◆◆ 第6篇 空音・桜咲くにはまだ早く ◆◆

Chapter6.車道 舞



「ねぇ、ニノ。この英訳なんだけどさぁ……」
「ん? ああ、今日の宿題?」
「そ」
「どれ?」
「これ」
 部室で相変わらず、机を向かい合わせて、思い思いに過ごす修吾と舞。
 入学式以来、入部希望者は弟の楽以外に現れず、鳴も受験勉強に時間を割くようになって、部室に姿を現さなくなった。
 そのため、また2人だけの気ままな放課後が戻ってきた。
 修吾が小説を読んでいるところに、舞が穏やかな声で尋ねると、すぐに修吾は小説を閉じて、こちらに視線を寄越した。
「ニノ、まだ、『銀河鉄道の夜』読んでるの?」
「え? あ、ああ。ちょっと、気になることがあって……」
「気になること?」
「オレが、今まで読んだことあったのって、最終稿だったんだ」
「ふーん。最終稿と、その前ので何か違うの?」
「カムパネルラが……あ、や、なんでもない」
「え……?」
「よかったら、読んでみる? こういうのは、人の話を聞くより、読んだほうが楽しいし」
「あー、うん。それより、今は、この英訳」
「あ、そうだったね」
 修吾は舞の教科書を引っくり返して手元に引き寄せると、真面目な表情で、英文を見据えた。
 修吾が考えている間、舞は天井を見上げて、うーんと唸り、少し経ってからポツリと声を掛けた。
 この男の性格なんて分かりきっているから、本当は、お節介なんてものはしたくないのだけれど、気に掛かったことがあったし、その気掛かりは舞にとっては嬉しくもないことだったので、言うことに決めた。
「ねぇ、ニノ」
「ん?」
「あたしさ、あなたたち2人が付き合えばいいなぁって思ってるのよね」
「…………」
「口挟んでいいなら挟みたいんだけどさ。そんなこと言ったら、ニノは怒るでしょ?」
「うん」
「即答かぁ……。でもさ、少しは自覚してるよね?」
「何が?」
「みんなの間で、柚子の敷居が低くなってるってこと」
 話し掛けづらいランキング1位2位を独占していた、二ノ宮・渡井ペアのその空気は、確実に緩和されてきている。
 特に柚子に関しては、南雲秋行、という存在が現れてから顕著になってきたように思う。
 舞の知っている限り、柚子は男子から話し掛けられることが増えた。
「…………」
「これだけ言っておくから。忠告だからね?」
 修吾は教科書越しに舞の眼差しを見据える。
 真っ直ぐに、視線はバチバチと音を立てそうなほど、真っ向からぶつかり合った。
「誰かに取られても知らないよ? 柚子の良さ、ニノが1番わかってるでしょ」
「1番かは、知らない」
「……ッ……」
「でも、譲る気も、ない」
 修吾は静かに言った。
 舞は彼を真っ直ぐに見つめ、目を細める。
 面倒くさい男。
 言えもしないくせに、カッコだけはつける。
 けれど、それが二ノ宮修吾……か。
「信じていいのね?」
「え?」
「ニノの、その気持ちだけは、信じても」
「……ああ……」
 舞の眼差しに、気圧されるように彼は少々怯んだ。
 けれど、舞に負けまいと、修吾は見つめ返してくる。
 その想いだけは、誰にも負けないんだとでも訴えるように。
「ちぃす」
 2人が見つめ合っているところにタイミング悪く、楽が部室へと入ってきた。
「あれ? 今日、活動日じゃないよ、ガク?」
「……部室の本、借りてたから、返しに来た」
 ガクはボソリとそう言い、2人を交互に見た。
「? 何?」
「邪魔した?」
「はぁ? ……ああ。この流れ、デジャヴュだわ。説明面倒」
 舞は楽の問いを不快に感じ、目を細めた。
 けれど、すぐに気を取り直して口を開く。
「そういう関係じゃないから。言うなれば、親友。オッケー?」
「……親友?」
 楽が舞の言葉に不思議そうに目を細めた。
 勘繰るように修吾を見、その後に天井に視線を移す。
 そして、借りていた本を鞄から出し、書棚に戻すと何も言わずに踵を返した。
「ちょっと。納得してない風で出てかないでくれる?」
「別に。おれが納得しようとしまいと、2人の関係が変わるわけじゃないし」
「……じゃ、聞くなよ」
 楽の生意気な物言いに、舞は苛立ちを隠せずにぼやいた。
 楽は聞こえないような素振りをして、静かに扉を開け、部室を出て行ってしまった。
 思わず、ため息が漏れる。
「身内が同じ部って、すっごいやりづらいんだけど……」
「別に、いいんじゃないの? オレたち、単に同じ部なだけだし」
「…………」
 修吾は手元にあったメモ帳にサラサラと英訳の答えを書きながら静かにそう言った。
 そんな風にサラリと言われてしまうと、それはそれで、なぜか悔しいような気がする。
 別に、只の友達な訳だから、それで構わないはずなのだが。
 急に黙った舞を不思議に感じたのか、修吾が顔を上げた。
「修吾」
 動揺させたくて名前呼び。
 けれど、彼の表情には特に変化が無かった。
「からかい甲斐、無くなってきたわよねー、最近。つまんない」
「そりゃ、半年以上おもちゃにされれば、少しは耐性付くって。はい、これ、答え」
 修吾はビリビリと答えを書いたページを破り、舞のほうに教科書と一緒に返してきた。
 耐性。
 そんなものが付いてしまうなんて、なんだか面白くないな。心の中でひとりごちりながら、舞はそれを受け取り、答えを見る。
 綺麗に整った字。
「ああ……こうなるのかぁ」
「オレ、5教科の中じゃ、英語が1番苦手だから、合ってるかは知らないよ」
「いや、合ってるでしょ。サンキュー。用法ミスってたからわかんなかったんだ」
「……そう」
 舞の柔らかい笑顔に、修吾も優しく笑みを返してきた。
 2人だけの放課後は、当たり前になり過ぎていて、無価値でありながら、かけがえのないものでもあるように感じる。
 ここに柚子もいたならば、どんなに楽しそうに話をするのだろう?
 そんなことを思った。



「全くさー……いい加減、心配になってきちゃった。あの2人、大丈夫なのかな?」
 舞は今日の身体測定の際の、柚子と秋行のやり取りを見て感じた不安を思い返しながら、ぼやいてみせた。
 隣を歩く清香がそっと髪の毛を耳に掛けてから目を細める。
「くーちゃんはさ、柚子ちゃんとシュウちゃんのこと、かなり気にしてるみたいだけど。当人同士には当人同士の適切な距離ってものがあるわけだし、とやかく言うようなことではないのじゃないかと私は思うな」
「……わかってはいるんだけどさぁ……。今日の南雲くんの反応見たら、ちょっと嫌な予感がして」
「柚子ちゃんに矢印、みたいな?」
「いや、まだそこまではいかないだろうけどさぁ……あの2人、雰囲気がすごく似てるっていうか」
「……そうかな?」
 清香は舞に視線を動かして、ふんわりと笑う。
 舞は清香のその視線の意味が上手く汲み取れずに、首を傾げる。
 清香は空を見上げながら、節を取るように歩を進める。
 彼女の次の言葉を待ったが、それよりも前に、後ろから声を掛けられて、2人は首だけ振り返った。
「舞先輩〜」
「うわ、うるさいのが来た」
「くーちゃん、そんなこと言っちゃ駄目だよ」
 歌枝の顔を見た瞬間、冗談交じりでそんな言葉を漏らしたら、清香がおかしそうに笑った。
 歌枝は大きなバッグを肩から提げ、入学式の日、一緒にいた背の低い女子を引き連れて追いついてくる。
 おかっぱ頭ではないのだが、切り揃えられた前髪がよく似合う……利発そうな女の子。
 名前はわからないものの、そんな印象を勝手に持っていた。
「部活帰り?」
「はい。今日から入ったんで。この子は、見学で」
「今日から? 決めてた割にはのんびりだったのね?」
「……だって、舞先輩入らないんじゃ、意味ないかなぁって、少し葛藤を」
「するなするな、そんな葛藤。好きなんだったらやるべきよ」
「舞先輩は……バスケ、好きじゃないんですか?」
 歌枝の問いに、舞は目を細める。
 約2年前、最後の大会に出ることが出来ずに泣いていたチームメイトのことを思い返しながら、唇を噛む。
 運動部っていうのは、本当に好きな人が入るべきなのだ。
 そうでなくては……時に人を傷つけてしまうから……。
「歌枝程は好きじゃないわ」
「……先輩は、県選抜候補にだって選ばれた人なのに」
「所詮、候補よ?」
「…………」
「ねぇ、歌枝? あたしに執着するの、やめな? やる気のない人に、どんだけ気を揉んだって、意味なんてない」
 舞の穏やかな声に、歌枝はようやく諦めたように視線を落とした。
 清香が舞と歌枝を気遣うように視線を動かしたが、挟む言葉が見つからないらしく、舞の隣でおとなしくしていた。
 さすがに、この前みたいに噛みつかれるのも嫌なのだろうし、その選択は間違いではない。
「塚原さん、わたし、ここで」
「え? ひわちゃん、そんな急いでも、電車行っちゃったばっかりなんでしょう?」
「……そ、そうなんだけど……わたし、学校も違うし」
「大丈夫だよ、気にするような人たちじゃないから」
 気にしているのは、『ひわちゃん』なのだということには考えが行かない。
 自分の都合で物事を捉えてしまうところは相変わらずのようだ。
 舞は2人のやり取りを見て、仕方なく、柔らかく声を発した。
「あたし、車道舞。で、こっちが、遠野清香。あなた、お名前は?」
「に、丹羽、日和子、です」
「丹羽さん、ね? あなたは、入る部活、決まっていないの?」
「は、はい……」
「最初ねー、男子バレー部のマネージャーがいいかなって言って見に行ったんですけど、ピンと来なかったみたいで、今色んな部を見学して回ってるんですよ、この子」
 人見知りしやすい子なのか、言葉数が少ないため、歌枝が補足するように言葉を継ぎ足してくる。
 しかし、舞が見るに、その補足説明が余計だったようで、日和子は少々難しい顔をした。
 少々挙動に落ち着きはないが、利発そうな子、という印象は間違っていないらしい。
「男子バレー部だと、勇くん……あ、塚原さんのお兄さんがいるよね?」
「お兄ちゃんに勧誘ナンパされたとかで」
「アイツ、何やってんの……?」
「あれ? くーちゃん、知らないの? 男子バレー部の恒例行事だよ。女マネ勧誘は」
「ふーん……。あれ? 清香って、男子テニス部のマネ? 女子テニス部のマネ? どっち?」
「え……? か、かなり今更だね……? 私は、女子テニス部だよ。普段の練習じゃ、どっちでも関係ないけど」
「そうなんだ。丹羽さん、テニス部はどう?」
「て、テニス、ですか? テニスは……全くやったことがなくて……」
「マネージャーは? 男バレを見に行くくらいだし、そういうの希望なんじゃないの?」
「…………」
 舞の問いに、日和子が少々困ったように視線を落とした。
 あまり話を振られるのは好きではなかったろうか? それとも、この話題が嫌なのか?
 少し考えながら、舞は静かに髪を耳に掛ける。
「部活は、好きなことやったほうがいいよ? 私、テニス好きなんだけど、運動音痴だからマネージャーやってるの。でも、応援してるだけでも、自分が動いている気分になれるし、楽しいよ」
 清香が日和子の顔を覗き込むように小首を傾げ、おっとりと言った。
 日和子が困ったように更に目を細める。
「ひわちゃんは、バレーが好きらしいんです」
「あら? じゃ、バレー部でいいんじゃないかな?」
「そう思うんですけど……ピンと来なかった、の一点張りで」
 歌枝が困ったようにそう言って、ふぅとため息を吐く。
 ふ、む。
 また、あの人懐っこい大型犬が何かやったか?
 そんなことを心の中で考えながら、舞は日和子を見つめた。



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