◆◆ 第7篇 夜色・空気のように溶ける笑顔 ◆◆
Chapter7.車道 舞
「清香ちゃんの帰り待ってるなら、今日はわたしのスケッチに付き合ってほしいな」 修吾たちを見送った後、柚子が柔らかい声でそう言った。 断る理由もなかったので、舞は静かに頷いて、現在、校庭の片隅で、真剣にスケッチしている柚子の横顔を見守っている。 「今回の被写体は何なの?」 「野球部」 「ふーん……」 「このくらい遠くなら、描けるから」 「……柚子って肖像画みたいなの、描かないもんね」 彼女が描くのは、いつも風景画。 人を被写体にしても、彼女の趣味からか、描くのはいつも手だけだ。 「怖いの」 「え?」 「わたしの目に映るその人と、その人なりのその人が、違ってしまった時が」 「…………」 「だから、描かないって、決めたの」 柚子が祖母に見せるために描いたラフ画のことを知らない舞は、そう言われて静かに柚子を見る。 「でもさ、柚子」 「 ? 」 「あなたの目に映るあたしと、あたしなりのあたしが違ったところで、あたしだったら、全然気にしないよ?」 「…………」 「青の中に淡い淡いピンクを隠してる〜、なんて恥ずかしいことを柚子に言われたって、全部、あたしにとっては心地いいものでしかないんだからさ」 柚子が手を止めて、舞のほうに視線を寄越す。 心許なさそうな眼差し。 彼女をここまで不安げにさせるトラウマは、一体何なのだろう。 「大体、内と外のイメージが違ったって、それはしょうがないじゃん。清香もよく気にしてるけどさー、そんなことでわざわざケチつけるアホの意見なんて、聞かなくていいんだよ」 「舞ちゃん……」 風で前髪が目に掛かったので、舞はそれを除けてから、柚子に笑いかける。 「いつか、あたしのこと描いてよ」 「……うん……」 「約束だからね? ……将来、柚子が有名になったら、あたし、それ、みんなに自慢しちゃう」 「……うん」 柚子の目が微かに潤んだのが分かったけれど、舞もそこは敢えて茶化さなかった。 だって、今、柚子に向けた言葉は、本当に心からの言葉だったのだから。 優しく柚子の頭を撫で、舞はただ穏やかに笑った。 と、ちょうどその時、すごい勢いで修吾が走ってきた。 舞は尋常ではない空気を感じ取って、修吾を呼び止める。 「ニノ! どうしたの?」 「な、南雲くんが胸押さえて、倒れた! 僕、急ぐから!!」 本当に急いでいるのか、少し走るスピードを抑えてそう叫ぶと、すぐに元のスピードで校舎へと駆けていってしまった。 舞は慌てて立ち上がって、人が固まっているところに目をやった。 柚子も心配そうに立ち上がる。 「い、行ってみよ。舞ちゃん」 「え、ええ……」 柚子が不安げに唇を噛んだのが分かって、舞は柚子と手を繋いだ。 けれど、2人が歩き出す前に、勇兵がこちらに走ってきた。 苦しげに呼吸を繰り返す秋行を抱え、勇兵は悔しそうに眉間に皺を寄せている。 「ツカ!」 「悪い。相手してる場合じゃない!」 勇兵はスピードも緩めずにそう叫んで、校舎へ駆けていく。 その後を追う者はなく、他の男子たちは校庭の隅で、それぞれ何か話をしていた。 柚子はすぐに保健室に向かいたそうだったが、舞はそちらが気になって、柚子を連れて、男子たちの元に向かった。 「聞いてはいたけど、目の当たりにすると……」 「おれたち、南雲に喜んで欲しくて、球技大会出れば? って言ってたけど、安易だったのかも……」 「どうしよう。死んじゃったりとか……しねぇ、よな?」 考えていた以上に強烈な光景を目にして、腰が引けてしまっている、というところか。 舞は秋行が倒れたところをもちろん見ていないから、何も分からないけれど、心臓の発作だ。 見せられてビックリしないほうが珍しいだろう。 怯んでいる彼らを見て、舞は眉根を寄せた。 ……だから、言わんこっちゃない。 親があれだけ心配そうに言っている人間を、イベント事だからといって引っ張り込むものじゃないのだ。 「あなたたち、早く、保健室行きなよ」 舞は澄んだ声でそう言った。 こんなところにたむろって……。 意識を取り戻した時、周囲に2人しかいなかったら、それこそ秋行が気にするではないか。 心配されることよりも、おそらく、彼はこちらのほうが怖いのではないだろうか。 腫れ物に触れるがごとく、周囲の空気が変わってしまう。 今のような状態。 少なくとも、自分だったらそうだから。 「け、けど……」 「南雲くんのこと、すっごい大事にしてたじゃん、あんたら。まさか、この程度のことで腰が引けたなんて、言わないわよね?」 舞は遠慮なく、はっきりとそう言い切った。 男子に優しい言葉を掛けてあげる義理もない。 このくらいの言い方をしなければ、今後が心配なだけだ。 それでも、みんな互いの様子を窺うように立ち尽くすだけ。 彼らの不甲斐なさに、舞は呆れて踵を返す。 「行こ、柚子」 「う、うん」 柚子は舞に従ってくっついてきたが、途中、気になることがあったのか立ち止まった。 「柚子?」 舞がそちらを見ると、柚子はゆっくりと振り返って、男子たちに向かって言った。 「あ、あの……南雲くん、わたしに一昨日言ったの。みんなが笑っててくれればそれでいいんだって」 「渡井さん……」 「わたし、分かってなかった。南雲くんが、何を意図してそう言ったのか、あの時分かってなかった……。でも、今、分かったよ」 柚子の小さな背中が震えていた。 こんなにもたくさんの人に向かって、言葉を紡ぎ出すこと。 きっと、彼女にとっては初めてのことなのではないだろうか。 「南雲くんは、みんなに笑って欲しいから……だから、球技大会、参加するつもりがなかったんだって」 「……え?」 「だって、もし、発作を起こして倒れたら、今みたいに、みんなが困った顔や悲しい顔をするから。自分のせいで、みんなが笑わなくなったら、嫌だから……でも……」 柚子はそこで考えるように下を見、すぐに顔を上げた。 「きっと、参加して、全員でやり切った時の、みんなのとびきりの笑顔が、見たくなっちゃったんだよ。だから、無理して……」 柚子がそこまで言うと、それまで迷っていた男子たちが、1人、また1人と、視線でやり取りをし、頷き合って走り出した。 全員いなくなって、柚子がこちらを向く。 泣きそうな顔で、柚子はこちらを見上げてくる。 「柚子、よく言った」 「舞ちゃん……」 「ん?」 「南雲くんが今日倒れたの……わたしのせい」 「え?」 「わたしが、あんなこと言わなければ……南雲くん、こんな無茶しなかったよ、きっと……」 柚子の言わんとしていることはよく分からなかったけれど、舞は静かに頷いて、柚子の肩を優しくさすった。 柚子は、感性の人。 相手に伝わる言葉を、綺麗に選ぶことが苦手な子。 けれど、さっきの言葉は、綺麗にみんなの心に届いた。 「柚子、あたしらも急ご。……きっと、大丈夫よ」 舞はポンポンと励ますように柚子の背中を押し、少し早足で歩き出した。 「まぁったく、無茶するんだから、キミはぁ」 保健の先生はサバついた調子でそう言うと、秋行の髪の毛をわしゃわしゃとかき混ぜて、ため息を吐いた。 秋行は布団を鼻先まで引っ張り上げて、気まずそうに目を細めた。 「……もぉさげねです」 少し弱った声。 けれど、予想よりも平気そうで、舞は胸を撫で下ろした。 ベッドの傍で秋行のことを見下ろしていた男子たちも同様らしく、空気が少し和やかになる。 「もう落ち着いたし、みんな、帰りなさい。南雲くんは、先生が送っていくから」 「え、でも……」 「狭い保健室に、こんなに人が居ても、困るんです! はい、出た出た!!」 せっかく、秋行の様子を確認出来たのに、先生が強い口調で人払いをするので、渋々男子たちは保健室を出て行く。 部屋の隅で見ていたおかげか、舞と柚子はその対象に入らなかった。 秋行が慌てて起き上がって、出て行くみんなを呼び止める。 「ま、待って!」 その声で、全員が振り返った。 秋行は一瞬迷うように目を泳がせたが、しっかりと頭を下げ、その後に穏やかに笑った。 「心配掛げで、ごめん! あの、みんな……本当にありがとぉ」 「……いいんだよ、ヘーキなら」 「そうそう。おれらだって、南雲が気配りしぃなの分かってるのに、出ないと駄目みたいな空気にしちまってたし」 「月曜、ちゃんと来いよな?」 「う、うん!」 「じゃーなー」 「バイバイ」 思い思いに手を振って出て行く男子たち。 秋行もそれに対して、ブンブンと手を振る。 その様子を、心配そうに見つめている保健の先生。 勇兵と修吾はちゃっかり保健室に残って、すぐにベッドに寄った。 「……キミたち、昨年の体育祭の時にも見た顔ねぇ」 先生はそう言って苦笑する。 舞はそう言われ、気まずさから半笑いを浮かべた。 その表情を一瞥してから、先生は両手を腰に当て、やれやれと言いたげに息を吐き、秋行を見下ろした。 「さすがに肝が冷えたわよ……軽い発作だったから良かったけど」 「あの、家には……」 「連絡しない訳にはいかないでしょ。あたしだって、一応、任されてるんですからね」 「…………」 「そんな捨てられそうな子犬みたいな目をしないでちょうだい。南雲くん? あなた、自分がしたこと、ちゃんとわかってるんでしょうね?」 「……わがってます……わがってっけど……んでも、ボクだって……ボクだって、みんなどおんなじこど、してぇんだもの」 「南雲くん? あたしもね、あなたの気持ちが分からないわけじゃないのよ? だけど……」 「ボクだって、先生が言ってるごど、わがんねわげじゃねぇけど……ほんだら、ボク、我慢したら、それで、寿命が延びるんだが?」 「ッ……南雲くん……」 「ボクは、違うど思うんだ。気持ちに体がついでこねぇのはしょーがねぇけど、でも、だがらって、はじめっから駄目なんだって決めでしまったら……ボク、ボク……何のために生ぎでんだが、わがんねー!」 「…………」 「ちょびっとだげ、無理してみでがったんだ。ほんのちょびっと……ほんのちょびっとだべ!?」 「……わかった。わかったから、興奮しないで? 発作が治まったばっかりなんだから……ね?」 先生はそう言って踵を返すと、椅子に腰掛けて、机に頬杖をついた。 「今回は特別だからね」 「……先生?」 「二度は言いません」 「……ありがとぉ」 「全く……キミたちの学年は、あたしの肝を冷やす子ばっかり」 「……ごめんなさい」 「来週倒れたら、その時はキミのわがままなんて、絶対に聞かないから」 「うん……」 「そのへん、理解しておいてね。塚原くんに二ノ宮くん?」 「……?! あ、は、はい! 勿論!!」 「え、それって……」 修吾はすぐに察して頷いたが、勇兵がすぐに理解できなかったらしく、首を傾げた。 「さぁて、先生はなんにも言ってないからね。なんにも」 先生はその様子を見て、すっとぼけるようにそう言い、グッと伸びをする。 「キミたちも、そろそろ帰りなさい。さっきも言ったように、南雲くんはあたしが車で送ってくから」 「はぁい」 ようやく先生の意図がわかったのか、勇兵は嬉しそうに白い歯を見せて笑った。 秋行に向かってバチッとウィンクをして、保健室を出て行く。 修吾が少し難しい顔で秋行を見る。 「二ノ宮くんは、駄目って言うど思っでだ」 「……うん。本当は、駄目って言いたいよ」 「……じゃ、なして?」 「『みんなでやる。それって、とってもすんげぇごど』なんでしょ?」 修吾の言葉に、秋行が目をパチクリとさせた。 「その価値を知っている君が、蚊帳の外になるなんて、おかしい気がするから」 「…………」 「楽しい球技大会にしよう。……それじゃ、お大事に」 優しい笑みでそう言うと、修吾はゆっくりと踵を返した。 舞と視線が合って、照れくさそうに修吾は目を逸らす。 ……こんな時まで茶化さないっつーの。思わず、心の中で呟く。 それに、今の一言は格好良かった。勿論、言ってなんかやらないけれど。 修吾が出て行くと、柚子がベッドの傍まで歩いていった。 秋行は優しい目で柚子を見上げて笑う。 「渡井さんまで……。本当にごめんね? スケッチの邪魔しちまったべ?」 柚子はフルフルと首を横に振った。 三つ編みがゆらゆらと揺れ、ゆっくりと止まる。 舞はただ壁にもたれて、柚子の背中を見守るだけ。 「渡井さん?」 「謝るのは、わたしのほう」 「なして?」 「出来るのにしないだけ、なんて。そんな偉そうなこと……わたしに言う資格なんてないのに」 「偉そうなこと?」 「……南雲くんの気持ち、考えもしないで。本当にごめんなさい」 「……ボクの気持ち、考えでほしいなんて、ボクは思ってないよ」 「…………」 「ボクからしたら、そんな気遣いされるほうが、よっぽど腹が立つよ。渡井さんの言ってるごどは、ひどくおこがましい」 「南雲くん、そんな言い方……」 秋行の言葉に、柚子の背中が萎縮したのがわかった。 思わず舞は口を挟みそうになる。 けれど、秋行はそれを視線で制した。 「ボク、嬉しがったんだよ?」 「え?」 「そう言った後、渡井さんはすぐに気が付いで謝ってきたけど、嬉しがった。きつい言葉だったけど、嬉しがったんだよ」 「ホント?」 「ボク、渡井さんには嘘つかね」 「…………」 「だって、嘘ついでも見透かすんでしょ? その、綺麗な心で」 修吾だったら照れて言えないであろう言葉を、恥ずかしげもなく口にして、秋行は笑った。 「見透かされだら、嘘なんて何の価値もない」 「南雲くん……」 「渡井さんは、1本の道を真っ直ぐに歩いている。だがら、あの言葉にボクは感じ入った」 秋行のアクセントがいつもと若干異なるのに気が付いて、舞は小さく首を傾げた。 「ボクは背中を押してもらった。無理で、無謀で、無茶かもしれないって思ったけど、やってみだら、楽しがったよ」 「そっか」 「ん。ホントは、発作なんか起こさないで動ければ、カッコよがったんだけどね。ま、しょうがねーべ。ボク、カッコつけでも、サマになんないし」 「そんなこと……」 「……もう、悲しい顔しないでね?」 「え?」 「なんにも悪ぐねんだがら、そんな風に悲しい顔しねくていいんだよ?」 秋行は小首を傾げてにっこり笑うと、柚子の腕をポンポンと優しく叩いた。 舞からは柚子の表情は見えない。 けれど、秋行の言葉で、なんとなく、柚子がどんな顔をしているのか分かった気がした。 「……外も暗いし、そろそろ帰ったほういいよ?」 「ぅん。バイバイ、南雲くん……」 「ん! また来週。車道さんも、バイバイ♪」 「……ええ。お大事にね」 「はぁい」 最後におどけてみせる秋行。 舞はそれを見てクスリと笑い、柚子と一緒に保健室を出た。 柚子はまだしょげているのか、舞のほうを見てくれない。 横目で気にしながらも、舞は何も言わずに歩く。 そういえば、今日は清香と帰る約束をしていたのだった。 校門で待っているかもしれないな。 そんなことに思考が行った時、柚子がポツリと言った。 「……悲しみの彩が」 「え?」 「悲しみの彩が、似ている気がして……」 「柚子?」 「それで、つい……」 「……はぁ……」 舞はわざとらしくため息を吐く。 その声で、柚子がこちらを見た。 すぐに舞は柚子の顔に手を伸ばす。 思い切り柚子の頬を摘んで引っ張ってやった。 「い、いひゃい……」 「柚子の悪い癖!」 「…………」 「南雲くん、気にすんなって言ってたでしょ? なのに、なんでそう思い詰めるかなぁ!」 「……だってぇ……」 「だってじゃないの! まだそんな顔するなら置いてくからね!!」 「あうぅ……ごめん! ごめん、舞ちゃん〜」 舞が怒ったフリをして、ズカズカと歩くスピードを上げると、柚子はその後をパタパタと追いかけてくる。 ……全く。 この子は本当に手が掛かるんだから。 心の中で呟きながら、もう少しだけ意地悪してやろうと、舞は更に早足で歩いた。 |