◆◆ 第6篇 空音・桜咲くにはまだ早く ◆◆
Chapter8.丹羽 日和子
体育の授業の後、教室に戻る途中、2年生の教室の前を通った。 中学の時もそうだったが、別の学年の教室の前を通るのは、どうしても緊張してしまう。 同じ校内なのに、全く別の空間に飛ばされてしまったような、そんな錯覚を覚えるからかもしれない。 歌枝よりも早く着替え終わってしまって、なんとなく1人で戻ってきたのだが、それがよくなかった。 廊下で窓枠にもたれて、友達と談笑している勇兵が視界に入って、思わず日和子は息を飲む。 勇兵もこちらに気が付いて、視線を寄越し、屈託のない笑顔でヒラヒラと手を振ってくれる。 日和子は気まずさに耐えられずに、ふいっと視線を逸らし、スタスタと彼の前を通り過ぎた。 『コッケコッコー』 突然、勇兵が大きな声でそう言った。 日和子も驚いて足を止めてしまった。 『なんだよ、勇兵、いきなり……』 『ん? 俺のことを毎朝起こしてくれる目覚まし時計の真似。コケッ、コケッ、コッケコッコーって感じ』 『はは、お前、変なもん持ってるんだな』 『そうか? 姉ちゃんのお下がりだぜ? 寝坊しないように、目覚まし3つ置いてるからさー』 彼は特にこちらを気にする風でもない。 いや、それでいいではないか。 気にされても、こちらが困るだけなのだから……。 「うん、まぁ……文芸部見学おいでって、自分で言っておいてなんなんだけど、今日、別に活動日でもないんだよねー」 「あ、は、はぁ……そうなんですか」 舞は部室まで案内してくれて、慣れたように席に着くと、考えるように天井を見上げてそんなことを言った。 日和子はただ頷いて、その場に立ち尽くす。 「適当に座って? 今日はたぶん誰も来ないから」 「あ、は、はひ……! はい」 声が裏返ったのが恥ずかしくて、顔を真っ赤にして俯きながら、返事をし直す日和子。 そして、舞の前の席にストンと腰を下ろした。 「緊張しなくてもいいよ、あたしだけだし」 「は、はい」 人見知りで緊張しぃ。 本番には極端に弱いタイプ。 親には、ノミの心臓とまで言われてしまうほど。 文芸部に見学に行くと言ったら、歌枝が羨ましそうに騒いでいた。 あの人は、本当にこの先輩が好きらしい。 日和子はちらりと舞を見て、すぐに視線を机に落とした。 足を組んで椅子に座る姿も様になっているし、頬杖をついて髪をいじくる仕草なんて本当に女らしい。 女から見ても、この人はすごい。そう思わせるオーラが全身から出ている。そういう人だ。 「丹羽さん……あー、日和子でいいかな? なんか、さん付け、あんまり好きじゃなくてさ」 「は、はい。別に、私は気にしません、けど」 「そう? じゃ、日和子で」 舞は日和子の返しに楽しそうにそう言うと、唇に親指を当てて考えるように目を細めた。 「読書は好き?」 「うーん……ティーンズ文庫しか、読まない、です」 「あ、そうなんだ? あたしも時々読むよ? 図書室でも要望多いらしくて、いくつか入ってるからさ」 「そうなんですか」 「うん」 舞はニッコリ笑って頷くと、前髪を軽く直して、頬杖をつく手を変える。 「日和子は、バレーボールが好きなんだっけ?」 「ちゅ、中学でやっていただけです」 「そうなの? でも、入学式当日に見学行くって、相当熱意あるって思ったけど」 「うちの中学、どこかしらの部には入らないといけなかったんで、それでなんとなく……」 「ああ、うちもそうだったよ? 仕方ないからバスケ部入ったんだよねー……。そしたら、練習はハードだし……何度戻しそうになったことか」 日和子はジッと舞を見つめる。 歌枝が言っていた。舞は抜群のセンスを持っている人で、県選抜候補にも選ばれた人だと。 何故続けてくれないんだという彼女のぼやきに対し、日和子は冷めた目で、センスに恵まれているからこそ、要らないってすぐに放棄できてしまうんじゃないの? なんて、斜に構えた考えを持っていた。 「? どうしたの?」 「車道先輩は、バスケ、好きじゃないんですか?」 「一昨日も答えたなぁ、その質問」 「聞いてはいましたけど」 「うん。あたしは、本当にバスケ好きな人に比べたら、バスケ、好きじゃないと思う」 「……そうですか」 「バスケ自体は好きよ? でも、あれに何時間も時間割いて、体ボロボロにして、それでも続けたいなんて、そんな熱意、あたしの中には微塵もないんだわ」 「…………」 贅沢な人。 そんな言葉が心の中に広がる。 「……あたしが、選抜候補落とされた時、担当の人に何て言われたか教えてあげようか?」 「え?」 「悔しすぎて、誰にも言ってないんだけどさー。なんか、日和子なら話してもいい気がしてきたから」 「…………」 「技術はあるけど、心のないプレー。大事な局面で、簡単に押し負けてしまう気持ちの弱さ。それが、あなたを選ばなかった理由です。だったかなー。気持ちだけは、教え込んでも身に付くものじゃないから、ねー。部内じゃ、そんなに目立たなかったんだけど、技術がある人だらけの選抜候補の中じゃ、あたしのそういうところが際立っちゃったんだろうなー……」 「でも、何かしらの期待を持って、その方は車道先輩にその言葉を伝えたような気がします」 「……ああ、そっか」 「え?」 「そういう見方も出来るんだねー。なるほど」 舞は静かに頷いて、その後ゆったりと立ち上がった。 テクテクと日和子の後ろまで歩いてくると、突然肩をガシッと掴まれた。 そのまま、舞の手がスーッと日和子の腕のほうに流れていく。 「ッ……な、何するんですか?!」 「あー……やっぱり、いい腕してる」 「え? え?」 「日和子、あなた、マネージャーじゃなくて、プレーヤー志望なんじゃないの? 半月前まで受験生だった人の腕じゃないよ、これ」 体を動かしながらのほうが頭に入るからと、受験勉強中も筋トレだけは確かに欠かさなかったけれど、勇兵といい、舞といい、動きを見ずにどうしてそんなところを見抜いてくるのか。 そんなことを考えている間に、舞の手が脇腹に伸びた。 さすがにそこで日和子はガタッと席を立ち上がる。 「あら、残念」 「くすぐったいじゃないですか!」 「ああ、ごめんごめん。やーさ。初めて見た時から、いい首筋してるなぁって思ってて」 「は?」 「この人、何かスポーツやってたのかなぁって……なんとなく、そう薄ぼんやり思ってたから、バレーボールって聞いて納得したといいましょうか」 「…………」 『それと、今のおさわりタイムに何の関係が?』と言いたかったけれど、上手く言葉に出来ずに口だけがパクパク動いた。 けれど、日和子の表情を見て、舞がなんとなく察したように悪戯っぽく笑ってみせた。 「単に触ってみたくなっただけ」 この人……。 日和子はその言葉に、うっかり表情を歪めた。 絶対に、自分のことを馬鹿にしてる。なんとなく、そんな風に感じてしまった。 「……不快に感じたならごめんなさい。軽いジョークのつもりだったから」 そう。ほんの冗談なのだ。 そういったものが一切通じない日和子には、『ピヨ』というあだ名と同様、嫌がらせにしか感じないわけだが。 「……あんまり真面目な顔してるから、ちょっとはリラックスしてくれないかなぁ……なんて、思ったんだけど」 「地顔なので、気にしないでください」 「あははは……うん、わかった」 少々強い語気で言葉を返してしまったが、舞はその返しがお気に召したように優しく笑うと、自分の席に戻って、再び頬杖をつく。 なので、日和子もゆっくりと席に着いた。 「なんだか、あなたの外見通りの声が今聞けた気がした」 「え?」 「バレーボール部入ればいいのに」 「話が飛びましたよ」 「あたしの中では、とても綺麗なベクトルを描いています」 「……そうですか」 「高校生活は、一度しか来ないよ?」 「…………」 「時間を無駄にするのは、やめなさい」 舞はニッコリ笑ってそう言う。 時間の無駄? これからたくさんの時間を割いて、ベンチを暖め続けることになることが容易に想像できるのに。 それでも、バレーボールをすることが、時間の無駄ではないと、彼女は言っているのだろうか。 この人も、勇兵と同じことを、言うのか? 自分は……もうあんな惨めな思いはしたくないのに。 「無駄って言いますけど、結果が出なかったら、結局時間の無駄なんじゃないんですか?」 「日和子は、石橋を叩いて叩いて叩きすぎちゃう子だね、きっと」 「…………」 「あたしの友達にね」 「はい」 「夢に向かって一直線な女の子がいるの」 舞は本当に優しい眼差しでそう言うと、そっと窓の外を見つめた。 「彼女はいっつも絵ばっかり描いてて、納得いくまで、ずっと同じ場所で同じ絵ばっかり描いてる。でもさ、絶対に納得いく出来に出来るかなんて、自分でも分からないわけだ。あたし、ある時、彼女が絵を描いているのを見ながら聞いたことがあるんだよね。『おんなじ絵ばっかり描いて楽しいの?』って。そしたら、彼女、本当に楽しそうな笑顔で、絵の具がほっぺたについてることすら気にしないで言うの。『だって、わたしにはこれしかないから』って。彼女は、自分の生き方を感覚で捉えられる……そんなすごい才能を持っている人。本人は、それを才能だなんて微塵にも感じていないだろうけどね」 視線が日和子に向いた。 舞は真っ直ぐな眼差しで日和子を見つめ、静かに口を動かす。 「それと一緒で、『好き』は、才能なんだよ。あたしは、その才能に恵まれなかったけど、日和子には、きっとそれがあるなぁって思うから。だから、やればいいのにって、そう思います」 「なんで、会ったばっかりの私にそこまで……」 「大型犬のフォロー」 「え?」 「ってのは冗談で、あたし、頑張ってる人が好きなんだよね。頑張ろうとしてる人も、応援したげたい。勿論、日和子がバレーボールよりも好きなものを見つけるのだとしたら、それはそれでも良いと思うけど」 日和子はトクントクンと脈打つ心臓の音と、彼女の声だけを聞いていた。 抜群のセンスを持っているから要らないなんて簡単に言える? 違う。そうじゃない。 この人は……自分が本当に持ちたかった才能を、どうしても持つことが出来ずに、もがいている人だ。 ……身長と、緊張しぃの自分を理由に逃げている自分と一緒。 ううん、それも違う。 自分は逃げている。だから、彼女と一緒なんて言うのはおこがましい。 だって、彼女はそんな自分自身としっかり向き合っている。 自分は……向き合ったろうか? 怯えて、せっかくのチャンスをことごとく無駄にして。 当たり前のように与えられる、ベンチの一番端っこの席に座って、唇を噛み締めながら、試合を見つめていた。 でも、ずっとずっと……自分は、自身に言い聞かせた。 仕方ない。 仕方ないんだよ。小さいし、本番に弱いし、仕方ないんだよ。と。 言い訳ばかり上手くなって。 折れてしまった心の柱の直し方も知ろうとせずに、自分は……1人、悲劇のヒロインになっていただけ……。 「日和子?」 日和子の目から涙がこぼれた。 あまりに自然に落ちたので、慌てて、日和子は涙を拭う。 「ご、ごめんなさい」 「ううん。……怖いよね?」 舞は柔らかい声でそう言うと、静かに立ち上がって、こちら側まで歩いてくると、そっと日和子の涙を拭った。 「先の見えない道を歩くのは、怖いよね。日和子、いいこと教えてあげる」 「いいこと?」 「出来る自分を想像して。深呼吸。そうすれば、自ずと先が見えてくる」 「…………」 「人間は、なろうとする人間になれる、らしいよ。イマジネーション豊かに、自分の理想の姿を想像できる人ほど、上手に生きられるのかもしれないね」 「思い込みが激しい、とも、言えますけどね」 「そうそう。その意気よ」 舞は爽やかに笑うと、なでなでと日和子の頭を撫でてきた。 日和子はすぐにその手を払う。 「あ」 「すみません、頭撫でられるの、好きじゃないです」 「ごめんごめん。つい……」 舞は行き場の無くなった手をヒラヒラと動かしながら、申し訳なさそうに笑った。 その時、部室の扉が開いて、勇兵が顔を見せた。 「シャドー、丹羽ちゃん来てる?」 「ツカ、どうしたの? 部活は?」 突然の登場に、舞が驚いたようにそう返したが、勇兵は視線のかち合った日和子に真っ直ぐ視線を寄越して、スタスタと部室の中へと入ってきた。 日和子の前まで歩いてきて、床に膝をつく。 膝立ちの状態でも、椅子に座っている日和子よりも視線の位置が高い。 勇兵は胸の前でパンと手を合わせて、グッと頭を下げてきた。 「丹羽ちゃん、俺、無神経だったと思うけど! 女バレ入ればいいのにって言ったのは、心からの言葉なんだ! 別の部活なんて見て回らないで、女バレの見学おいでよ!」 「あ、あああ、頭なんて下げないでください。私のほうが失礼でしたから。片付けも手伝わずに……」 「そんなのはどうでもいいんだって! お願い! 女バレ入って!」 「ツカ……ずいぶん、この子にご執心みたいねー」 「へ? あ、い、いや、そういうのじゃなくてだな。もし、男子だったら、うちの部に欲しいくらい、トスが上手いから……」 舞の茶化しに慌てたように勇兵が表情をわたわたと動かした。 その様子を見て、なんとなく、日和子は2人を交互に見て納得する。 自分は観察眼だけは無駄に長けていて、ちょっとしたやり取りで、すぐにその人たちの関係性を読み取ってしまうことがよくある。 日和子は目を細めて、納得したように頷き、そして、にっこりと笑った。 「今、車道先輩にも好きなことやったほうがいいって諭されていたところです」 「へ? そうなの?」 「……明日、入部届持って、体育館に行きます」 「え、それは……」 「勿論、女バレのです」 「マジで?! やった! これで、女バレも県大会が見えてきた!」 勇兵が嬉しさの余り勢いで、ガバリと日和子のことを抱き締める。 想像もしていなかった彼の行動に、日和子はカチコンと固まった。 「目標レベルが低いわねぇ」 「何言ってんだ。心はいつでも、全国だぞ!」 「だったら、全国が見えてきたって言えばいいじゃない」 「や、だって、丹羽ちゃん、真面目そうだから、そんなプレッシャーみたいなこと言えないじゃんよ」 「ふっ……ふふ……もう。やだなぁ、塚原先輩……」 勇兵と舞が不思議そうに日和子を見た。 日和子はこみ上げてくる笑いに肩を震わせながら、目の前にある勇兵の目を上目遣いで見つめる。 「プレッシャーの前に、セクハラですよ、これ」 その言葉に、勇兵の顔がぼっと赤くなった。 「ぉわったぁっ! わ、わりぃ、思わず!」 素早く、体を引く勇兵。 そこにあった温もりが、すぐに消えた。 少しだけ、寂しい気持ちがふわふわと浮かんだが、すぐにパチンと弾けて消える。 「やらしーんだ、ツカ」 「ち、違ッ! 違う。そんなつもりじゃなくて!」 「……わかってます。気に掛けてくださって……ありがとうございました」 「や、別にそんなのは。好きなことやって欲しいなって、思ってただけだし」 「……だから、ありがとうございます、なんです」 こんな自分を気に掛ける必要なんて、本当はどこにもなかったはずなのに。 勇兵も舞も、わざわざ気に掛けてくれたのだ。 その気持ちに対して、ありがとう、なんて言葉だけでは足らないかもしれないけれど、日和子は心の底から、その言葉を口にして、頭を下げることしか出来なかった。 自分の存在を、ここまで暖かく肯定してくれる存在は……今までいなかった。 だから、心が暖かくなる。 勇兵を見つめて、日和子は穏やかに目を細めた。 「あ、ねぇねぇ、丹羽ちゃん」 「はい?」 「あだ名ね」 「? はい」 「コケッコーなんて、どうかな?」 「…………」 「ちょっと長いか?」 ……どうしていつも、鳴き声なの……?! 日和子は心の中でそう叫んだ後、指摘すべき点はそこではないことに気が付いて、すぐに気を取り直した。 「そういうのはやめてください!」 「ッ……」 日和子のはっきりとした声に、勇兵がビクリと肩を震わせる。 この人、好意のつもりなのだろうけど……、どうして、自分の逆鱗に触れることばかり……。 そう思いながら、日和子はプイッと勇兵から顔を背けて立ち上がり、「失礼します」という言葉と共に、スタスタと部室を出た。 不思議そうな顔をしていた。 怒った後なのに、彼の表情を思い出したら、思わず、日和子の口元が僅かに緩んだ。 |