◆◆ 第6篇 空音・桜咲くにはまだ早く ◆◆

Chapter9.車道 舞



 中学生活最後の大会にして、最後の試合。
 その試合は悲しいことに負け試合だったのだけれど、今でも忘れられず、舞の心の中にあった。

 県選抜候補に選ばれた人間が1人いるくらいでは、チームの総合力なんてものはそんなに上がるものじゃない。
 しかも、チームの要である司令塔を欠いた状態では、尚のこと。
『県大会までには、その怪我、治るじゃん。……だからね。泣かないで? みんなで行こう? 県大会』
 昨日言った言葉を、試合中……もう既に悔やんでいた。
 負けたくない。
 負けたくない。
 負けたくない。
 こんなに勝負に執着したのは、舞にとって、初めてのことだった。
 気持ちとは反比例して開いていく点差。
 シュートが1本決まるごとに、『駄目だ……』という言葉が大きくなっていく。
 心の中に広がっていく、諦めの言葉。
『試合はまだ終わってないよ! 諦めないで!』
 そんな中、必死に声を張り上げていた彼女。
 小柄な体に似つかわしくない太い松葉杖をつきながら、彼女は試合中、ずっと立ったままで、誰よりも通る声で応援してくれていた。
 ……誰よりも悔しいのは、彼女……。
 そう。
 誰よりも練習熱心だった彼女は、この最後の試合に、出ることさえ出来ない。
 当然のように与えられた4番のユニフォーム。
 それを身に纏っていても、バッシュも履けない彼女は、コートにも立てないのだ。
 ねぇ、神様。
 本当にいるのだとしたら、あなたはとても意地悪だ。
 清香に難癖をつけた上級生を嫌って、練習をよくサボった自分はコートに立ってボールを追っていて……。
 誰よりも頑張っていた彼女が、練習試合の怪我なんかで、最後の試合に出ることも出来ないなんて。
 みんなは自分のことを何でも出来る人だと言うけれど、何でも出来るから何だと言うのだ?
 何でも出来る代償として、誰よりも優れたものがない。
 熱い想いもない。
 自分には、みんなが羨むような光なんて一切ない。
 ……それでも、彼女のために、光を見せてあげたかった……。
 それが、最後の最後、部活でだけ繋がっていた彼女に対して出来る唯一のことだと思っていた。
 必死にボールに喰らいつき、我武者羅にシュートを決める。
 点差が徐々に縮んでいく。けれど、時間が足りなかった。
 相手のシュートを防いで、速攻を仕掛けようとしたその瞬間、ブザーが鳴る。
 その試合で、初めて、舞は悔しさで泣いた。
 泣き崩れる舞を見て、彼女も泣いた。
 泣いて泣いて、ひとしきり泣いた後、恨み言も何もなしに、彼女は笑った。
『ありがとう。良い試合だったね』
と。



「そっかぁ。それで、その子はバレー部に入ったんだね?」
 ほわんとした声で、柚子はそう言って、自分のことのように嬉しそうに笑った。
 絵筆を持ち、カンバスに向かう柚子を隣で眺めながら、「ええ」とだけ返す。
 舞と柚子の他には誰もいない美術室。
 ほんやりオレンジ色の光に包まれる教室。
 その中で、柚子は記憶を頼りに、以前住んでいた家の近所の桜並木を描き出していた。
 いつもは写生ばかりしている彼女にしては、それはとても珍しいことだった。
「珍しいね」
「え?」
「柚子が記憶を頼りに風景を描いてるの」
「…………。そうかも、しれないね。わたし、中学の頃の記憶は、ずいぶん曖昧なんだけど……この風景だけは大好きで、だから、舞ちゃんやしゅ……うごくんに、見せたくなったの」
「そっか」
「うん……。桜が咲くにはまだこっちは早いけれど、あっちでは、きっと今が咲き頃だろうから、そんな気分」
 柚子は薄いピンク色を筆に乗せ、柚子は楽しそうに塗っていく。
「この色、わたし、好き」
 やんわりとした彼女の声は、とても耳に優しい。
 なので、舞は穏やかに微笑んで、彼女の横顔を見つめた。
「舞ちゃんの色だから」
「……あたしが、ピンク?」
「うん。優しくて繊細で、とっても綺麗」
 柚子は全く臆さずにそう言う。
 さすがにそんなことを言われたら、恥ずかしくて何も返せない。
「舞ちゃんは理性的なブルーの中に、柔らかいピンクを隠してる。そこが好きよ」
「はは……何? 誉め殺しか何か?」
「ううん。ただ、疲れたら、わたしのところに来てくれればいいよって、言いたいだけ」
 柚子の表情はとても優しかった。
 ……ああ、見透かされてるのか……。
 舞は目を細めて、コテンと柚子の肩に頭を乗せる。
「疲れた」
「そっか」
「うん」
 日和子を見て、思い出した人がいた。
 彼女を気に掛けたのは、そのせい。
 体格に恵まれず、でも、バスケが大好きで練習熱心だった、中学時代のチームメイト。
 チームの司令塔だったのに、最後の大会を目の前に、練習試合で無茶をして、怪我をしてしまった。
 あの時、もしも、自分が率先してボールに飛び込んでいたら、彼女は怪我をすることなんてなかったのに。
 彼女は一切そんなことを口にはしなかったけれど、時々思い出して苦しくなるのだ。
 そんな苦い思い出の中のひとかけらを、日和子のために、取り出した。
 だから、少しだけ、彼女にもたれかかりたくて、ここに来た。
「柚子は……お日様の色ね」
「ふふ……しゅうごくんと同じこと言ってる」
 舞の前でだけ、言い慣れないように、恥ずかしそうにその名を呼ぶ柚子。
「放課後の教室に射しこむ、こんな風に優しい夕暮れの色」
「……な、なんだか、照れますね」
「……まずいなー。二ノ宮修吾病が伝染したかな」
「あはは」
 柚子はおかしそうに笑って、その後に、そっと目を細めた。
「夕暮れの色か……それだったら、ピンクを間に挟んで青を塗れば、とっても綺麗な空が描けるよ。なんだか、わたしたちみたいだね」
「柚子、さすがにそれは恥ずかしすぎるって」
「え? 何が?」
「ホント、柚子は天然だなぁ……」
 舞は髪を掻き上げて、ふぅと息を吐き、絵の具の箱に手を伸ばす。
「色んな色があるんだねぇ」
「穏やかで純粋な緑色は、塚原くん」
「え?」
「上品だけれど、ちょっと派手めな紫色は、清香ちゃん」
「…………」
「美術の教科書で、色相環図ってあったの覚えている?」
「ええ」
「それに重ねると、面白いんだよ」
「何が?」
「ピンクの舞ちゃんを、赤と考えると、隣り合う色は紫とオレンジ」
「…………」
「紫の隣には、青がいて……青の隣には、緑が来る。あとは、黄色がいれば……完全な環っかになるんだけど」
「へぇ……」
 つまり、こういうイメージでいいのだろうか。
 柚子と手を繋いでいるのは舞で、舞の逆の手と手を繋いでいるのは清香。
 清香の逆の手を修吾が握って、修吾の脇には勇兵。
 黄色がいないから、そこは空白になるけれど……柚子と修吾は向き合っている。
「青とオレンジは、補色関係だっけ?」
「そう。反対色。だから、夕暮れの空はあんなに綺麗なんだよ」
 青は誰、と直接的に言うのを避けているのは、彼女なりの照れだろうか。
 舞は睫を伏せ、少し考えてから、グリグリと柚子の脇腹を肘でつついた。
「きゃっ。舞ちゃん、今、わたし、絵を描いてるので、それはちょっと……」
「お前ら、さっさと付き合っちゃえよぉ」
「えぇぇぇ? 意味わかんないよぉ、どこからその言葉が……あははは、こちょぐったいよぉ」
 柚子は遂に観念したように、筆をバケツに突っ込んだ。
 舞はこちょこちょとくすぐりながら、耳元で静かに言う。
「……柚子から言って」
「…………」
「見ててもどかしい」
「……わたしは、今がいちばん楽しいよ? それでも、今のままがいいって言うのは、いけないこと?」
 舞は目を細め、優しく柚子を抱き締める。
 清香にも言われた。当人同士の問題だと。
 自分だって、そんなことはよく分かっている。
 それなのに、どうして、こんなにけしかけてしまうのだろう。
 なんとなく。本当になんとなくなのだ。
 起こりえないことなのだけれど、それをしないと、柚子がどこかに消えてしまうんじゃないかと……そんな不安が、時々胸を過ぎる。
 そんなことを言ったところで、みんな笑うだろうから、舞は決してそれを口にはしないけれど。
 舞は日和子に言った言葉をポツリと言った。
「高校生活は、一度しか、ないんだぞ」
「舞ちゃん……」
「いつでも手に入るものなんて、ないんだぞ……」
 柚子の心臓の音が聞こえる。
 とくんとくんと、ゆっくり。心地いい音を奏でている。
 柚子は何も言わずに、舞の背中に手を回すと、優しくなだめるようにポンポンと撫でてくれた。
 自分は何に怯えているんだろう。
「おかしな舞ちゃん」
「本当ね」
「きっと言うから」
「…………」
「だから、もう少し、待って? ね?」
「ええ」
 耳元で聞こえる柚子の声は、とても優しくて。けれど、すぐにでも消えてしまいそうなほど、儚い響きをしていた。



「……ああ。あの子、そっかぁ……佐々岡さんに似てるんだぁ」
 清香は舞の手を引きながら、穏やかにそう言った。
「似てるってほどじゃないと思うけど」
「うん。でも、誰かに似てるなぁって思ってて……。今思い出した」
 清香は横髪を耳に掛け、ゆっくりと舞を見た。
「バスケ部といえば、佐々岡さん、だったよねぇ」
「はは……。うるさかったからねぇ、あの子」
「うん。明るい人だった」
 舞の表情が浮かないのを気にしてか、清香は考えるように黙り込み、少ししてから口を開いた。
「どうか、した?」
「ん……別に」
「そう」
 またまた黙る清香。
 舞はぼんやりと手を引かれるままに歩くだけ。
「佐々岡さん、高校でもバスケやってるらしいねぇ」
「え?」
「半年くらい前だけど、他の高校行った友達から、そういう話聞いたよ」
「……そっか……」
「うん」
「そうなんだ……」
 舞が優しく目を細めると、清香もおっとりと笑った。
 中学生活最後の試合には出られなくても、たった一度きりの高校生活を、彼女が全力で送ってくれているのであれば、それだけでいいように思う。
 一度きり……か。
 価値にも気がつけないほど、何気なく過ぎていく日々に、心は簡単に流されてしまうけれど。
 その重さを知っているからこそ、やりたいことはたくさんあって。
 その分、気持ちは急いてしまう。
 舞はまだ青い空を見上げて、息を吐いた。

 赤と紫は隣り合っていて……。
 柚子の話を思い返して目を細める。
 隣り合う色。
 赤に青を足せば、紫になる。
 柚子は、舞のことを理性的なブルーの中に隠れたピンク色と表した。
 清香は、自分の青と赤の部分が……綺麗に混ざり合った人なのだ。
 そう思うと、どうして彼女に惹かれるのか……、それが分かったような気がした。

 柚子とは違う心地よさ。
 柚子とは違う居心地の悪さ。
 それら全て、今の自分には愛おしい。
 自分の中には、熱い想いなんてなかったのだ。
 彼女を想う心をしっかりと自覚した、あの時まで。

「あ」
 清香がぽつりと声を漏らして、繋いでいた手を離し、桜の樹を指差した。
「あの樹、蕾がついてる」
「……ホントだ」
「もうすぐ、咲くんだ……今年は、いつもより早いかもね」
 彼女が嬉しそうに笑ってそう言い、舞はそこでようやく彼女に対して笑顔を向けた。
 春の訪れを喜ぶ彼女の隣り。
 そこが、車道舞の定位置。
 小さく、心の中で呟いて、呟いた後、1人で照れた。



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