◆◆ 第7篇 夜色・空気のように溶ける笑顔 ◆◆

Chapter8.南雲 秋行



 文化祭で彼女の絵を見た時、全身に電流が走るような、そんな感覚に囚われた。
 学校の近くの丘の上から町の景色を見下ろす構図で描かれたそれは、とても不思議な色合いをしていたのだ。
 その人の作品はどれもこれも写実的で、現実のものをそのまま切り出した印象が強かった。
 高い技術力と色彩感覚に優れているからこそ出来ることだと思い、1人その場に立ち尽くす。
 もちろん、その絵も同様に写実的ではあったのだけれど、他の絵とは何かが違ったのだ。
 青空が群青と緑の混ざり合った不思議な色に染まる、夕暮れと夜の間の、絶妙な時間帯を綺麗に切り出した絵。
 そこには微かに、その人の思い入れといおうか、感情といおうか、そういうものを汲み取れるような……そんな気がした。
 県のコンクールで大賞を受賞した作品と書かれた、その絵のタイトルは『夜色の風景』。
 描いた生徒の名前は、『渡井柚子』といった。

 その絵を見て、書道教室を開いている祖父の言葉を思い出した。
 ”選ばれた手”から生み出された書に出会うことはとても稀だ。
 その道を歩くと決めた時、その”選ばれた手”が自分にあればいいと思う人間は少なくない。
 けれど、皮肉なことに……そう考える人間の手には、その崇高な魂は決して宿らない。
 いつでも、そのような特別なものが存在するなど、考えもしない純粋な者にだけ、才能の神はほんの気まぐれで微笑むのだと。

 その言葉を思い出して、秋行の心臓は高鳴った。
 だって、彼女の絵が、”選ばれた手”から生み出されたそれ、そのものに見えたから。



 生まれた時、自分の命は3才まで持てばいいほうだと言われたらしい。
 それを聞いて、母は泣き、父は嘆いた。
 恵まれたことに、南雲家はそれなりに裕福な家で、何度も手術を繰り返すことで、秋行の寿命は徐々に徐々に伸びていった。
 小学校中学年からは学校にも通えるようになり、運動さえしなければ、ある程度普通の人と同じ生活を送ることも可能になった。
 勿論、それを維持するために、強い薬を摂取することが義務付けられてはいたけれど、風景の変わらない病室で8年間過ごした彼にとって、そんなことは苦痛でもなんでもなかった。
 自分が生き、元気いっぱいに笑う。
 それだけで、両親は満足そうに目を細める。
 そんな充足した表情を見ることが出来れば、それだけでいいのだ。
 ただ、自分は両親が悲しむことのないように、精一杯笑っていればいい。
 多くは望まないようにしている。
 望んでも、きっと手に入るのは僅かなものだから。
 大人たちは、自分の境遇を聞いて、簡単に『大変だね』『可哀想だ』という顔をする。
 それがどれほど当人にとって失礼なことであるのか、気付きもせずに。
 秋行はそれを察しながらも、ただニコニコと笑って、掛けられる言葉に会釈をすることにしていた。
 その行動が身に付いたのは、5才の頃だったろうか。
 他人が思うよりも聡い子だった、などと自分で言ってしまっては、自信過剰か。
 学校に通うことが可能になったのが小学3年の頃。
 子供は程度を知らないから、秋行の体のことにはあまり興味を示さなかった。
 秋行にとっても、その温度が心地よかった。
 笑顔を作って、色々な子たちと仲良くなれるように努力をした。
 8年間出来なかったことを取り戻すかのように。
 病室で本やテレビを見ていた分、雑多な知識には事欠かなかった。
 そのおかげで、秋行は転入してからすぐにそのクラスの空気に馴染むことに成功した。

 だが、自分で構築した骨組みは、いとも容易く壊れてしまうものなのだとすぐに気付かされることになった。
 仲良くしていた男子にふざけて後ろから強く押されたことで、発作を起こしてしまったのだ。
 勿論、自分にとっては日常的なことだったので、何も気にしなかった。
 けれど、それが日常的なことではない子供たちにとっては、強烈な光景だったのだろう。
 普通に接することが出来ない子。
 それは、彼らにとっては、普通ではなかった。
 ほんの少しの気遣いが必要であるだけのことなのだが、その配慮が出来ない。
 彼らの眼差しは、秋行が病院で見てきた大人たちの眼差しと同じものに変わっていった。
 その変化を肌で感じ取り、秋行の世界は、あっという間に色褪せてしまった。
 愛想はいい。
 色んな子たちと仲良くなれる。
 ……けれど、秋行の心には、相手を信じる気持ちが残ってはいなかった。
 学年が変われば。
 人が変われば。
 そんな淡い期待を抱いたこともあったけれど、その度に、自分の体が悲鳴を上げて、全てを台無しにする。
 いつでも、自分自身に、自分の努力を台無しにされるのだ。
 なんて、滑稽な話だろうか。

 高校に上がる前に受けた手術が良かったのか、高校に入ってからは、体の状態はすこぶる好調だった。
 欠席は目立ったけれど、少なくとも学校で過ごしている間に発作が起きることはなかった。
 おかげで、持ち前の愛嬌でクラスに馴染み、イベント事には参戦できなくとも、南雲秋行、というポジションを作り出し、収まることが出来た。
 何年か経った後、自分のことを覚えていてくれる人が何人いるかは分からないけれど、ニコニコ笑顔で訛りのきついヤツがいたな、程度にはなれるように。
 今の秋行の望みは、たったそれだけだ。
 ……それだけのはずだったのに……。
『友達に会うのに、理由は要らないと思う』
 修吾たちがお見舞いに来てくれた日、茶化すように舞が言った、修吾の言葉。
『よかったぁ。南雲、喜んでくれたぜ』
『デザイン、決める時ちょうどいなかったから、心配だったんだよなぁ』
 球技大会のクラスTシャツが届いた日、みんなが言った言葉。
 よして。
 心の中、秋行は呟く。
 それを受けて、どれほど、多くの期待をしてしまうか。
 望みは大きく持たないほうがいい。
 自分のためにも、望みは小さく。
 そうしているのだから、優しい言葉を、優しい心を、……ボクに向けないで。
 秋行は嬉しい反面、そう呟いて、心の中、耳を塞ぐ。
 自分自身が爆弾だから。
 こんな優しい世界を、また自分で壊すようなことが起きて欲しくないから。
 そうやって拒み続けた秋行の心の扉を開いた、柚子の言葉。
『出来ない生き方だって、南雲くんは言ったけど。出来るのに、しないだけじゃない?』
 出来る?
 ボクにも、出来るのか?
 きっと、その言葉を口にしたのが、彼女ではなかったら、秋行はなんとも思わなかったろう。
 けれど、秋行にその言葉を言ったのは、あの『夜色の風景』を描き、険しい道を1人で歩くことを心に決めてしまっている女の子だった。
 はじめから失敗を恐れて、望み自体を小さくしてしまっている自分はどれほど愚かなのだろうか。
 成功も失敗も見えない道を歩く人を前にして、秋行の心の霧が晴れていく。
 自分自身を言い訳にして、立ち止まっていたって、何も始まらない。
 手を伸ばした先。
 色褪せたはずの世界に、彩が戻っていく。
 ボクは……。
「ボクは、この輪の中に入りたかった……」
「南雲くん?」
 修吾が秋行を呼ぶ声がした。
 その声で我に返ると、勇兵たちが輪を作った状態でこちらを見て笑っていた。
「アキちゃん! 円陣組むよ!」
「あ、うん。今行ぐ!」
 秋行は笑って駆け出す。
 誰かが高校時代を思い出した時、その思い出の中に、秋行がいること。
 それも大事だけれど、自分が高校時代を思い出した時、思い出の輪の中に自分自身がいて欲しい。
 誰かのために笑うんじゃなく、自分自身のために笑いたい。笑うんだ。
 秋行が修吾と勇兵の間に収まると、互いに視線でやり取りして笑い合う。
「さぁ、勝つよ、潰すよ、3年をー! 学年上だからって遠慮すんなよ、お前らー!!」
 勇兵が慣れたようにハイテンションで叫び、片手を突き出した。
 その手に、全員の手が乗り、最後に恐る恐る秋行が手を乗せた。
 すると、勇兵がもう片方の手をその上に乗せる。
 秋行の手をぎゅっと握る大きな手。
 その手はとてもあたたかくて心地よかった。
 ……ああ、だから、この人は人気者なんだ。
 そんなことを思った。
「さわやか3組〜! ファイッ!!」
 勇兵の声に合わせて、全員が「オーッ」と返したが、叫んだ後に、勇兵の横にいた男子が思い切り勇兵の尻を蹴った。
「ッテ!」
「さわやか3組って何だよ?!」
「思い付き!」
「アホか。思いっきり、あのテイストで言ったろ? むしろ、歌う気満々だったろ? この馬鹿!」
「いいじゃん、別に〜。ほら、試合始まっぞ〜。行くべ行くべ〜」
 勇兵がツッコミから逃れるように、1人グラウンドへ駆け出していく。
 声が大きかったせいか、応援で来ていたクラスの女子がおかしそうに笑っていた。
 秋行もクスクスと肩を震わせて笑う。
 修吾が優しい目でこちらを見ているのに気が付いて、秋行はそちらに目をやる。
 目が合った瞬間、照れくさそうに修吾が視線を逸らした。
「……リードして、絶対に出番作るから。それまで応援よろしくね」
「うん。頑張ってね、『修吾クン』」
「…………。うん。頑張ってくるよ」
 一瞬戸惑ったのか修吾の目が泳いだけれど、秋行は気にせずにニッコリ笑った。
 両手をグーにして突き上げ、秋行は思い切り叫ぶ。
「さわやか3組〜! ファイトー!!」
「南雲もかよ?!」
 勇兵に突っ込みを入れた男子がそう言って振り返る。
 それを見て、敵チームの3年生まで笑っていた。
 イベント事では馬鹿になったほうがいい。
 過ぎ去った後、悔いるくらいなら、やり過ぎなくらいが丁度いい。
 今、秋行はそう思うのだ。



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