◆◆ 第7篇 夜色・空気のように溶ける笑顔 ◆◆

Chapter5.渡井 柚子



 放課後、グラウンドでスケッチをしていると、クラスの男子たちがサッカーの練習をするために、揃って出てきた。
 柚子はスケッチ集中モードになっていたので、その様子をただ静かに眺めるだけ。
 修吾がこちらに気付いて視線を寄越したけれど、集中しているのが分かったのか、何も言わずに通り過ぎようとした。
 けれど、修吾の隣を歩いていた秋行がにゃっぱりと朗らかに笑って、修吾の腕を掴み、柚子の近くまで歩いてきた。
「渡井さん、今日はここでスケッチ?」
「な、南雲くん。今、渡井……」
「え?」
「集中してるから、話し掛けないほうが……」
 修吾が気まずそうにそう言って、柚子を見下ろす。
 柚子は鉛筆をスケッチブックの上に置き、ひとつ息を吐いてから、彼の懸念を振り払うように、ニコリと笑ってみせた。
「これから、練習?」
「……あ、ああ。そうだよ」
「ボク、見学だがら、こごで見でようがな。渡井さん、いぃ?」
「あ、うん。どうぞ?」
「やた♪ じゃ、二ノ宮くん、頑張って」
「…………。うん、行ってくる」
 秋行は柚子の隣に腰掛け、無邪気な笑顔で修吾に手を振った。
 修吾は何かを考えるように秋行を見下ろしていたが、柚子が不思議そうに見上げると、素っ気無くそれだけ言って踵を返した。
 柚子は修吾の背中を見つめる。
 やる気のない背中。
 それでも、やらなくてはいけない時、律儀に取り組む人だということを、柚子は知っていた。思わず、口元が緩む。
「みんな、楽しそうで、こっちもワクワクしてくるなぁ。ボク、球技大会前の雰囲気、大好きなんだ♪」
 隣で明るく笑う秋行。
「青春って、感じだもんね?」
「そう! いいよねぇ。この時ばかりは大して仲良ぐない人たちだって、一体になってる感じがするっていうかさぁ」
「…………。そうだね。そうかもしれない」
 柚子も秋行の言うとおり、この時期の雰囲気は好きだった。
 たとえ、自分はその輪の中から外れているとしても、その雰囲気を輪の外から見ているだけで、楽しい気持ちになる。
 疎外感を感じないと言ったら、それは嘘になるけれど、自分は望んでその輪の中に入らないのだ。だから、仕方ない。
 柚子にとって最も必要なものは、この手の中にある。
 それ以外は要らないし、それ以外には力を割いても無駄なのだということを自分で分かっているのだ。
 秋行の境遇は、そんな自分自身に少し近いような気がして、横目で彼を見た。
「南雲くん、は」
「ん?」
「球技大会、参加したい?」
「……んー。本音言うと」
 秋行はいつものデフォルト笑顔から真面目な表情になった。
 ふわりと風が吹いて、秋行の柔らかい髪を揺らす。
「出たいんだよね。んでも、無理だがら」
「それは、心臓が悪いから?」
 近いけれど、イコールではない。
 自分は『望んで』入らない。
 彼は『望んでも』入れない。
「……心臓の発作なんて、ボクはなんとも思わないけど」
「え?」
「今、こうやって過ぎでく時間のほうが、ボクの命なんかより断然価値のあるものだと思ってるがら」
「……だったら」
「塚原くんやクラスのみんなの気持ち、すっごい嬉しがっだぁ……。それ以上望んだら、きっとよぐねんだ」
「……南雲くん?」
「よぐねんだよ」
 少し寂しげな表情。
 柚子は秋行がなぜそこで線を引いてしまうのかがいまいち掴めず、心持ち首を傾げた。
 秋行は色んな人と仲良くしたいタイプのはずなのに、今聞いた話から考えると、1歩引いている感が否めない。
「同じ彩……?」
「へ?」
「あ……なんでもない」
「そ? ……あ、二ノ宮くん、リフティングしてる」
「え?」
 その言葉に、柚子もそちらに目を向けた。
 足の甲で器用にボールを蹴り上げて、その場でリフティングを続けている。
 秋行は先程までの静かな雰囲気などなかったかのように、再びデフォルト笑顔に戻った。
「二ノ宮くんってさぁ、運動神経悪くないよね? だのに、なして、あんなに嫌がるのがな?」
「……運動っていうより、勝負事が好きじゃないから、かなぁ。たぶん」
「ああ、なるほど」
 体育祭で騎馬戦に出ることになった時も憂鬱そうだった。
 優しい人だから、争い事が向かないのだ。たとえ、それがゲームだとしても。
 柚子は目を細めて、修吾を見つめる。
 それを秋行が静かな眼差しで見据えていた。
 修吾はしばらくの間、綺麗にリフティングしていたが、疲れたのかリズムが乱れて、テンテンテン……とボールが転がっていった。
 それを拾い上げて、他の人に渡す修吾。
 ボールを手放してから、こちらを気にするように視線を寄越した。
 会話なんて、何にも聞こえないし、あちらにも聞こえようはずがない。
 前髪を摘んで弄りながら、秋行は小さく呼吸をし、口を開く。
「渡井さんの『夜色の風景』って作品、文化祭の時に見ました」
 その声は、普段の柔らかいものとは違う、少しだけ鋭い響きがあった。
 アクセントも、いつものものと違い、標準語に近かった。
「大賞取るだげあって、ざわざわって鳥肌が立づような……そんなオーラがあってたまげだ」
 けれど、彼の独特のアクセントはすぐに元に戻った。
 不思議に思って、柚子は秋行に視線を向けた。
「この人は……”選ばれた手”を持ってるんだ、って、あの作品を見た時、感じたんだ」
 秋行の言葉に、柚子は身が震えた。
 中学時代の思い出が過ぎって、呼吸が速くなる。
 心の中で慌ててそれを振り払う。
「渡井さん……?」
「な、南雲くんの心に、『夜色の風景』がリンク出来たんだね。ありがとう」
「へ?」
「賞なんて、大したものじゃないよ。そ、相対評価だし、人の好みも関わるし。運が良かったら取れる。そんなものだって、わたしは思ってる」
「で、でも、確かにあれには……」
「あの絵から何かを感じ取ってくれた人が多かったの。きっとそう。だから、運が良かった、なんだよ。わたしはただ、ありがとうございますって言うだけ。そ、その人の心のアルバムの中に、わたしの絵とリンクできる何かがあったの。それだけ。凄いのはわたしじゃなくて、見てくれた人」
 取り繕っているつもりなんてないのに、取り繕っているような言葉が湧き出してくる。
「渡井さんは、謙虚だね」
 柚子の言葉に感心したように、秋行は笑った。
「そうかな?」
「ん。普通、ボクだったら、天狗になる。鼻高々」
「……あはは。わたしは、なれないよ」
 視線を泳がせながらも、柚子は笑う。
「え?」
「心に描いているイメージに、まだまだ近づけないから」
 それは、心からの言葉。
「…………。んなんだ?」
「うん」
「そっかぁ……んだったら、渡井さんの目には、どんだげ綺麗な世界が映っでるんだべ?」
「え?」
「だって、あの絵はすっごく綺麗だったよ。夜色、って単語が、綺麗にはまるくらいに素敵だった」
「……あ、あれは、二ノ宮くんが」
 秋行の言葉に、頬が熱くなる。
 あの時間帯の、あの空の、あの景色の色を、『夜色』と表したのは、修吾だった。
 その言葉が、柚子の心の琴線に綺麗に触れて、思わず、その単語をタイトルに使ってしまったのだ。
 まさか、賞を取るなんて思っていなかったから、文化祭の時、修吾の目に触れることも、想定なんて一切していなかった。
 けれど、彼はその言葉を自分が言ったことも、覚えてはいなかった。
 それだけが救いだった。
 自分にとって、昨年の夏の、修吾と2人で過ごした丘の上の時間は、とても大事なものだけれど、彼にとってはそうでなかったと感じた時、少しの悲しみもあったが、それと同時にほっとしたのだ。
「二ノ宮くん?」
「……あ、なんでも……ない……」
「そう。……渡井さんは、絵描きさんになるの?」
「……絵しか、ないから」
「ん?」
「わたし、これしか、取り柄、ないから……」
 柚子の真っ直ぐな声を受けて、秋行は真っ直ぐに柚子を見つめていた。
「たくさんの時間を費やして、色んなものを犠牲にして……生きていく覚悟があるんだね」
「……え?」
 いつもよりも低い声。
 また、アクセントが標準語に近くなった気がした。
 秋行はそれを誤魔化すように、にこちゃんと笑った。
「ボク、応援するよ」
「…………」
「……ボクには、出来ない生き方だがら」
「南雲くん?」
「ボクは、みんなが笑っていでくれだらそれでいんだ」
 寂しそうな笑顔だった。
 秋行は、いつも笑っている人で。
 まるで、呼吸をするかのように、それが普通だった。
 だからだろうか。
 彼はインパクトが強いようでいて、いつも存在が霞んでいるように感じるのは。
 彼の笑顔は、空気のように静かに漂って、教室内に溶けて消えてしまう。
 柚子は、そう感じることがあった。
 なんとなく、彼の心の底にある、悲しみの彩が似ている気がして、時折声を掛けてしまうのだ。
「南雲くん」
「なぁに?」
「……我慢、しなくてもいいんじゃないかな?」
 気が付いたら、そう言っていた。
 誰に遠慮しているのかなんて、全然分からない。でも、秋行は我慢している。
 参加したいならすればいいのに。
 ……それを、我慢している。
 柚子は真っ直ぐに秋行を見据えた。
「出ればいいと思う。みんな、待ってるんだもの」
「渡井さん……」
「わたしね、思うの」
「…………」
「人はそれぞれ、心からしたいと思うことをやり通していいんだって」
「けど……」
「出来ない生き方だって、南雲くんは言ったけど。出来るのに、しないだけじゃない?」
 柚子の言葉に、秋行の呼吸が止まった。
 いつもの笑顔はない。
 しばらく考えるように目を閉じ、秋行はそれから小さく鼻で笑った。
「……渡井さん、意外ときっついごど言うなぁ」
「え、あ……あ、ご、ごめんなさい。つい……」
「んーん。当だっでるがら、謝んなくていぃよ」
「あ、で、でも……」
 体のことがあるのだ。
 彼はそんなの苦ではないと言ったから、つい言ってしまったけれど。
「んだよね。大事な時間だって分かってるのに……ボクは……」
 秋行は、サッカーの練習をしている修吾たちにそっと視線を向け、考えるように目を細めた。
 柚子は何も言えずに秋行の横顔を見つめていた。



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