◆◆ 第5篇 恋水・風に揺れるスズラン ◆◆

Chapter9.塚原 勇兵



『なぁなぁ、舞』
『なに? 勇兵』
『明日、何の日か知ってる?』
 姉二人が家で盛り上がっているのを見て、勇兵はなんとも無しでそんなことを尋ねた。
 それが小三のバレンタインの時期。
 舞が勇兵に最初で最後のチョコをくれた時のこと。
『明日? バレンタイン?』
『そうそう。お前、だれかにあげないの?』
 勇兵もまだみんなにねだって回るなんて芸当を覚えていなかった頃だから、その問いに舞は困惑したように首を傾げていた。
 それはそうだろう。
 彼女にとって、自分は悪友でしかなかったのだから。
 舞は少し考えるように勇兵の顔を見ていたが、おかしそうに笑った。
『もしかして、欲しいの?』
『やー、だって、タダでチョコもらえる日だろ? 興味はある』
『あー、そう。うーん……まぁ、いいよ。しょぼくていいんでしょう?』
『へ? え? くれんの?』
『別にいいよ』
 舞は思った以上に軽く頷いてみせ、本当に次の日、簡易包装した手作りチョコを持って来てくれた。
 のだけれど、舞がいつものノリで渡そうとしたために、男子どもに見つかって、からかいの対象となってしまった。
 あの頃の舞は、女子の中でもダントツで可愛くて、けれど、男子と並ぶほどのじゃじゃ馬な性格で、男子と混じって遊ぶことのほうが多い子だった。
 そんな子のことを意識しない男子がいるほうが珍しく、その日男子たちのからかいは間違いなく、好意を持っているからこその行為だったのだと思う。
 だが、いつも仲良くしていて、彼女にとっては同列だと感じていた男子たちに、そういう扱いを受けたことが彼女は辛かったのだろう。
 舞はチョコを包んだ袋を勇兵に向けて投げつけ、そのまま、ダッシュで帰ってしまった。
 おそらく、あれが、男子と女子、という区別があることを彼女が自覚させられた最初の出来事。
 大人になれば軽く流せることでも、子供は簡単には流せない。
 大人にとってはその程度のことでも、子供にとってはそれは大きなことで。
 だから、今となっては、舞の弟から聞かされた『お姉ちゃん、ないてた。お姉ちゃんになにしたの?』という言葉の意味も、分かるような気がするけれど……あの頃の自分にはそんな切り分けは出来なかった。
 ただ、自分はそういう位置じゃないんだなぁと、そういうことだけを自覚して終わった。
 そして、次の年からはカモフラージュのために仲の良い女子におねだりして回ることを思いついた。
 それをすれば、あの時傷ついた彼女の心を、少しでも覆い隠せるのじゃないかとそう思ったから。
 たとえ浅はかで軽薄と思われようと、勇兵はただチョコが欲しいだけだと。
 そういう印象を周囲に持ってもらえれば、それだけでいいと思ったのだ。
 だって、そうすれば、もう絶対に勇兵と舞の間に、淡い恋なんて絶対に存在しないと、周囲が思ってくれるから。
 それによって、彼女からさえもそんな意識がひとつも失せてしまったとしても、だ。



『王子様モテモテじゃん』
 中三のバレンタイン。
 机の上に積んだチョコの包みを見てため息を吐いている舞に対して、からかうように勇兵はそう言った。
 舞はその言葉を不快そうに受け止めて、その後で苦笑する。
『まったく……。人を何かの代わりだと思ってんでしょ。女子校じゃないってのに』
 舞が困るのなら、素直に自分が王子様役に立候補してやればよかった……。
 彼女のそんな態度を見つめながら、勇兵はそう思った。
 彼女がお姫様役で、自分が王子様役。
 どんな噂も立たない関係。
 ……けれど、中三男子にとって、王子様なんて響きは吐き気しかしない代物で、体面が先に立ち、手を挙げることを躊躇ってしまった。
 たとえ、お話の中だけでも、彼女が追加させた告白の台詞一切合財を言えたのなら、自分の中で、何かが変えられたかもしれないのに。
 とはいえ、舞がお姫様役だったら……。
 継母や義理の姉に苛められるシンデレラ?
 全く想像がつかない。
 彼女にやらせてしまったら、台詞なんかガン無視で、やられたこと言われたことの数倍返しをしてしまいそうだ。
 いかにも言い返せなさそうな、ほわほわした空気を持っている清香のほうが、確かに適任だったな。
 そう考えて苦笑した。
 舞が怪訝そうにそんな自分を見つめている。
『あ、わりわり。お前がシンデレラだったら、シンデレラ成立しなかったろうなって思って』
『……そりゃぁ、清香は可愛いもの……』
『あ、そ、そういうことじゃなくてだな。話として……』
 舞が目を細めて、ためるように静かに言った。
 あの時は気にしてのことだったろうと思ったけれど、今なら分かる。舞は照れただけのことだったのだ。彼女を可愛いと言うことを。
『くーちゃん』
 そこにタイミングよく清香が話しかけてきて、小さな袋を丁寧に両手で舞に差し出してきた。
『今年のチョコ。あ……でも、こんなにたくさんじゃ余計かな?』
『え? ううん。清香の美味しいから欲しいわ』
『ホント? よかった。……っくしゅん!』
 清香は嬉しそうに微笑んだ後、小さくくしゃみをして、恥ずかしそうに俯いた。
『大丈夫?』
『あは……昨日、思ったより時間掛かっちゃったから』
『来月受験なんだから、無茶しないでよ』
『う、うん……そうなんだけど、年に一回のことだから、つい』
『……まったく……』
 舞はそんな清香の言葉に優しく目を細めて笑う。
 その笑顔を見て、可愛いと思ってしまう自分。
 けれど、可愛いはずだ。
 目の前の好きな人には、好きな人がいて、その人を思って発される笑顔が、可愛くないはずがない。
 思い返せば、思い当たることはたくさんあったのだ。
 だから、驚いた割に、不自然に思うことは全くなかった。
 だって、特別仲が良い印象があった訳ではないのに、二人が避けるように会話を交わさない時期があったことに、自分はしっかり気が付いていた。
 もちろん、それは自分が舞を見ていたからではあるのだけれど、会話を交わさなくなってから仲直りし、一緒にいる頻度が増加したことに関して、その理由が気にならなかった自分が、今思うと滑稽なような気がした。
 気が付けるはずはないと、事情を知る者ならば言ってくれるかもしれないけれど、そういう言葉は舞の恋を否定しているようで嫌だった。
 だって、どの恋も、おんなじだと思うから……。



 部活がこんなに楽しくない日は初めてだった。
 自分のテンションがガタ落ちているのだから、仕方がないことではあるのだけれど……。
 昨日、彼女の言葉を受けて笑い返したまではよかったのだけれど、自転車をこいで帰って、家でテレビを見ていても、風呂に入っていても、布団に入っても、舞のことが頭から離れずにため息が出た。
 分かっていたはずだった。
 自分の恋には望みはなくて、いつか舞だって誰かを好きになり、誰かと付き合い始める。
 たとえ、そうだとしても、自分は違う誰かが現れるまで、そのまま、舞を好きでいるのだろうと。
 報われなくてもいいと思っていたはずだったのだ。
 けれど、いざその時が来てみると、ダメージは予想をはるかに超えていて、気が付いたら、いつも出来る朗らかな態度が今日は全く取れなかった。
 勇兵が回収に行かないから、チョコはみんな届けてくれたし、あまりに量が多かったので、見かねて隣の席の女子が持っていた紙袋をくれたりしたのだが、今日はそれ全てに対して、どんな態度を返したか、全く記憶にない。
 ただ、柚子がお昼休みに来た時に、泣き言を言ってしまったことだけは思い出せた。
 あとで、謝らなくてはいけないな……そんなことを思った。
 あの時、つい、あんなことを彼女に言ってしまったのは、昨日の別れ際、彼女が自分のことを『我慢しちゃう人』と表したのが聞こえたからだと思う。
 勇兵は静かに歩きながら、はぁ……とため息を漏らす。
「勇」
 テニス部の部室の前で、ユンに呼び止められた。
 勇兵は紙袋とバッグを持ち直して、彼女を見る。
 ユンは勇兵がいつものように元気に笑わないので、戸惑ったように目を細め、その後、勇兵の持っている紙袋を見ながら、歩み寄ってきた。
「なんか、チョコの量、中学の時以上になってない?」
「おねだりしてない先輩とかも、部活中に渡しに来て……」
「モッテモテだねぇ」
「……本当に欲しいものは、貰えねぇけどな……」
 勇兵は自嘲気味にそう漏らし、言ってしまった後に、口を押さえた。
 しまった。今日は、喋ると本心が駄々漏れる……。
 ユンは勇兵のらしくない言葉に、困ったように目を細め、だけど、その後に朗らかに笑った。
「なんだよそれぇ。ねだっておいて、そりゃないよ、ひどいな、お前ぇ」
「あ、や……」
「人がせっかく奮発してやったのに、なんか、渡したくないなぁ、そんなこと言われるとぉ」
 ユンは笑いながら、後ろ手に持って隠していたチョコの包みをヒラヒラと振って見せてきた。
「あ、さ、サンキュ! 嬉しい」
「今更だよ、それぇ……。なんか、今日、勇が元気ないってホントだったんだね」
「へ?」
「みんな心配してたよ?」
「ぁ……ああ……そなんかぁ。そらマズったな」
 誤魔化すように笑う自分に対して、ユンは落ち着かないように体を動かしながらも、優しい目でこちらを見上げてきた。
「ぅん。でも、そうだよね」
「ん?」
「勇だって、元気ない日もあるよね」
 ひゅるひゅると風が吹く中、ユンは静かに当たり前のことだと呟きながら頷く。
 そして、持っていた包みを勇兵に対して差し出してきた。
「ハッピーバレンタイン。元気、出してね?」
「……ああ……」
 勇兵はその包みを受け取り、コクリと頷いた。
 いつもならば自然に笑顔が浮かぶはずなのに、それが出来ない自分に違和感を感じながらも、それを正せない。
 それがとても申し訳ない気がした。
「……ッ……」
「勇?」
「わり……、見なかったことにして」
 自分の不甲斐なさに、涙が零れた。
 昨日からずっと出せなかったものも手伝って、溢れ出したものはすぐには引っ込まない。
 勇兵は大きな手で自分の顔を覆って、静かに「くっそ」と呟く。
 修吾の顔さえ見なければ、我慢できると思っていたのに、どうして、自分の周りの人間は、こんな風に優しい人ばかりなのだ。
 なんとかこみ上げてくるものを押さえて涙を拭い、勇兵は顔を上げる。
「斉藤」
「なに?」
「もしもさ、好きな相手に好きな奴がいて、もう自分の想いが叶わないって分かりきってたら、どうする?」
 分かりきっていても手放せなかったのは、自分の弱さだ。
 勇兵が昨晩舞のことを考えながら至った結論は、至極シンプルなものだった。
 自分は弱い。弱いからいけない。……もっと、強い人間のつもりだったのに……。
 舞の幸せそうな顔を見て、笑顔を向けて、よかったじゃん、こんにゃろーと言ってやれるような、そんな男のつもりだったのに。
 ユンは勇兵の言葉に、驚いたように目を丸くした後、手の指を組んで、目を細め、はぁぁ……と手に息を吐きかけた。
 勇兵はそんなユンから目を逸らさず、ユンは言葉に迷うように、しばらくその姿勢で動かない。
 1分ほど挟んでから、ようやく、ユンは視線を上げた。
「好きなものは好きなんだから、しょうがないんじゃん?」
「え?」
「結果なんて見えてても、……自分にとって、高嶺の花だって分かってたとしても……、好きな気持ちは止められないよ。むしろ、叶わないって分かった瞬間に冷めちゃうような恋なら、それはその時点で、恋なんかじゃない。心が強いとか、弱いとか関係無しに、理屈もなんもかも通用しないから……恋の病、なんて言葉があるんだよ。アタシは、そう思うよ……?」
「…………」
「そっか。勇でも、恋するんだね」
 ユンはその場を茶化すようにそう言って、クスクスと笑ってみせる。
 勇兵はその言葉にすぐに体が動いた。
 ユンの頭に軽くチョップを食らわす。
「わ……痛いなぁ、何すんの?」
「一言、余計なーの。俺だって、男じゃっつーの」
「そういう意味で言ってないよー。なんだよ、人が気遣ってやったのにさー! それに……別に、バカにしたつもりはないよぉ」
「……あ、わりぃ。いっつも、小馬鹿にされてるからつい……」
「ふふ、違うよ」
「は?」
「勇は、みんなに愛されてるから、そういう風に言われるだけじゃん」
「…………」
「勇は、言いやすいんだよね、どんな言葉でも。……まぁ、それで、もしかして傷ついてることがあるなら、それは悪いと思うから、今謝るけどさ」
「や……別に……」
「勇は、向き合ってくれてる感じすんの。それがすごいと思うんだ。入学して、ふた月で同学年の子達の顔と名前、大体把握しちゃってたり、色んなクラスに普通にズカズカ入って行けちゃったりさ。愛想が良いだけで出来ることじゃないと思うもん」
「それは、別にすごいことじゃないだろ」
 昔からやってることだから、誉められても全然実感が湧かない。
 自分が知らない人がいると落ち着かないというか、そういう性分なんだと思う。
「覚えてる?」
「へ?」
「夏に、スズランの花束持って歩いてたら、勇に会ったんだ」
「……ああ」
「アタシさ、下の名前覚えられてるなんて思ってもなくて、ビックリしちゃった」
「中学からの付き合いなんだから当然じゃん」
「当然じゃないよ。そりゃさ、機会があって、みんなに聞いたら、自分が思ってる以上に覚えてる人いるかもしれないけどさぁ……」
「…………」
「アタシは、舞やサーちゃんや、勇みたいに、誰の目にも留まる存在じゃないし。個としての自分? っていうの? それを認識されてたって思ったら、すごく、嬉しかったんだよね」
 ユンは本当に嬉しそうに頬を緩ませてそう言い、笑う。
「勇って、そういう人たち、1人1人と向き合えちゃうじゃん? すごいのに、全然すごくないの。それが、すごいんだよね」
「何言ってんのか、わかんねーよ」
「あ、そうだね。うん、とにかく、アタシやみんなはさ、勇のそういうところに元気貰ってるんだってことを言いたかったの」
「…………」
「だから、元気なかったら、話を聞くのなんて、普通で当たり前のことなんだ」
 ユンは組んでいた指を離し、うーんと伸びをする。
「もしも、元気が出ないことあるなら、その時は遠慮せず、落ち込んだっていいと思うよ。それ見て、心配するのも、話聞こうかって言うのも、友達なんだから当たり前なんだもん。いちいち、悪いことしたなぁなんて思わなくていいよ。舞やサーちゃんや、勇は……そういう甘え方が、すっごく下手な気がするから、さ」
「……サンキュ」
「ぇ?」
「いや、そう言ってもらえて、嬉しい。だから、サンキュ」
「…………。うん」
 勇兵の言葉に、ユンが恥ずかしそうに顔を俯けて、コクリと頷いた。
 勇兵が、彼女の心にあるほのかな想いに気付く日は来ないかもしれない。
 それでも、そこには確かに恋の花が咲いていたのだと、彼女が振り返る日はきっと来る。
 確かに、この時間だけは優しいものだったのだと。



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