◆◆ 第7篇 夜色・空気のように溶ける笑顔 ◆◆
Chapter1.二ノ宮 修吾
「ニノ、何になった?」 ホームルームが終わって、教科書を鞄に入れて帰る準備をしていたら、舞が楽しげに話しかけてきた。 今日は随分ご機嫌な様子。 明日から中間テストだなんて、全く感じさせない笑顔だ。 「球技大会?」 「そそ」 「サッカー」 「あれ? 去年もじゃなかった?」 「ん。一番得意だし、一番楽だから」 「楽? グラウンド駆け回るようじゃん」 「広いから、自分のところに来る確率が低いだろ」 「…………。アンタって……」 修吾の冷めた返しに、舞は苦笑を漏らす。 そんな二人の間に、スポーツバッグを肩から提げて、勇兵が割り込んできた。 「修ちゃん、頑張ろうぜぇ」 「ああ。勇兵、頑張って」 「ハハッ! うん、俺頑張るよ♪」 「ニノってホント、スポーツやる気ないわよねぇ」 「いいじゃん、別に。修ちゃんがこれでスポーツまで出来ちまったら、俺困るし」 「……まぁ、このひょろっとした体で、運動できても気持ち悪いか」 「……うるさいなぁ……。シャドーは何になったのさ?」 「あたし? バスケ」 「シャドー、得意だもんな♪」 「……っていうか、去年のこと、みんな覚えてたみたいで、強制的に……」 「ああ。でも、いいじゃん。やるからには本気でやれよな。去年みたいに手ぇ抜かないで」 「え? 去年、手抜きだったの?」 勇兵の言葉に、修吾は驚いて舞を見た。 舞が気まずそうに髪の毛を指でいじる。 去年の球技大会。 サッカーの試合が終わって退屈していたら、女子がバスケで決勝まで残ったと聞いて、覗きに行った。 たった1人、明らかにレベルの違う女子がいて、それが舞だったのだ。 「あの頃、そんなんどーでもよかったんだから仕方ないじゃん。今年は本気でやるわよ」 「珍しい。シャドーがやる気だ」 「だって、くーちゃんが手抜いたら、私が怒るもの」 ニコニコ笑顔で、帰る準備を整えた清香が柚子を引き連れてやってきた。 柚子は少々憂鬱そうにため息を吐いたが、修吾と目が合って、すぐにいつものほんわかした笑顔を返してくれた。 「あー、遠野か。にゃるほど」 勇兵が納得したように頷く。 修吾はその言葉の意味がよくわからず、首を傾げた。 「柚子ちゃん、ドッヂボール頑張ろうねぇ」 「……うん。たぶん、見学するけど」 「え」 「突き指しちゃうと、絵が描けなくなるから」 「ふふっ。清香、ボールの避け方教えてあげようか?」 真面目な顔でそう言う柚子を見て、清香が驚いて目を丸くすると、舞が慣れた調子でそう言った。 「うん。テスト終わったらね……」 「あー、あたしもドッヂボールやりたかったなぁ」 「私はやりたくないです」 「遠野、背高い上にとろくさいからいい的かもな」 勇兵がからかうようにそう言って笑う。 そう言われた清香が面白くなさそうに目を細める。 「もう。なんで、勇くんまでそういうこと言うかなぁ」 「だって、最近の遠野、からかい甲斐あんだもん」 「…………」 「あ、怒った」 「ハハッ!」 その場にいた全員が清香の表情を見て、おかしそうに笑う。 柚子がぼんやりと、先週から欠席している秋行の席を見て、修吾に話しかけてきた。 「そういえば、南雲くんはどの種目になったの?」 「一応、サッカー。けど、たぶん、見学」 「そっか」 「南雲くん、心臓が弱いらしくて。激しい運動は駄目なんだって」 「……そう」 「明日からのテストは絶対出るって言ってたけど……」 「テスト明けたら、またみんなで寄り道したいね」 「お。それいいねぇ、渡井♪ 俺賛成〜」 2人のやり取りが聞こえていたのか、勇兵がすぐに割り込んでくる。 勇兵を一瞥してから、修吾は周囲を気にするように小さな声で尋ねた。 「そ、そういえば、テスト勉強はどうするの?」 「あ、今日……」 「あ、君たち、ちょうどいいところにいてくれましたね」 柚子が修吾の問いに答えようと口を開いたその時、クラス担任の志倉先生が教室に入ってきた。 まだ20代後半と若く、人当たりも優しいので、学年担任の教師の中では生徒ウケが一番いい先生だ。 おまけに背も高く、優面の美形ときているから、女子の評判はとりわけいいらしい。 「志倉先生、どうしたの?」 舞が早速そう尋ねると、志倉先生は持っていたプリントの束を掲げて笑った。 「南雲くんのお家にプリントを届けてくれる人募集です」 「え」 「今週、テストの準備でバタバタしていて、先生は届けに行けなかったので。是非、お願いします」 ニッコリ笑う志倉先生。 勇兵が朗らかに笑って、手を挙げた。 「俺、自転車だから持ってきますよ」 「いい返事ですねぇ。あ、でも、そんなに遠くないので、どうせだし、みんなで訪ねてあげてくれませんか? 南雲くん、喜ぶと思いますよ」 「南雲くん、明日から来られるんじゃないんですか?」 「あー、はい。テスト期間は来るという話ですけど……。そういうのではなく、友達が遊びに来てくれたら、嬉しいものじゃないですか?」 志倉先生は優しい声でそう言って、返事を待つように5人の顔を見回す。 修吾は秋行の席を見つめて、目を細める。 彼が来た時とそうでない時。 それだけで、修吾の席の前の賑やかしさが著しく変わる。 特に、彼が来ていない時の、彼なんていないかのような扱われ方には、時々胸が痛むような心地さえする。 勿論、秋行と仲良くしている彼らなりに心配はしているのかもしれないけれど、修吾は彼らと仲が良いわけでもないので、それを確認することも出来ない。 「二ノ宮くんには特に行ってあげて欲しいんですけどねー」 「え? お、オレですか?」 「はい」 「なんで、オレですか?」 「んー……教師としての勘といいますか」 「……はぁ」 そう言われて返事に困っていると、勇兵が大きな声で言った。 「いいじゃん。みんなで行こうぜ! アキちゃん、しばらく休んでたし。顔見たいじゃん」 「私は全然構わないけど」 「わたしも」 「2人がいいなら、あたしはどっちでも」 そこまで言って、修吾に視線が集まる。 しまった。完全に出遅れた。 「う、うん。オレも、いいよ。友達に会うのに、理由は、要らないと思うし」 「別に、それ言わなくても分かってるから」 修吾の言葉に、舞はおかしそうに笑って、みんなを代表して、志倉先生からプリントの束を受け取った。 秋行の家は、それなりに大きかった。 敷地内に書道教室用の離れがあり、母屋も平屋で横に広い。 少し古めかしい格式ばった雰囲気の家に、少々気圧されながらも、中へ入っていく。 玄関に着いて、勇兵が物怖じすることなく、呼び鈴を押した。 こういう時、勇兵みたいなタイプは本当に頼りになる。 「はーい」 少し年配の女性の声。 秋行の母親だろうか。 カラカラと玄関の戸が開いて、着物に割烹着姿のご婦人が顔を見せる。 「こんにちは!」 勇兵が朗らかに挨拶をして、4人もその後に続けて、挨拶をした。 「もしかして、秋行さんのお友達?」 「はい。プリントを届けに」 「ああ、そうですか。ありがとう。秋行さん、秋行さん! お友達ですよ!!」 舞がプリントを手渡すと、ご婦人は嬉しそうに笑みを浮かべて、すぐに家の中へ呼びかけた。 「お母様は方言じゃないんだね」 柚子がポソッと修吾の隣で言って、少し楽しげに笑う。 少しして、ギシギシと床の軋む音とともに、着物姿の秋行がひょっこり顔を見せた。 「あれ〜? 塚原くんに、二ノ宮くんに、車道さんに、遠野さんに、渡井さん? なしたの?」 休みがちでも、しっかりクラスの子のことを記憶している秋行らしく、呼びかけ順は、出席番号順だった。 「プリントを持って来てくだすったのよ。はい」 「おぉ! ありがとぉ♪」 「秋行さん、お部屋にお通ししたら? お母さん、お茶を持っていきますから」 「あー、うん」 「あ、ジュースのほうがいいかしらね?」 「そのへんはお構いなく」 勇兵が不似合いな口調でそう言うので、その場にいた全員がおかしそうに笑った。 「塚原くん、相変わらずだぁ。どぞ。上がらい上がらい。母さん、お茶っこでいいよ。今日冷えるし」 秋行は無邪気な笑顔でそう言うと、家の奥へ入っていく。 なので、全員、靴を脱いで、家の中に上がった。 清香と修吾が全員の靴をきっちり並べ直してから、ついていく。 「シュウちゃん、相変わらず几帳面だねぇ」 「さっちゃんに言われたくないよ」 クスクス笑う清香を見て、修吾はすぐにそう返す。 子供の頃、こんな口を聞いたら、すかさず反撃が来たものだったが、今やそんなことが起こることもない。 学年のアイドル、だなんだと言われてしまう立ち位置がそうさせるのか、彼女は至って謙虚だ。 勝気な頃を知っている修吾からすると、そのへんに少々物寂しさがある。 勿論、本人には言うこともないことだが。 「さっきまで寝でだがら、布団っこ敷いだまんまだけど、入らい」 笑顔でそう言い、部屋に入ってドガッと胡坐をかく秋行。 着物の裾を若干調節してから、手近にあった座布団を適当に並べる。 布団が敷かれているにも関わらず、6人入っても問題ないほど、秋行の部屋は広かった。 勇兵が秋行の隣の座布団に腰を下ろして、部屋を見回す。 「アキちゃん、部屋広いなぁ」 「広いだけの旧家だがら、そんな自慢にもならねんだ」 勇兵の隣に舞、その隣に清香、柚子。で、修吾は秋行の隣に腰を下ろした。 秋行は顔色が悪い訳でもなく、学校にいる時ほどのテンションはないけれど、いつも通りの秋行のように見えた。 「中間テスト、来られそう?」 「ん? あ、明日から! うん。だいじょうぶ。そのために、ボク、たくさん休んだがら」 「そうなの?」 「行事ごとだけは、みんなどおんなじリズムで関わりだいがら」 秋行は柔らかい笑顔でそう言って、頬を赤らめた。 「ほんとは、ちゃんと毎日通えればいいけど、そゆわけにもいがねがら」 「……うん」 「でも、嬉しいなー」 「え?」 「二ノ宮くんが来てくれるなんて、思ってもみねがったがら、すごい嬉しい」 「お、オレ?」 「んだぁ」 「友達に会うのに、理由は要らないと思う」 「え?」 「って、コイツ、勿体つけて、そんなこと言うんだもん。ああ、痒い痒い」 「シャドー!」 言わなくていいことを言うんだから。 どこに行っても、修吾を玩具にすることは忘れないつもりらしい。 けれど、予想に反して、秋行は笑いもしなかった。 「二ノ宮くんはいつでも真面目だがら」 「南雲くん」 「そういう嘘のないところが、ボクは好きなんだ。思ってでも言えないごどって、山ほどあっけど、二ノ宮くんは、それを言えでしまう人だがら、すごいと思うんだ。それが苦手な人であっでも、好きな人であっでも、満遍なぐ、変わりなぐ、ね」 秋行がそこまで言ったところで、秋行の母親が中へと入ってきた。 会話が切れるタイミングを計ってくれたのだろう。 そのくらい、ちょうどいい間だった。 「はい、お茶ですよー。新潟から送られてきたお煎餅があったから、お茶請けにどうぞ」 「あ、ありがとぉ、母さん」 「皆さん、ゆっくりしていってくださいね」 「はい」 丁寧に会釈をして、部屋を出て行く秋行の母親。 秋行はお盆から茶碗を取って、丁寧にみんなの前に置き、お茶請けの乗った皿を真ん中に置いた。 「二ノ宮くん、ボク、テスト範囲でわがんねどごあんだけど、教えでくんねがな?」 「ああ、いいよ。どこ?」 「ぇっとねぇ」 秋行はゆっくりと立ち上がって、勉強机から教科書とノートを取って、戻ってきた。 勇兵がお茶をすすり、すぐに煎餅に手を伸ばす。 舞が少し考えるように天井を見上げていたが、思い立ったように口を開いた。 「ねぇ、南雲くん。ここで、勉強していっていい?」 「え?」 「あたしら3人でやる予定だったんだけど、ニノも捕まえられてちょうどいいし」 「ああ、それは全然構わないよ。むしろ、大歓迎」 「えーーー……。遊びに来たのに、勉強すんのかよ」 「ツカ、明日からテストなんだから少しは頑張りなさい」 「いいんだよ、中間の結果は部活に響かないんだから」 そこが基準なのか、この男は。 秋行がパラパラと教科書のページを捲り、疑問のある箇所を指差した。 教科書にはビッシリと書き込みがしてあり、その中で、1枚だけポストイットが貼られており、?マークが付いていた。 「……すごいね、これ」 「そうかな? 分かったことは書いておくことにしてんだよね。誰かに訊かれた時、パッと答えられるように」 「へぇ」 「でも、休みがちだがらか、みんな、ボクには訊いてこねんだけどね」 秋行は寂しそうにそう言った後、すぐに笑顔で誤魔化す。 「南雲くんは人当たりいいから、勉強できるって知られたら、更に大忙しになっちゃうね」 「…………。そうがなぁ……」 「そうだよ。あ、で、ここだけど……」 「え、あ、うん」 「ここがこうなるから……」 修吾は秋行が持ってきたノートにペンで書き殴り、指差して説明をする。 秋行は真面目に頷いて聞いていて、分かった瞬間、貼ってあったポストイットに、修吾の説明を書き込んだようだった。 「二ノ宮くんの説明、やっぱりわかりやすいなぁ」 「役に立ててよかったよ」 「……二ノ宮くんはもっと欲張ったっていいど思うんだけどなぁ」 「え?」 「ううん、なんでも」 秋行は修吾が書き込んだメモを嬉しそうに眺めて、自身に理解させるように反芻し始めた。 「ニノ、柚子にここ教えてあげてよ」 「あ、うん」 南雲家で臨時開催となった勉強会は、ほとんど修吾が教えるスタイルで2時間ほど続いた。 帰る時間になって、秋行が玄関先まで見送りに出てくれた。 「来てけでありがとぉ」 「ううん。明日ね」 柚子が笑顔でそう言い、その後、勇兵が思い出したようにポンと手を叩いた。 「アキちゃん、球技大会、サッカーになったから」 「え?」 困ったように秋行が目を細める。 「出れねーなら見学でもいいし、突っ立ってるだけでもいいから出てもいいし。そのへんはアキちゃんに任すよ」 「う、うん。ほんだね……考えとくよ」 「何言ってるの。秋行さんは見学でしょう」 台所で夕飯の準備をしていた秋行の母親が、割烹着で手を拭きながら出てきてそう言った。 語気の強い口調。 先程までの優しい様子とは全く違った。 秋行がその言葉に何も言えないように下を向く。 勇兵が秋行を気に掛けるように見て、おずおずと言い返す。 「でも……動かないなら大丈夫じゃ?」 「駄目ですよ、運動なんて……。秋行さんがただ立ってるだけなんて出来るわけないんですから」 「か、母さん、いいよ。わがってるがら……」 恥ずかしそうに秋行は表情を歪め、母親に引っ込むように促す。 が、なかなか台所に戻ってくれないので、秋行は困ったような笑顔をみんなに向けた。 「秋行」 「はい!」 居間から厳格そうなお爺さんの声がして、秋行はすぐに返事をした。 秋行の母親も、その声で我に返ったように表情が穏やかになった。 「夕飯まで、将棋の相手をしなさい」 「ん。わがった! ごめん、みんな。ホント、来てけでありがとぉな」 「じゃ、また明日」 「明日頑張ろうね」 それぞれ、思い思いに声を掛けて、玄関を出る。 「はぁ……楽しかった!」 伸びをしながら勇兵がそんなことを言う。 結局、彼は勉強会中、一度も教科書を開かず、秋行の部屋にあった漫画を読んでいただけだった。 「南雲くん、元気そうでよかったね」 「本当だねぇ。1週間も休んでたから、心配だったけど」 「でも、やっぱり、いつもよりテンション低かった気がするよ」 「そう? 清香、よく気が付くねぇ」 「気が付くっていうか、いつもよりはセーブしてる感じがしたから」 清香が穏やかな声でそう言い、心配そうに振り返った。 勇兵が頭の後ろで腕を組んで、うーんと唸る。 「しっかし、アキちゃん、出来れば、サッカー出させてやりたいんだけどなぁ……駄目なのかなぁ」 「立ってるだけでも駄目、みたいな言い方だったね、お母さんは」 「1人息子で、体が弱いんじゃ、余計心配なんじゃないの? しょうがないんじゃない?」 「うぅん……あそこで言ったの不味かったかなぁ……」 舞の言葉に、勇兵は小さく舌打ちをしてそう言った。 修吾はゆっくりと振り返って、秋行の家を見上げる。 ちょうど将棋盤を持って、縁側を歩いていく秋行と目が合って、修吾は呼吸を止めた。 秋行はいつも通りの明るい笑顔でこちらを見たが、誰かに呼ばれたのか、少し早足で縁側を歩いていってしまった。 |