◆◆ 第5篇 恋水・風に揺れるスズラン ◆◆
Chapter6.遠野 清香
『あの……、すみません。くー……車道さんは?』 部活が終わって大急ぎで校門に行っても舞が待っていなかったので、清香は文芸部の部室まで行き、そう尋ねた。 一緒に帰ろうかと声を掛けてきた時は、彼女はいつも校門にもたれて、清香を待っているのだ。 なので、不思議に思いながらも、部室に足を向けたのだが、彼女はそこにもいなかった。 いや、鞄はある……か。 清香は舞が腰掛けていたであろう席にそっと視線を動かし、すぐにその部室の主に視線を戻す。 部長の鳴だけがぽつんと窓際に立ち尽くして、校庭を見下ろしている。 綺麗な姿勢で振り向き、彼女はこちらを見ると、穏やかな声で言った。 『教室に忘れ物をしたから、取りに行ってくると……』 『そうですか。ありがとうございます。失礼します』 『……車道さんのおかげで』 『え?』 『この部も賑やかです』 清香はすぐに踵を返そうとしたが、鳴が静かにそう言ったので、視線を戻す。 『一生関わらない部類の人間だと思っていたので、彼女がこの部に入ってきてくれてよかった』 『……そうかもしれないですね。くーちゃんは、風のような人ですから』 『ええ。引き止めてごめんなさい』 清香の言葉に鳴は穏やかに微笑んで、ゆっくりと視線を窓の外に戻した。 清香は小さく礼をして今度こそ踵を返すと、静かに部室のドアを閉めた。 風のような人。 それが、彼女を表すのに、最も相応しい言葉。 所在は分かったのだから、校門でいつも舞が待っているように、じっと待っていれば良かったと……思った時には既に遅かった。 自分の感情は一度爆発すると、簡単には元に戻らない。 彼女に何を言ったかも、今となっては思い出せない。 なんとも無茶苦茶なことだけれど、ヒステリーというのはそういうもので、言った本人自体には罪はない、と本人が認識してしまうほど、心の中から勝手に言葉が湧き上がってくるものなのだ。 文芸部の部室を出た後、昇降口まで行くと、ちょうどそこに柚子と舞がいて、清香が声を掛けようとした時、舞が躊躇いつつも、持っていた包みを柚子に手渡した。 柚子が驚いたように目を丸くして、その後、舞に何か言われて、複雑そうに目を細めた後、柔らかく笑った。 時期が時期なので、なんとなく、清香はそれが何なのかすぐに察せた。 そして、グッと奥歯を噛み締め、拳を握り締める。 『くーちゃんは……今年もホワイトデーに返すの?』 『勿体無いよ。折角、お菓子作るの上手いのに』 『……くーちゃんは、バレンタインは貰う主義だもんね』 『そっか……うん。じゃ、楽しみにしてて。一番美味しいの、作るから』 清香は静かに舞に探りを入れて、今年も彼女がいつもの姿勢を崩さないことに安堵する反面、落胆していた。 彼女は一切行動に移してくれない。 いつもアクションを取るのは自分のほう。 今持っている、自分なりの答えを、彼女に伝えようと……清香は小さな勇気を振り絞って、遠まわしに、遠まわしに聞いてきた。 言えなかった一言。 察してなんて、きっと、我儘だ。 清香の言葉に、舞は悲しそうに表情を歪めながらも、全然動揺した素振りを見せなかった。 ただ、清香を落ち着かせようと、至って冷静に言葉を返してくる。 それが、感情がもう爆発してしまっている清香にとっては、逆効果で、心の中は大炎上。 火の消し方なんて分からない。 いや、もしも、舞がそこで自分を蔑むような眼差しでもしてくれたら……あっという間に鎮火したかもしれない。 けれど、彼女は全然そんな表情をしなかったのだ。 ただ、真っ直ぐに清香を見つめて、清香の言葉を聞いて、清香の言っていることを理解してくれようと……していた。 清香は柚子のことが好きだ。 けれど、舞にとっての柚子は、嫌いだ。 感情という名のベクトルが全く違う色をしていると分かっていても、舞が清香よりも柚子を優先するような行為が見て取れるだけで、抑えが効かなくなる。 風のような人。 どんな言葉を言ったって、どこかで全てを信じられない。 そんな奔放さがある人。 それが行動にも言葉にも示されなくなったら……。尚のこと、清香の胸に積み重なるのは不安だけだ。 我儘なのだろう。 何も伝えずに、自分だけが求めるものを得ようなんて。 でも……、清香の心はガラス細工のように繊細で脆い。 遠野清香を遠野清香として見てくれる舞。 その存在に安心感を抱きながら、どこかで手の平が返ることがあったら……。 それを考えるととてつもなく怖いのだ。 清香はとぼとぼ歩きながら、静かにため息を吐いた。 息が湯気となって、そのまま消える。 「自分にも厳しい……なんて、嘘だ。……私……ただの、駄々っ子じゃない……」 求め過ぎて、その後に押し寄せてくる自身の愚かしさへの後悔と、空虚感。 嫌われたかな、今度こそ。 そう思うと、涙がこみ上げてきた。 自分で勝手に癇癪を起こして、勝手に悔やんで、勝手に泣いていたら世話がない。 どうして、こんなに面倒くさいんだろう。自分は。 何様なんだろう。自分は。 好きだって、言ってくれた人に対して……感謝こそすれ、感情丸ごとぶつけてしまうなんて……。 清香は立ち止まって、頬を伝う涙を拭った。 その時、前から走ってきた車が、清香の脇で停まった。 清香はそんなことには全く意識が行かなかったけれど、窓が開く音が聞こえて、そちらに視線を動かす。 見知らぬ女の人の顔がすぐ飛び込んできた……が、運転席から知っている声がした。 「どうした? ウェイトレス。こんなところでぽつんと」 「ちょっと、賢ちゃん、何なのよ、急に停まってー」 「だぁまぁれ。弟の友達だ」 「……何よ、黙れって……アンタねぇ、少し顔良いからって調子乗ってんじゃないわよ」 「黙れくらいで怒んな。お前が乗せてけって言うから、乗っけてやったんだろうが。調子に乗るなは、こっちの台詞だ」 賢吾の言葉に、女の人の表情が歪んだ。 化粧が少し濃いのか、歪んだことで皺が残ったのが車内灯の光だけでもよく見えた。 「降りる」 「あー、勝手にどうぞ」 「…………」 「さっさと降りれば? おれ、面倒な女好きじゃないから」 「ッ……顔だけって評判、本当なのね。こっちから願い下げだわ!」 女の人はバッグを片手に、車を降りると、清香をキッと睨みつけ、カツカツとヒールの音をさせて歩いていってしまった。 「願い下げって……おれは、付き合う気も、ヤる気も、これっぽっちもねーっつーの……」 清香は目の前で起こったことに頭がついていかずに、ぽかーんとその場に立ち尽くすだけ。 賢吾は一度車を歩道に寄せ直してから、わざわざ車を降りて、清香の隣に並んだ。 「こんな暗いのに、一人で人通りない道歩いちゃって。危ないだろ」 「……あ、はい、そうですね」 「それに、お前さん、バスじゃないのか? こっち、バス停方面じゃないぞ」 「…………」 清香は涙を見られるのが嫌で、何度か頬を拭って、俯く。 追ってきてほしい。そんな願望もあったのかもしれない。 そうじゃなかったら、こんな道、自分で選んだりしない。 先程の賢吾と女の人のやり取りが思い起こされて、清香は目を細める。 「お兄さん」 「ん?」 「面倒な女……やっぱり、嫌ですか?」 「…………? 参考意見として? それとも、おれに気があるから聞いてる? どっち?」 賢吾は慣れたようにそう言うと、ガラ悪くしゃがみこんで、清香の顔を覗き込んでくる。 冗談混じりなのはすぐに分かった。 清香は泣きそうな目で賢吾を見つめ、グズッと鼻をすする。 「参考意見として……です」 「おれ、可愛い女には目がねーんだよなー。特に、君みたいな子? ま、年下だから、ストライクゾーンボール一個分外れてるけどさ」 「…………」 「基本的に、面倒じゃない女なんていないだろうさ」 「……そう、ですか?」 「というより、面倒じゃない生き物なんていない、って言ったほうがいいかね?」 「グローバルですね……」 賢吾の言葉に清香は少しだけ口元を緩める。 けれど、賢吾はそれを見て優しく笑うと、真面目な表情に戻った。 「おれは、ああいう試すような言葉が大嫌いなんだよ。これ言ったら、さすがにそれ以上酷いこと言えないだろ? みたいなね。無性に腹が立つし、傷つけても構わないな、これはって気にさせられる」 「…………」 「顔色伺ってヘーコラするのは好きじゃない。特に、好きでもなんでもない、どうでもいい相手に対してだったら、尚のこと。言いたいことあるなら、ストレートに言ってくれたほうが楽でいい。その分、おれも思ったことをストレートに返す。それがおれの流儀だから」 8年前の2月14日。 清香は彼にチョコを渡し、好きですと言った。 その日だけはおめかしをして、修吾へのバレンタインチョコなどそこそこに。 彼に渡すチョコレートのことしか考えていなかった。 賢吾はその時、ストレートに清香の言葉に答えを返し、チョコすら受け取らなかった。 それが彼の流儀。 彼は……子供相手にも、それを崩さなかった。 「2月13日……か。前日に、そんな顔でこんなところフラフラしてるってことは、彼氏と喧嘩でもした?」 「……付き合っては、いないんですけど……」 「あー、明日、告白しようかなぁって思ってたパターン?」 「…………。そう、ですね……はい」 「ふーん……それなのに、前日に、喧嘩?」 「私が、一方的に怒っちゃって……」 「それはまた面倒くさそうだねぇ」 「……やっぱり……?」 「可愛いのが怒るのは面倒だ。言葉に困るから」 「……からかってます?」 「んー、まぁな」 清香は真剣に話しているのに、賢吾が茶化すように笑うので、口を噤んだ。 けれど、わざわざ、車を停めて、しかも、女の人を車から追い出してまで声を掛けてくれたのだから、だんまりを決め込むのも悪い気がして、すぐに気を取り直した。 「1回告白されていて……」 「なんだよ、付き合ってんじゃんか」 「あ、ち、違うんです。私が、まだ答えを返してないんです」 「……ふーん。何? お友達から、よろしくお願いしますってヤツ? ピュアだなぁ……」 「……私、それなりに、態度では示してきたつもりだったんです。気持ちが傾いてること、察して欲しくて」 「ほぉほぉ」 「相手もある程度は分かっていると思うんですけど、全然態度が変わらなくって。私からそういう話を切り出した時しか、そういう話が出来なくて……なんだか、私が答えを返すよりも前に、相手の気持ちが変わってしまっているんじゃないかって、そんな不安に駆られることが多くなってきて……それで、つい」 「我慢できなくなった?」 「はい」 「面倒だねぇ」 清香の真剣な眼差しを見上げて、賢吾はおかしそうに笑った。 きっと、清香よりも長く生きているから、大したことのないことと感じているのだろう。 けれど、今その只中にいる清香にとっては、それは大したことなのだ。 「君はさぁ……」 「?」 「心の中に答えがあるけど、それを引っ張り出せないからおれにその話をしてくれてんだよね、きっと」 「…………」 「おれ、そういうピュアピュアな状況になったことねぇから、わかんねーけど。その状況で、男のほうからガツガツなんて、行けなくね?」 男ではないのだけれど、清香は静かにそこを舞に置き換えて耳を傾ける。 何も知らない人からしたら、そういう言葉になってしまうのは、当然なのかもしれない。 「待つしかないじゃん。いいよって言ってくれるまで。あ、ちょっと下世話かな、表現が。でも、ホント、そうだぜ?」 「です、よね……」 「気持ちってのは、言葉にしねーと伝わんねーのさ。察してくれって言うヤツいるけど、そんなん感じ取れるのは、いわば病気ってヤツだ。自意識過剰っていう名のな」 賢吾はゆっくりと立ち上がると、ポンポンと清香の頭を撫でる。 「言うつもりだったんだろ? 勇気出しな。言われるの待つ女なんて、今時流行んねーよ。女はプライド高いから、言わせるように仕向けるらしいが、おれからしたら具合の悪い話だ」 清香はまさか頭を撫でられるなんて思ってもいなかったから、硬直したまま、その温もりを受ける。 答えはある。 告げなくてはいけないのは自分のほうで、舞を責めたことが間違いであることは、聞く前から分かっていた。 ただ、誰かに聞いて欲しかった。 けれど、それを聞いてもらうのに適した相手が……いなかったのだ。 清香は、舞以外に本当の意味で心を許していないから。 こんなことを相談できる人はいない。自分がギリギリまで追い詰められてしまったのは、そういう面もあった。 「さて……バス停、すぐそこだけど、乗ってくか?」 「あ、い、いえ……私、戻ります」 「あ?」 「学校に」 「…………」 「まだ、待っていてくれるような……気がするので……」 「そうか。ほんじゃま、健闘を祈るわ」 「すみません。くだらない話に付き合わせてしまって。ありがとうございました」 「いや、久々にピュア〜な気持ちになれたから、礼なんて要らねぇよ」 賢吾は白い歯を見せて笑い、清香が礼をするのを肩を抑えて制した。 清香が踵を返して歩き出し、学校への道を戻り出してしばらくしてから、後ろのほうで車のエンジン音がした。 |