◆◆ 第5篇 恋水・風に揺れるスズラン ◆◆

Chapter8.渡井 柚子



 舞が清香を探しに行った後、柚子は勇兵に声を掛けた。
 勇兵は考え事をするように目を細めて、学校のほうを見ていたが、柚子の声ですぐに笑ってくれた。
「渡井、気を付けて帰れよ?」
「うん。っていうか、それはこっちの台詞だよ〜。自転車なんだから気を付けてね?」
 勇兵は時々気まぐれのようにバスで来ることもあるようだが、それは大体天候か寝坊が関係しているようだった。
 朝早くから部の朝練にも顔を出しているのだから、仕方がないのかもしれない。
「ハハッ。だぁいじょうぶだよ。俺、目も勘もいいから。まぁ、すっ転ぶとしても、派手に一回宙して着地してみせるぜ」
「……それは気を付けてるとは言わないんじゃ……?」
 勇兵の言葉に柚子は思わず苦笑した。
「そう? ヘヘー。あ、そだ。明日、楽しみにしてるね。修ちゃんなんか、どんだけ照れるんだろ。クククッ」
 勇兵のその表情を見上げ、言葉を返す。
「きっと、すっごく素っ気無いんだろうな。想像つくもん」
「うん。でも、修ちゃんはその時その時で、一生懸命な人だから」
 気遣うような勇兵の言葉。
 勇兵は修吾のことが本当に好きなのだろう。
 この人の修吾に対する穏やかな優しさには、時々、柚子ですら感服させられることがある。
 修吾も同じように勇兵を見ているし。
 男の友情は、女の友情のような熱はないけれど、そういった空気のような当然さがあって、カッコいいと、柚子は思うのだ。
「塚原くんと二ノ宮くんって、きっと喧嘩なんてしないんだろうね」
 柚子が微笑んでそう言うと、勇兵は驚いたように目を丸くした。
「喧嘩、ねぇ……。ああ、でも、俺、平和主義者だし、そういうの嫌いだし、自分から爆弾投下なんてしないよ」
「…………」
「どした?」
「塚原くんって……、色々と、我慢しちゃう人かなぁって、今思っただけ」
「へ?」
「あ、バス来た」
 柚子は誤魔化すようにそう言って、バス停で待っている生徒の列に並ぶ。
 勇兵は首を傾げてこちらを見ていたが、柚子はただ笑って、それに対して手を振ってみせた。
 勇兵は……優しい緑がよく似合いそうだ。
 色として映えさせるのが難しい緑色。
 けれど、とっても爽やかで、純粋な色。
「エメラルドグリーンじゃ、ないなぁ……シーグリーン?」
 柚子は思わずそんな呟きを漏らしてしまった。
 前に並んでいた男子生徒が不思議そうに、こちらをチラリと見たが、柚子は特に構うことなく、う〜ん……と考え続けた。
 勇兵は柚子がバスに乗るのを見届けてから、凄いスピードで自転車をこいで行ってしまった。



「塚原くん、チョコ、持ってきたよぉ?」
 珍しく、A組に全く顔を出さなかったので、柚子は勇兵にチョコを渡すために、お昼休みに彼のクラスを訪れた。
 けれど、勇兵は机に突っ伏した状態で、返事もしてくれない。どうやら、寝ているらしい。
 机の片隅には、女の子たちからのチョコの包みで塔が出来上がっている。
 机に掛けた紙袋にも半分くらいチョコの包みが入っており、柚子は思わず苦笑した。
 チョコを貰うので忙しくて、A組に来られなかったのかな。
 心の中でそんなことを呟き、柚子は持ってきた小さな袋包みを机の上に置く。
「ああ。……渡井かぁ……」
 突然、屍と思っていた人が声を発したので、柚子はビクリと肩を震わせた。
 教室内はそれなりにガヤついており、勇兵のその声は掻き消えそうなほど弱かった。
 そんな勇兵の声を聞いたのは初めてだったから、柚子は戸惑いを隠せず、話し掛けた。
「どうかしたの……?」
「んー……や、昨日寝られなかっただけ」
「……本当にそれだけ?」
「ぅん」
「元気、ないよね?」
「そんなことは、ない」
 柚子は勇兵の顔を覗き込めるように、ゆっくりとしゃがみこんだ。
 勇兵は突っ伏していた顔を少しだけずらして、柚子を見、笑った。
 けれど、いつになく、覇気がない。
「二ノ宮くんに心配掛けたくないから、今日、教室来なかったんじゃない?」
「あっははは……俺だって、毎日行くわけじゃないじゃん」
「そうだけど……」
 柚子が渡すことは知っていたのだから、勇兵ならば来るものと、そう思っていたのだ。
 3ヶ月前からあれだけ楽しみにしていたのだし。
「修ちゃんには、あげたの?」
「ん……まだ。放課後渡すつもり」
「そっか。いいんじゃないかな。今日は、色んな人たちに、優しい日だから」
 勇兵はそこまで言って、はぁ……とため息を吐く。
「優しい日、なんかじゃねぇな……昔っから」
「塚原くん?」
「俺、おっかしいんだ」
「え?」
「手に入らないって分かった上で好きだったはずなのに……。本当に、手に入らないって現実突きつけられてみたら、全然余裕なんかじゃなくて……。出来てたことが出来なくなりそうな……そんな不安ばっか先走って……動く気力も湧かねぇ……。今まで、こんなことなかったのに」
 勇兵のその言葉に、柚子の胸が締め付けられた。
 彼はいつも朗らかで、元気がない時なんて見ることはそうそうない。
 それはいつでも元気で何も考えていないからではなくて、周囲の空気を見て、彼が動いているからこそなわけだけれど、勇兵のそれはあまりにも自然で、そのことに気が付いてあげられる人は多くないだろう。
 今だって、きっと寝たふりをしてやり過ごすつもりだったのだろう。
 それなのに、自分が話し掛けたことで、彼の扉を開けてしまったのだ。
 昨日、『我慢しちゃう人』と自分で言ったにも関わらず、だ。
 思い当たることは一つしかない。
 だって、つい昨日まで、彼はとても元気だったのだから。
 そして、どちらなのかなんて疑問は柚子には湧きもしなかった。
 それを知っても、それは全く不自然でなく自然のことで、柚子にとっては、パズルのピースの一片のように感じられたから。
「わり。今の、聞かなかったことにして。こんなこと言われても、困るよな」
「それは、舞ちゃんのこと?」
「…………」
「そっか」
 勇兵の沈黙に、柚子はポツリとそれだけ呟く。
「……そっか……」
 どうすればいいのか分からずに、そう呟くしかない自分がとても歯痒く感じた。
 けれど、それ以外に言葉は見つからなくて、ただ、突っ伏している勇兵に視線を向ける。
 勇兵はとうとう柚子がいる間、頭を上げてはくれなかった。



 放課後、舞が修吾にいつものように声を掛ける。
「ニノ、今日、部室行く?」
「ぃや、オレ、今日帰ってやることあるから」
「そっか。じゃ、途中まで一緒に行こうよ♪」
 舞と修吾のそのやり取りはとてつもなく自然で、クラスの誰もそのことは気にも留めなかった。
 これで、柚子が声を掛けようものなら、一部からの視線が痛いことにもなろうものだけれど、舞にはそんなところは一切ない。
 羨ましい程にニュートラルだ。
「柚子も、行くでしょう?」
 鈍い柚子でもその言葉の意味は分かった。
 ので、すぐにコクリと頷いてみせた。
 修吾は不自然じゃないように、机の中の物を素早く鞄に押し込む。
 いくつか机の中にチョコの包みが入っていたのだろうと察して、見なかったフリをした。
 面と向かって渡されるなら断ることも出来るのだろうけれど、机に入れられてしまっては、突っ返しようもない。そんなことを以前言っていたから。
「あ、これ、清香から二人に。ニノのは、ビターにしたから、それでも甘かったらコーヒーと一緒に飲むと美味しいかも、ですって」
 廊下に出ると、舞はバッグから小さな包みを取り出して、手渡してきた。
「ああ、ありがとう」
「うわぁ、嬉しいな♪ ホワイトデー頑張ろうっと」
 無愛想な修吾と楽しげな柚子。
 二人の対比がおかしかったのか、舞はクスリと笑った。
「そういえば、ニノ、収穫はどうだった?」
 そして、すぐにそう尋ねる。
 修吾はその問いに不快そうに眉をひそめ、はぁ……とため息を吐く。
「何の嫌がらせだろうって思う数だったよ。でも、いつもよりは少なかった」
「一つくらいは名前書いてあればいいわね? 無記名だと、食べるのも気が引けるでしょう?」
「……バレンタインってのは無記名で愛を伝えるものらしいよ。調べたらそんなことも書いてあった」
「へぇ」
「その文化に則ってる訳ではないんだろうけれど」
「つーか、ニノ、真面目ねぇ……。嫌いな日なのに、調べるか普通」
「……起源とか気になっちゃう性質なんだよ」
「あはは。ま、日本じゃ、お菓子屋の陰謀だけどね」
「……ああ、そうだね」
「でも、人に好意を伝える日っていいと思うよ。父の日、母の日、敬老の日ってあるくらいなんだから。友達の日、恋人の日……って思えば、とっても素敵だよ。特別な日なんかじゃなく、いつでも心がけるべきことではあるんだろうけど」
「柚子はロマンチストよねぇ」
「そ、そうかな?」
 二人が妙にリアリストが過ぎるところがあるだけだと思うのだが、本人達はそんな自覚はないだろう。
「幸せの欠片とか言っちゃうくらいだし」
「舞ちゃん、そんな話掘り返さなくても……!」
 さすがにその話が出てきて、柚子はわたつく。
 なんとなく、感情が昂ぶって口走ってしまった言葉だったから、他の人からその言葉を告げられると無性に恥ずかしい。
 修吾がその話を聞いて、少し表情を変えたのが見えた。
 なので、柚子は首を傾げる。
「二ノ宮くん……?」
「え? な、なに?」
「どうかした?」
「ぇ、あ、いや……。渡井、幸せの欠片、なんて言葉、どこで?」
 そんなに珍しい言葉でもない気がするけれど、修吾は何か思い当たったようにそう尋ねてくる。
 柚子はそう問われて首を傾げる。
 昔読んでもらった短い小説にその言葉があって、無性に気に入ってしまって、時折口にするようになったものだった。
 ……でも、その小説のタイトルも、書いた人の名前も覚えていなかった。
 確か、母が気に入って読んでくれたのだった。
 それを聞いて、インスピレーションが湧いて絵を描いたのも覚えている。
「昔、お母さんが読み聞かせてくれた小説……」
「……そう……」
 柚子の言葉に、修吾は安堵したように笑い、少し早足になった。
 舞と柚子はそれを追うように歩く。
「ニノは小さいくせに歩くの速いね」
「小さいくせには余計」
 舞の言葉に修吾は笑いながらそう返す。
 下駄箱まで来て、それぞれ靴を履き替えると、タイミングを見計らったように舞はそこで手を振った。
「じゃ、あたしは部室寄ってくんで」
「え? あ、あれ? あ、ああ。じゃ、また明日」
「バイバイ」
 柚子は当然のように手を振るが、修吾は戸惑ったようだった。
 それはそうか。誘っておいて昇降口でお別れというのはあまり自然ではない。
「……途中まで、一緒に行く?」
 修吾は無愛想な表情でそう言い、柚子の返事も待たずにスタスタと歩き出してしまった。
 ようやく、早足でなく合わせてくれるようになってきていたのに……。
 そんなことを心の中で呟きながら、柚子は慌てて修吾の後を追う。
「あの、二ノ宮くん」
「……何?」
「あの、渡したいものが」
「……あ、うん。人が切れてからでいいかな?」
「ぇ? あ、う、うん……」
 よく話すようになってから今まで、本当に修吾は周囲の目を気にする。
 体育祭の件で、少しは気遣ってくれるようになったのだが、今日は全然そんなことはないらしい。
 それは彼らしさとも言えるのだが、意識している側としては、あんまり露骨過ぎると寂しい気持ちになる。
 校門を出て、少し歩いたところで脇道に入り、修吾は振り返る。
 表情は硬かったけれど、目は優しかった。
「ごめん、速かった?」
「うん、速い」
「ごめん。ちょっと、さすがに、今日だと……色々と」
 修吾はもごもごと言っているが、柚子の耳にはその言葉が届いて来ない。
 柚子は苦笑を漏らしながら、ゆっくりと鞄を開けて、包みを取り出した。
「自分で包んだから、あんまり可愛く出来なかったけど、中身は自信作だから」
「あ、ありがと。中、なに?」
「二ノ宮くん、こういう時は、開けて見てくれるのが嬉しいな」
 柚子は照れながらもそう言って笑う。
 修吾は柚子のその言葉に困ったように目を細めたが、従うようにその場で丁寧に包みを開ける。
「可愛く包んであるから、開けるの、申し訳ない気がしたんだけど……」
「あ、うん。ありがとう」
 修吾がボソリと囁いた言葉に、柚子は顔が熱くなるのを感じて、慌てて手団扇で顔を扇いだ。
 修吾は包みを綺麗に畳みながら、濃い青色のブックカバーを手に取る。
 気に入ってくれるかどうか、そう考えるとドキドキが止まらなくなった。
 気取られませんように。そればかりを願う。
「これは?」
「ブックカバー。文庫サイズに合わせちゃったけど、大丈夫だったかな?」
「あ、うん、そんなのは全然大丈夫だけど。これ、手編み? 大変だったんじゃない?」
「や、そんなでもないよぉ」
 というよりも、それは聞かない約束だ。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
 修吾は恥ずかしそうに目を細めながらも、ようやくそこで微笑んでくれた。
「……うん。あのね?」
「?」
「わたしのなかで、二ノ宮くんは、ペールブルーに灰色を足した……少し気だるい感じの彩を持った人なんだ」
 舞の言ったとおり、それは昔の書生さんのイメージそのもので、彼は、作家としての繊細さを持ってしまっている。
 それは決していけないことではないけれど、たまに心配になるのだ。
「でも、たまに、本当に綺麗な青空みたいな優しさを見せてくれたり、とっても濃い、そのブックカバーの色みたいな強さを見せてくれたりする」
「…………」
「二ノ宮くんの中には、色んな青があるってこと、知ってて欲しいな」
「……うん。ありがとう。あ、あの、わたら……」
「ったく、バレンタインなんてなくなっちまえばいいんだー」
「何言ってんだよ、堂上。お前、部活の女子からもらったんだろ? 贅沢だぞ」
「あ〜……。遠野さんのクラスの奴ら羨ましいぃ……」
「またそれか」
「そんなに言うなら、遠野さんのクラスの奴に頭下げて貰えばいいだろ」
「そ、それはなんか違うだろうがぁ」
 騒がしく来た道を歩いてくる、堂上ヒロトと数人の男子の声に、修吾は言おうとしていた言葉を飲み込んでしまったようだった。
 彼らは脇道には全く入ることなく、そのまま歩いていく。
 修吾は落ち着きなく、ゴクリと唾を飲み込んだ後、苦笑した。
 顔が心なしか赤いように見える。
「お、オレ、今日はここで」
「あ、う、うん。用事あるんだもんね?」
「うん。なんか、本家の爺さんが久々に顔見に来るとかで。来て欲しけりゃ、休みの日にこっちから行くのにさ」
「そうなんだ。じゃ、バイバイ」
「ブックカバー、ありがとう」
 修吾は嬉しそうに笑って、ブックカバーをひらつかせると、大事そうに鞄にしまって、駆けて行ってしまった。
 柚子は背中を見送って、はぁ……とため息を吐く。
 なんだか、どっと疲れた。
 顔は熱いし、心臓はまだうるさいし。
 気取られないようにと願いながら、気が付いて欲しいとも思ってしまう自分が、なんとも我儘で滑稽だなぁと、そんなことを思った。



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