◆◆ 第6篇 空音・桜咲くにはまだ早く ◆◆

Chapter3.丹羽 日和子



 放課後、日和子は、バレーボール部が活動している体育館の扉の前で、1人立ち尽くしていた。
 中学の頃あった部活動は、出来る限り用具にお金のかからないスポーツがほとんどで、文化部すら存在しなかった。
 男子が野球部とサッカー部とテニス部と柔道部。
 女子がテニス部とバスケ部とバレーボール部。
 夏には、水泳の得意な子を集めて、寄せ集めの水泳部が結成され、秋には、運動の得意な子を集めて、寄せ集めの陸上部部隊が結成される。
 そんなレベルのクラブ活動しかやったことはなかったので、部活用に体育館が2つ、武道館と呼ばれる建物も1つある――田舎だから、敷地が余っているという捉え方も出来るには出来るけれど、その規模に、少々腰が引ける。
 まだ、部活が始まる時間ではないらしく、中では先輩たちの談笑している声がする。
 出来るだけ目立たないように、活動している姿を見たかったので、入るに入れない。
 日和子ははぁ……とため息を吐き、踵を返した。
 駄目だ。心臓がバクバク言って、何をどう言えばいいのか、全然言葉が出てこない。
 変なことを言って、笑われるのも嫌だし、今日のところは帰ろう。
 そんなことを思いながら顔を上げると、そこには、今朝の客寄せパンダ……基い、歌枝のお兄さんの勇兵が立っていた。
 勇兵は大きなバッグを肩から提げ、少々焦った素振りで靴を脱いでいたが、日和子の顔を見て、人懐っこく笑ってくれた。
「うぃっす♪ 今朝の子だよね? 見学? 女バレ? 男バレ?」
「あ……あの、その……ぇと……」
「…………。丹羽、ひよこ?」
 日和子がしどろもどろな口調で、顔を紅潮させたのを見て、勇兵は困ったように鼻をこすり、その後に、日和子の名札を見つめて、静かに首を傾げた。
 きっと、彼には全然悪気が無かったのだろうけれど、そう読まれた瞬間、同級生の男子たちのからかい口調の『ひよこ』という声が頭の中で響いた。
「ひ、ひわこです!」
「ぁ、ごめんごめん、つい。でも、丹羽ちゃんの名前、面白いね」
「ぇ……?」
「にわとりなの? ひよこなの? みたいな感じで。今まで、言われたことない?」
 彼は全く悪意のない表情で、楽しそうにそんなことを言っている。
 悪意がないのは分かっていても、その言葉は日和子にとって不快だった。
 せっかく初日から仲良くなれた歌枝のお兄さんであることは分かっていても、つい、唇を尖らせてしまった。
 上手く仮面を被れなかったのは、たぶん緊張のせい。
「ありません」
「ぁ……。そう……。あはは、俺、滑った?」
「…………」
「あー……見学するなら、入ったら? そろそろ、始まるから。男バレのコートが手前で、女バレのコートは奥だよ」
「……はい。ありがとうございます」
 勇兵が目を細めて、日和子のことを見ている。
 扱いに困っている。そういう目のような気がした。
 先輩に対して失礼なのは分かっているけれど、名前コンプレックスの強い日和子にとっては、そのネタは全然面白いものではなかったのだ。
 日和子が扉に手を伸ばそうとした瞬間、勇兵が日和子の脇をすり抜けて、軽々と扉を引き開けた。
「見学者1名様ご案内〜!」
 彼の高らかな声に、部活の準備をしていた部員たちが一気にこちらを見た。
 目立たないつもりだったのに……、この人は目立つことを素で出来てしまう人らしい。
 今朝話した時は、緊張している自分の背中を、その笑顔で押してくれたのに。
 今、この瞬間、日和子は勇兵が自分とは全く違う世界の中で生きている人だと、そんなことを思った。



 塚原勇兵は、守備専門のリベロプレーヤーだった。
 部内での身長分布を見ても、勇兵は真ん中よりも少し上くらいの大きさだったので、日和子は1人首を傾げる。
 スパイク練習を見ていても綺麗なフォームと小慣れたステップをしていたので、てっきりウィングスパイカーかと思っていた。
 ゲーム形式の練習中。
 3年の先輩が忌々しそうな眼差しで、そんな勇兵を見つめている。
 外ハネの強い髪に、鋭い眼光。
 背は165センチあるかないかくらい。
 その先輩は、勇兵のチームでないほうのチームのリベロプレーヤーだった。
「……あの、す、すみません」
「ん?」
「どうして、ぇと、塚原さんはリベロなんですか?」
「…………」
「通しの練習見る限りじゃ、ウィングスパイカーだと思ったんですけど……」
 日和子は緊張しながらも、なんとか噛まずにそこまで言って、その先輩を見上げる。
 その問いを受けて、嘲るように彼は笑った。
「おれへの当てつけさ」
「ぇ……?」
「あいつ、人当たりもよくて良い奴だけど、妙に打算的なとこあるんだ。おれ以外、誰も気付いてねぇけど」
「…………?」
「1年からレギュラーになるためには、どうすればいいか。アイツは、そう考えたんだよ」
「あの……?」
「結局、テメェの怪我で無駄にしてんだから、笑えるけどな」
「…………」
「……絶対に、アイツにだけは譲ってやるもんか」
「糸峰! 交代!」
「おぅ!」
 糸峰と呼ばれた先輩は、さすがに言動が不味かったと思ったのか、最後に愛想笑いだけ残して、コート内へ素早く駆けていってしまった。
 それと入れ違いにコートを出てくる坊主頭の先輩。
 日和子は目を細めて、ボールの行方を追う。
「糸峰と、何話してたの?」
「あ、塚原さんって、どうしてリベロなんですか? って聞いてました」
「あぁ……ちょっとそれは不味かったかもな。地雷だったろ? アイツ、被害妄想強いんだよなぁ」
 そうなのだろうか?
「昨年の新人戦、2人の実力拮抗しててさ。結局、勇兵のこと、メインで使うって話になったんだけど……、怪我でアイツ出られなくなって、糸峰がメインになったんだ」
「……はぁ……」
「糸峰的には、屈辱だったんじゃないかなぁ……それ以来、イライラすると、そう言うことあってさ……。ほら、3年は早くて……つーか、おそらく、今年も6月で引退だから、余計ね?」
「……春高の予選では、どちらが?」
「2人を半々だった。良い効果ではあったんだよ? どっちも、ライバルを意識してるから、技術の伸び具合もすごかったし。ただなぁ……勇兵は、身長も伸び盛りなんだ。昨年より5センチは伸びたように見えるし。本当は監督もポジション転向させたいんじゃないかなって思うんだけどね。勿体無いし。糸峰は、あの通り、背も低いし、拾う専門で必死に伸ばしてきた奴だから、他に可能性があるのに、リベロにこだわる勇兵のこと、よくは思ってないかもなー」
「そうなんですか」
 日和子はチラリと糸峰先輩を見て、考えるように奥歯を噛む。
 あの人、自分と一緒なんだな……。
 そんな言葉が、心の中で響く。
 必死に手を伸ばして、目一杯伸ばして、居場所を見つけたのに……。
 でも、あの人は凄い。
 ……だって、自分は逃げたのだから……。
「あ、面倒、とか思わないでね? 3年はさ、3年で必死なんだ。そんだけ」
「ぁ、いえ、自分から聞いたことなので……」
「ならよかった……」
「ダイキ、交代!」
「あ、おう!」
 糸峰先輩の声で、その先輩は日和子に手を振りながら、素早く駆けて行ってしまった。
 今朝は視線やらなにやら怖かったけれど、話してみると、人当たりの良い人が多い。
 他に入りたい部もないし、悪くもないかもしれない。
 日和子は、奥のコートで練習している女子バレーボール部の練習を見つめながら、静かに心の中で呟いた。



「丹羽ちゃん丹羽ちゃん」
 練習が終わった後、日和子は勇兵に呼び止められた。
 見学ではあるけれど、一応片付けだけでも手伝おうとせこせこと動いていた矢先のことで、日和子は慌てて顔を上げる。
「片付け、俺がやっからいいよ」
「え? でも……」
「自主練すっから」
「あ、はい、わかりました」
 今日から早速部活に参加していた1年と、見学に来ていた日和子以外はそれを分かっていたのか、ボール入れとネットの片付けは全くせずに、その他のものだけを倉庫に片付けていた。
「……なんだよ、今日はみなさんお帰りですかー?」
「折角明るいうちに帰れんだから、寄り道するに決まってんだろ。部活馬鹿」
 2年の浅賀光がそう言っておかしそうに笑い、同じく2年の高安守を連れ、体育館に「ありがとうございました!」と言ってから出て行ってしまった。
 他の先輩も同様で、1年もその流れに乗るように、そそくさと出て行く。
 その流れに乗り遅れた、にわとりなのか、ひよこなのかわからない名前の女子1人。
「んっだよー……サーブ練習しか出来ねーじゃん」
 勇兵がボールをつきながら、ぶぅたれてそう言うのを見かねて、日和子は思わず言葉を発してしまった。
「手伝いましょうか?」
 2人以外、誰も残っていない体育館。
 その声は綺麗に響いて、自分の耳に返ってきた瞬間、日和子の顔が熱くなった。
 何言ってるんだろう。自分なんかが手伝えることなんてあるわけ、ない、のに。
「マジで?」
 けれど、日和子の心の中とは裏腹に、勇兵は嬉しそうな声を発した。
 その声に、日和子は顔を上げる。
「何が得意? スパイク? レシーブ? トス?」
「あ……」
「やーさー。丹羽ちゃん、絶対経験者だと思ってたんだよねー。だから、女バレ来るのかなぁって思ってたのに、今日は男バレの見学だって言うし」
「私、経験者に見えますか?」
 こんなに小さいのに……。
「なんとなく、勘……? 見た目より、足の筋肉とかしっかりしてそうに見えたし。背低くても、ジャンプ力ある人だっているしさ。うちの光みたいに」
「あ……」
「で、何が得意?」
「……得意って程じゃないんですけど……。1番マシなのは、トスです」
 人懐っこい大型犬のようにガルガル懐いてくるので、日和子はつい後ずさる。
 良い人なんだろうけれど、あまり親しくもないのに、ここまで迫られると、腰が引けてしまう。
「あ、じゃ、丹羽ちゃんがスパイクして、俺がレシーブで上げたのを、丹羽ちゃんがトスして、俺があっちのコートに叩き込む。オッケー?」
「え、でも、私のスパイクじゃ……角度が」
 10度以上違ってしまいますけど……と言おうとした日和子の言葉など気にもせずに、勇兵は日和子にボールを放ってきた。
「細かいことはいいよ。さ、やろ!」
 軽い足取りで勇兵は後衛の位置に陣取り、膝を軽く曲げ、腰を落として集中するように息を吐き出した。
 朗らかだった表情は、研ぎ澄まされたクールなものへとガラリと変わる。
 そういえば、練習中も、こういう表情をすることがあった。
 そのギャップに、思わず、日和子は唾を飲み込んだ。
「いいよー」
「あ、はい。あの、バックアタックの練習ですか?」
 後衛にいる選手はアタックラインよりも前の攻撃が出来ない。
 なので、確認のため、日和子は小首を傾げて尋ねた。
「ん? あ、ううん。一応、普通のスパイク練習……。バックアタックも捨てがたいけど、まず、試したいことがあるから」
 日和子はネットを背に、軽くボールを上げて、叩きつけるようにボールをスパイクした。
 久々のボールの感触に、ドクンと心臓が跳ねる。
 あまり無理な位置へのスパイクは避けて、勇兵の真正面に打ち込む。
 真正面に来たボールを勇兵は綺麗に日和子のいる位置に上げ、すぐに駆けて来た。
 日和子は落ちて来るボールを見上げ、確認するように心の中で呟く。
 落下地点、よし。
 肘、膝の角度、よし。
 タイミング、よし。
 日和子はボールに触れ、素早く理想的な位置に柔らかいトスを上げた。
 スパイク練習で、勇兵の打点の高さや、打ち込みのクセは見ている。
 大丈夫。この位置で、行ける、はず。
 勇兵が思い切り床を蹴って、宙を舞った。
 そのジャンプスピードに、思わず目を見張る。
 違う。部活の時のスパイクじゃない……。
 勇兵はバシンと思い切りスパイクし、一瞬でボールがコートを捉えた。
「おぉっと……タッチネットォ……」
 着地で堪えきれずに、勇兵が顔からネットにぶつかって、そんなことを呟いた。
 呆然と勇兵のことを見つめている日和子に対して、彼は顔をさすりながら、ニヘヘと笑った。
「ちょっと思いついたから試してみたくてさぁ……踏み込みが少ぉしだけ違うんだよ。でも、やっぱ、あれだな。……勢いありすぎだな」
 リベロプレーヤーは守備しか行えない。
 これは、リベロプレーヤーにこだわっている人の発言でも、練習内容でもない。
 日和子はそう思いながら、バクバクと音を立てる胸を押さえる。
 こんなに間近で、あんなにも迫力のあるスパイクを見たのは初めてのことだ。
「しかし、丹羽ちゃん、超綺麗なフォームじゃん。トスも良い位置来たし」
「あ、ありがとうございます……」
「惜しいなぁ……」
「え?」
「やらないの?」
「…………。どうせ、この背だし、高校では、絶対にレギュラーになんてなれませんから。もう、いいんです」
 日和子はふわりと笑って、勇兵にそう返した。
 日和子の言葉に納得できないように、勇兵は目を細める。
「それでいいの?」
「え?」
「自分が諦めなかったら、それは諦めるまで負けにならないんだよ? 自分が決めた目標の高さなんて関係なく、さ。勿体無いよ。続けなよ」
 勇兵の声は優しかったけれど、その言葉は、向き合うことから逃げた自分にとって、とても厳しかった。
 分かっている。
 分かっていても、もう、歩き続ける勇気も、歩き続けられる自信もない。
 新しい目標を探そうとしているのに、その決心を、彼は容易に鈍らせる。
 今日、初めて会った人に、そこまで言われて、笑って流せるほど、自分は大人ではない。
 みじめなのだ。
 必死に練習しても、試合に出られる回数は少なかった。
 ようやく試合に出られても、根っからの緊張しぃな自分は、緊張から試合を壊すようなプレーしか出来ず、いつも途中で下げられた。
 身長だけのせいではないことはわかっている。
 けれど、そういうことにして、逃げ出すことしか……自分は出来ないのだ。
 お願いだから、弱い自分を思い出させるような……そんなことを、言わないで。
「丹羽ちゃん……?」
「ごめんなさい……きょ、今日は、帰ります」
 日和子は必死に奥歯を噛んで、笑みを作り、ペコリと頭を下げて、彼の脇をすり抜ける。
「え、あ……あ、うん! 付き合ってくれて、サンキュ!」
 勇兵は、日和子の表情が暗いことに気が付いていただろうに、素知らぬ素振りでそう言って、手を振ってくれた。
 この人は悪くない。
 強い世界で生きるこの人が悪いわけじゃない。
 特別な、選ばれた誰か、なんて言い方も、自分は好きじゃない。
 分かっているけれど……、まだ迷いの中にいる自分にとっては、彼の強さは……眩し過ぎる……。



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