◆◆ 第5篇 恋水・風に揺れるスズラン ◆◆

Chapter5.塚原 勇兵



「あ、塚原くん、明日チョコ持って来るね〜」
 部活を終えて体育館を出ると、ちょうどそこを通った女子が軽いノリでそう言った。
 勇兵は部活で少し疲れていたが、すぐにその子に向かって笑いかける。
「ああ、サンキュー♪ 気を付けて帰れよ〜」
 ブンブンと手を振ってみせると、その子と一緒にいた女子たちも楽しそうに笑って、一緒に手を振り返してくれた。
 勇兵は彼女たちが歩いていくのを見送る。
「遅くなっちゃったねー、まだ残ってるかなぁ?」
「え、あんた、これから買いに行くの?」
「だってぇ……」
「ほんっと、計画性ってもんがないわよねー、あんたは」
「うるさいなぁ」
 勇兵に声を掛けてきた女子のノーテンキな感じの声に、思わず笑みが漏れた。
 スポーツバッグを肩から掛け直し、軽い足取りで歩き出す。
 けれど、部室棟の裏で誰かが口論している声が聞こえてきたので、足を止めた。
 野球部とサッカー部はまだ練習をしていて、大きな声が飛び交っているので、そこまで気を配らなければ、決して気が付くことはないだろう。
 現に、勇兵の前を歩いていった女子のグループは、楽しそうに話しながら歩いていくので、全く気付いていない。
「誰だよ、こんな時期に喧嘩してるのは」
 勇兵は苦笑した。
 気になるけれど、盗み聞きなんてそんな行儀の悪いこともしたくなかったので、首は突っ込まずに立ち去ろうとつま先に力を入れたが……。
「くーちゃん、全然わかってないじゃない!」
 聞き慣れた声に勇兵は首をそちらに向けた。
 口論しているのは……舞と清香だ。
 いや、口論……というよりも、清香が一方的に何か言っているように聞こえる。
 舞も何か言葉は返しているのだろうが、周囲の音にかき消されて、ここまでは聞こえてこなかった。
 清香が声を荒げるなど、勇兵には全く想像もできなかったので戸惑って、その場に立ち尽くす。
 いつでも穏やかに微笑んで、悪い顔ひとつしない。
 ごく自然な形で、人のことをフォローするのに長け、しっかりしたお姉さん的印象で、男子の中ではダントツの人気だった。
 気が付いたら、勇兵のことを『勇くん』と、舞のことを『くーちゃん』と呼んで定番化した……そういう天然な部分も持ち合わせている人。
 彼女は、周囲の人間と少し違った呼称を付けるのが好きなのか、そういうことがよくあった。
 それを見て、カワイコぶってると思う女子もいたろうし、女系家族の中で育った勇兵からすると、時々ひやひやすることもあった。
 彼女があまりにも自然にそう呼ぶので、さしもの勇兵も、その呼び方はやめてくれない? の一言がいつも言えずに、そのままそう呼ばれることに慣れてしまったのだった。
 勇兵から見た中学時代の遠野清香は、優しい柔らかなお人形さん。
 言葉として表現するなら、それがしっくり来た。
 表情が変わらないわけではないけれど、舞を『動』とするなら、清香は常に『静』を保ち続ける人だったからだ。
 だから、勇兵は周りの男子と違って、清香にはあまり興味を持っていなかった。
 それがどうだろう。
 高校に入って半年ほど経った頃から、彼女は中学時代とは全く別の表情を見せ始めた。
 それはほんの些細なことで、気付く男子は少ないだろう。
 けれど、あの頃から、彼女はお人形さんなどではない。血の通った可愛らしい女の子として、勇兵の目に映るようになった。
 そして、その変化の一端を担ったのが、舞だということにも、勇兵はなんとなく気付いていた。
 勇兵は少し迷ったが、意を決して、声のするほうへ歩き出した。
 通りかかったフリをして、空気を濁して、それで……誤魔化してやろう。
 ピエロは得意だ。いくらでも出来る。
 最近やたらと仲が良いのに、喧嘩なんて勿体無いじゃないか。
「だから、あれはあたしからじゃないって、何回言えば……」
「そういう問題じゃない!」
「じゃ、どういう問題なのよ……。清香、落ち着いて。また、沸点上り過ぎて、言ってることがよくわからなくなってるから」
「そうやって、いつもくーちゃんはクールぶって……」
「クールぶってるんじゃなくて、興奮しても、すれ違うだけだから落ち着けって言ってるだけよ」
 舞が冷静に返せば返すほど、清香は不服そうに唇を尖らせる。
 勇兵は止めに入ろうと、近くまで来たにも関わらず、口を挟めずに、部室棟の影から覗き込む形になってしまった。
 舞は困ったように表情を歪め、髪を掻き上げる。
 思わず出たのか、ぼわりと白い息が宙を舞った。
「今、ため息吐いた?」
「え? あ、いや……」
「面倒くさい?」
「そんなつもりは」
「もういいよ。折角、くーちゃんのだけ、今晩時間掛けて作るつもりだったけど、やめる」
「……うん、それでもいいから、機嫌直して?」
「くーちゃんは……わかってない……」
「何が?」
「私、答え、返そうと思ってるのに!」
「…………」
「というよりも、行動で示してるつもりなのに!! どうして、何も察してくれないの?!」
「さ……」
「折角、待っててくれたみたいだけど、私、帰るから」
 清香は真っ直ぐ舞を睨みつけると、スタスタと歩いていってしまった。
 勇兵は立ち聞いてしまった話から、今までの情報を繋ぎ合わせて、ようやく、そこで答えに辿り着いた。
 舞の好きな相手って……。
 そこまで、心の中で呟いてから、口元に手を当てて、その場にぺたんと座り込んだ。
 座り込んだ拍子に、スポーツバッグが部室棟の壁にぶつかって、擦れる音を立てた。
 力が抜けてしまった。
 今まであったことを振り返って、思わず納得する。
 勇兵がどんなに頑張ったって、視界に入れるはずがない。
 勇兵が舞を好きになることが当たり前なのと一緒で、きっと、舞の中では、清香を好きになることは呼吸をするように当たり前なことなのだ。
 中三の文化祭で演じたシンデレラの王子役。
 彼女は素人ながらに、その日その劇を見に来た人たちの心を確かに揺り動かした。
 彼女の演技があまりにはまっていて、だから、後輩の女子たちはあれほど騒いだのだ。
 彼女はそれを全く自覚していなかったろう。
 彼女の演技には、心があったのだ。鬼気迫るほどに、訴えるものがあった。
 演技のことなんて、勇兵はさっぱりわからないし、舞はなんでもそつなくこなしてしまえる人だから、誰もそれに気が付かなかっただけで……。
 あの時、舞は清香にだけ、ひたすらに想いを送っていたのではないか。
「何、やってんの? あんた」
 先程の音に気付いたのか、顔を上げると、舞がそこに呆れたような表情で立っていた。
「や、色々とカルチャーショックを受けてる最中……」
 勇兵は言葉が出て来ずに誤魔化すようにそう言って笑う。
 茶化しきれてない自分に気が付いていたが、頑張って笑った。
 舞はそれを聞いて目を細め、ゆっくりとしゃがみこむ。
 座り込んでいる勇兵からしたら、見えるか見えないかのラインにスカートの裾がちらついて気が気じゃなかった。
「盗み聞きとは、随分高尚な趣味ね」
「いや、け、喧嘩止めようと思ったんだよ。お前らが喧嘩してるみたいだったから」
「そしたら、修羅場で入ってこられなかった?」
「……う、あ、ああ」
「そう。……聞いちゃったんだ」
 舞はそっと睫を伏せ、髪をサラリと掻き上げ、耳に掛ける。
「だから、場を選んで欲しいのに……清香は、周囲が見えなくなるとこれだから……」
「れ、冷静なんだな……」
「頭の中はごっちゃごちゃよ……。けど、感情爆発させたって、意味ないでしょ」
「いや、そっちじゃねぇよ。俺、聞いちまったんだけど?」
 舞は勇兵にそう言われて、ようやく思い至ったように目を丸くし、そしてすぐに頷いた。
「……聞かれたものはしょうがないわ。そういう人もいるってことで、頑張って認識してちょうだい」
 優しく笑い、舞は勇兵の胸にポンと拳をぶつけてから立ち上がった。
「お、お前なぁ……」
「ツカなら、平気でしょ。あたしのこと、あたしってちゃんと認識してくれてんだから」
 舞は少し不安げな顔をしたが、勇兵に視線を落として、しっかりとした口調で言った。
 視線がガッチリと絡む。舞は全然逸らす気がないらしい。
 こちらのほうが顔が熱くなるくらいだ。
 なので、勇兵は笑うしかない。いつもの自分でいるしかないじゃないか。
 好きな女に、そんなこと言われたら……。
「ったくよぉ……卑怯だよなぁ」
「?」
「なんでもねぇよ。お前さ、好きな相手にあんなこと言われて、それでも、落ち着かなきゃ落ち着かなきゃ、ばっかり考えてんなよな。あれは、遠野じゃなくても怒るっつーの。お前、女心、分かってねーだろ」
「ちょっと。アンタに言われたくないわよ、ツカのくせに」
「ツカですけど、車道殿よりは女心わかるわーい」
「……女心わかったら、チョコの無心なんかしないっつーの」
 絡んでいた視線が、いつもと同じ火花に変わっていく。
 それを感じ取って、勇兵は安堵する。
 自分が変わらなければ、この空気は何も変わらず、そこに残るのだ。
「あ、あのぅ……」
 二人のそんなやり取りを遮るように、柚子が控えめに姿を現した。
 大きなスケッチブックを胸に抱きかかえて、困ったように二人を見比べている。
「心配だったから見に来たんだけど……遠野さんは?」
「帰ったよ」
「え? 帰しちゃったの? わ、わたしも何か言えればと思ったんだけど」
「うーん……気にしないでいいよ。頭冷えてからじゃないと、あの子、話にならないんだ」
「ま、舞ちゃん……」
「何?」
「彼女さんに、そういう言い方はよくないよ」
「か、まだ、彼女じゃないって……」
「駄目だよ、舞ちゃん」
「う……」
 舞が取り繕うように笑ったのを見て、柚子は真面目な口調でしっかりと言った。
「女の子が怒るってことは、それなりの理由があるんだからね」
「わ、わかってるって……」
「今までの怒りが全部爆発したんじゃないの? それだったら、悪いのは舞ちゃんでしょう? 話にならないとか、酷いよ」
「や、でもさぁ……言うならその時に言ってもらえないと、後から言われたって何がなんだか……」
 柚子が清香の味方をしている。
 舞が柚子の言葉にたじたじしている。
 勇兵はその光景がとても不思議でつい口がポカーンと開いてしまった。
「わ、渡井は知ってるんだな?」
「ぇ? あ、わたしってば……」
「大丈夫。ツカには聞かれちゃったから別にいいよ、柚子」
 勇兵の反応を気にしつつ、柚子がそわそわと体を動かすと、舞がすぐに優しい声を発した。



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