◆◆ 第5篇 恋水・風に揺れるスズラン ◆◆
Chapter10.塚原 勇兵
『舞、好きだ』 その言葉に、彼女は嬉しそうに笑って抱きついてくる。 ふわりと彼女のシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。 柔らかい感触が、腕の中にある。 ドキドキと跳ねる心臓。幸せな時間。確かにそこにある温もり。 ……ああ、これが夢なら、醒めなければいいのに。 そんなことを何度思ったろう。 目を覚ました時、訪れる絶望感と寂寥感。 それに包まれる朝を何度迎えたことだろうか。 夢は無慈悲だ。 自分の願望をそのまま叶えてくれるからこそ、目を覚ました時、突きつけられる現実がとんでもなく重い。 そんな夢さえ見ることがなかったら、おかしな希望など抱くことなく、分を弁えた位置で、彼女を見つめることだけを選べたというのに。 どんなに心が求めても、その人は決して自分のものにはならない。 けれど、ならないからと言って、伝えないのか? そんなのは自分の性分に合わない。 でも、言ったら彼女は困るだろう。 せっかく今ある関係も、何もかもなくなってしまうかもしれない。 そう思うと、勇兵は彼女に対して、その一言を伝えようなんて、やっぱり思えない。 それに、言葉を形にしてしまったら、抑える自信がなかった。 言ってすっきりしようと思って、なんて言う人もいるけれど、自分は言ってしまったら、その言葉に縛られて、更に相手のことを好きになってしまう……そんな予感がする。 だから、絶対に自分は言わないのだ。 そう。心に決めている。 彼女を困らせないために。 彼女を泣かせないために。 自分の想いが、凶器となってしまうことがないように。 自転車を引いて校門まで行くと、舞が校門に背を預けて、夜空を見上げていた。 勇兵はそれを見つけて、一瞬、呼吸を止めたが、すぐに気を取り直して、傍に寄った。 白い歯を見せて笑顔を作り、自転車の車輪止めを下ろす。 車輪止めとコンクリートの擦れる音で、舞がこちらを見る。 「王子様っつーより、ナイトだな、お前は」 「はぁ? 何よそれ」 「ふはっ……。だって、忠犬みたいに毎日毎日さぁ」 「毎日ではないわよ」 「ほぼ、毎日」 「そんなことないっつーの。清香中心の生活してるみたいな表現、よしてくれる?」 舞ははぁ……と息を吐き出し、目を細める。 そして、また夜空に目を向けた。 「勇兵」 久しぶりに、そう呼ばれて、ドキリとした。 そして、すぐに納得する。 周囲に誰もいないからだということに。 自分も二人で話す時は、『舞』と呼ぶこともある。それと一緒だ。 「満月。綺麗だよ」 そう言って、舞はふわりと笑う。 視線なんてまったくこちらを向かない。 けれど、見惚れるその表情があまりに綺麗で、勇兵の胸はきゅっと締め付けられた。 静かに下唇を噛み、なんとか笑う。 「バーカ。よく見ないとわかんねーけど、あれはちょいかけ満月だ」 「え? そうなの?」 「ああ。だって、満月は一昨日だったかそこらだったはずだぜ。俺見たし」 「勇兵、あんたさー、ここは話合わせてよ。気分台無しじゃん」 「なんだよ、気分って。大体、今日気付くなら、昨日気付けよ」 「月なんて見る余裕もなかったわ」 「…………。そんなもんかよ」 「人ってさ、空見るの忘れるようになるとやばいらしいよ。父さんが言ってた」 「些細な変化に気付くって、大事っちゃ大事だしな」 「そうそう。全然自分に関係ないことでも、それに気が付くって、それだけその人が余裕あるってことだからね」 舞は笑いながらそう言い、それから思い出したようにバッグのファスナーを開けた。 勇兵は彼女のそんな行動の意図が読めずに、小首を傾げてその様を見つめる。 「今年も大漁みたいだし、お返しとかは全然要らないから」 自転車の荷物カゴに入っている紙袋に、何食わぬ顔で拳大の紙袋を入れる舞。 それを見て、ようやく意味がわかって、慌てて勇兵は紙袋から舞が入れたものを取り出す。 「ここは手渡しだろ。ホント、可愛げねーなぁ」 勇兵の慌てっぷりがおかしかったのか、舞がおかしそうに笑う。 「ど、どういう風の吹き回しだよ。なんだよ、明日は雪か?」 ああ、可愛げが無いのは自分も一緒だ……。 「清香の分の代わり」 「は?」 「あんたにあげるのは駄目って言ったら、そういうことになったのよ」 言わないでいいことまで言う子だ、ホント。 心の中でそんなことを呟きながら、それでも、自分の頬が緩んでいるのが分かって、顔が火照った。 義理だって分かってても、すごく嬉しい。 それが例え清香から送られた塩だと分かっていても、彼女はもう自分にはくれないものだと思っていたから。 期待がなかった反面、その反動が大きくて、隠しきれる自信が全然無い。 「サンキュ。真っ先に食う。お返しもちゃんとする」 ようやく出た言葉はストレート過ぎて、思わず、顔を覆いたくなったけれど、舞はその言葉にただ苦笑した。 「先に他の子のを食べてあげなよ。ハッピーサプライズが入ってるかもしれないじゃん」 「ハッピーサプライズ?」 「好きです、とか?」 色っぽい声でからかうように言う舞。 その声にドキリとする自分。 夢の中でも、決して聞くことの無かったその言葉に、ただ、切なさだけがこみ上げる。 そういうことに、彼女は無頓着すぎる。 「そういうのは、困るなー」 「そう?」 「ああ。どう対処すればいいか、わかんなくなりそうで」 「ああ……ま、あたしは空気を察知して逃げるけどね」 「贈られたものからは逃げられんべ」 勇兵は舞の言葉に苦笑し、その後、はぁ……とため息を吐く。 「彼女、作らないの? その気になれば、出来そうなもんなのにさ」 「俺はこう見えて、ロマンチストなんだぞ」 「知ってるよ。昔からそうじゃん」 「……それに、俺、みんなと仲良くしたいんだ。誰か一人にキャパシティ割くとか、どうも、イメージ出来ねぇや」 舞は自分に話を振られるのは嫌いだけれど、人に振るのは好きなんだろう。 修吾や柚子と話している時は、自然とそういう話で楽しそうに笑っている。 まさか、自分にそういう話が回ってこようとは思いもしなかったけれど。 修学旅行や、男子と盛り上がった時に話すテンプレートとして用意している言葉を言い、勇兵は笑う。 嘘。 キャパシティなんて、とっくの昔に吹っ飛んでる。 どうしようもないことを分かっているから、放置しているだけだ。 「……じゃ、勇兵は誰かに思い切りキャパシティ割かれる、そういう恋をすればいいのかもしれない」 目の前の人はそう言って笑う。 いつもなら、『あんたは一人でいたほうが平和で済む』なんて言うこともあるくらいなのに。 それが心の余裕ってやつか、と思わず、勘繰ってやりたくなる。実際、言わないけれど。 「まさか、お前にそんなことを言われる日が来ようとはなー」 「あたしも、あんたにこんなことを言う日が来ようとは思ってもみなかったわー」 合わせるようにそう言って笑う舞。 この温度が好きだというなら、勇兵はそのままでいる。 決めていること。それは、決して動かないことだ。 舞は楽しそうに笑っている。 彼女の笑顔を壊す者が現れたら、その時は只じゃ済まさない。 それだけは、絶対だ。 「あ、そういえばさぁ」 「ん?」 「小学校の時、チョコあげたじゃん?」 投げつけられた、が正しい表現だったけれど、とりあえず頷いた。 「あたし、未だに根に持ってるからね」 「は?」 「あれ、仕組んだの、あんたでしょ?」 そう言われて、勇兵は意味が分からずにしかめ面をした。 「どういう意味?」 「男子どもであたしのことからかうために、チョコくれって言ったんでしょ? ってこと」 「…………」 長年の疑問がここで解けました。誠にありがとうございます。そんなことを心で呟きながらも、非常に複雑な心地がして、勇兵は押し黙る。 対象が自分であったことが嫌だった、とか、そういう話自体嫌だった、とか、そういう次元の問題でなく、信頼してた友達に、からかいの材料にされた、と思って泣いたってことでいいのだろうか。 「なんかさぁ、そういうの、あるっていうじゃん? 男子って。罰ゲームとか、賭けとかふざけてやったりさぁ……。人のこと苛めて、何が楽しいんだか」 じゃんけんで負けたヤツは、学年で胸のでかい女子の胸を触ってくる、とか確かにあったけれど、さすがに勇兵はそういうのには参加するタイプではなかったので、ここで舞にそういうイメージを持たれていた、と思った途端、力が抜けた。とはいえ、男子内だけで極秘裏に行っているゲームの内情なんて、彼女が知るわけも無いので、それは仕方ないとも思う。 あれは、男の誇りを守るためのゲームだ、とか、そんなフォローはさすがに入れてやらない。 人が傷つくことが前提にあるゲームなんて、男の誇りもクソもあるか、と、そう思うから。 「まーいー」 「ん?」 「俺はそんなこといたしません、断じて」 「え?」 「確かに、あれは俺が喜びすぎて、周囲の奴に気付かれて大騒ぎになっちまったけど、俺は素直に貰えて嬉しくて大袈裟になっちまっただけだよ。お前のこと、からかおうなんて、一ミリも思ったことないよ」 「…………」 「なんだよ、早く言えよーーー……、そゆことはさぁ……。俺とお前の仲じゃん」 「あんたとあたしの仲だから、割り切っちゃったんだよ」 舞はそう言って苦笑する。 本当に困ったような目で笑っている。 「割り切れてないじゃん、根に持つあたり」 「ああ、そうかもね」 勇兵の言葉に感心したように舞は頷き、また、月に視線を戻した。 月を見つめる彼女を、見つめる自分。 たとえ、その目が見えなくなっても、二人はそうやって同じものを見つめ続けるのかもしれない。 この関係は、本当に、いつまでも変わることなく。 それは、とても悲しいようで……けれど、優しい関係だと思う。 もしも、彼女の行動で自分が傷ついて涙を流しても、そして、それを彼女が全く知る機会になど触れることが無くても、それはそれでいいのだ。 だって、彼女がそれを知ったら、きっと、自分のために泣いてくれるような気がするから。 そんな涙を、勇兵は見たくないし、要らないと思う。 彼女は、風のように飄々と、太陽のように朗らかに笑っているのが、一番似合うから。 風に揺らされる恋心は、静かに優しい音を奏でる。決して雑音になんてならない。 流した涙は、その笑顔でまた乾く。 いつか、新たな恋が降ってくる、その時まで……。 |