」
「迷惑じゃないけど、もし、特別な想いが込められているなら、受け取れないって」
「うわ……」
 その言葉に舞は鳥肌が立つのを感じて、思わず声を発してしまった。
 亜湖が舞の表情に、ようやく、クスリと笑った。
「舞さん、クサイ台詞嫌いそうだもんね」
「嫌いも嫌いよ。え、それ、ニノが言ったの? ハズい! すごい首の後ろが痒い」
 舞はそう言いながら、首の後ろに触れた。
 そして、すぐに我に返る。
 失恋した相手に対する反応ではない。
「あー! ごめん! 亜湖、ちょっと待って。あー、ごめん」
「ううん。正直、二ノ宮くんじゃなかったら、私もその反応してたと思うから、大丈夫」
「じ、自意識過剰にも程あるもんね、それ言えちゃうって……」
「うん。でも、二ノ宮くんの場合、至極真面目に答えてくれたんだと思うから」
「からかいで言われたことに対して、そう返していたら、今頃、ネタにされるところだわ。よかった、亜湖で。……あ、いや、亜湖にとっては良くないんだ……ごめん、不謹慎」
「ううん、大丈夫。舞さんの言葉って、全然悪意ないから気にならないよ」
 失礼なことは言ってしまっているってことだろうか。
「ホント? 良かった……いや、やっぱ、良くない……」
「ふふ、変な舞さん」
 亜湖は舞の一人芝居のような反応を見て、クスクスと笑う。
 穏やかに目を細め、彼女の視線が包みに向いた。
 舞は、そこで唇を噛み締める。
 なんか、昔あったなぁ……こういうこと。
 夕暮れの教室。沈んだ表情の清香がそこにいて。その時、まだ仲良くなかった自分は、自身の間の悪さを呪いながらも、今と同じように、放っておけなくて話し掛けた。
 快活な自分とは対照的な、お嬢様的雰囲気を纏う彼女が、そんな風に悩んで泣くこともあるのかと思いながら。
 慰めることが出来たのかどうかも分からないまま、彼女の頭を撫でながら、傍にいた。
 ……いつからだったのだろう?
 目で、追うようになってしまったのは。
「行き場無くなっちゃったなぁ……」
 亜湖の言葉で、舞は我に返った。
「私の想いも、このチョコも……」
 声が震えたのがわかった。
 自分の気持ちを前面に出すような子ではないことが分かっているからこそ、彼女の呟きが、胸にずんと刺さった。
 自分は柚子の味方だけれど、だからと言って、ざまぁみろだなんて思える訳も無い。
 誰だって痛いのだ。
 恋を失ったと知ったその時は、誰だって。
「卑怯だよなぁ……」
「え?」
「恋愛って、誰も、悪くないんだもん……」
「……亜湖……」
「……舞さん、渡井さんに今日会う?」
「え? ぅん、まぁ、美術室覗けば……いると思うけど」
「これ、渡してくれない?」
「え? 柚子に?」
「うん……。それで、伝えて欲しいの」
「なんて?」
「頑張れって」
 亜湖のその言葉に、舞は思わず息が止まった。
 彼女は、全て気付いていて……その上で……?
「私、渡井さんならいいかなって、思う、から」
「亜湖……」
「あ、でも、私からっては言わないでね。舞さんからってことにしてね」
「えぇぇぇ。あたし、そんな準備良い印象無いと思うんだけど?」
 亜湖の言葉に、舞は口元を若干ひくつかせながらそう答える。
 それに、バレンタインはあげない主義とあれ程言っていたのだから、不自然極まりないではないか。
 けれど、亜湖の涙を堪えながらの笑顔に断り切れず、差し出されるまま、舞はその包みを受け取ってしまった。



Chapter3 ← ◆ TOP ◆ → Chapter5


inserted by FC2 system