◆◆ 第7篇 夜色・空気のように溶ける笑顔 ◆◆
Chapter11.遠野 清香
『うん、いいね。楽しそう』 電話越し、彼女に対して清香はそう返した。 球技大会の後、みんなで修吾の家で遊ぼうという誘い。 断る理由もないし、むしろ、これで断ったら、舞が怪しむだろう。 賢吾のことはもう過去のことなのだ。 これ以上、気にしてもしょうのないこと。 そう言い聞かせ、清香は柔らかに笑う。 だって、今の自分にはこの人がいる。 『大人数で押し掛けるんだから、駄菓子くらい買ってったほういいよね?』 『……私、何か作ってこうか?』 『ううん、それはいいよ』 『けど……』 『清香はあたし好みのお菓子だけ作ってくれればいいのよ』 『…………』 『ニノの味覚にまで合わせて作られたら、こちとら嫉妬ではらわた煮えくり返るわ』 『ふふ……。なんで、シュウちゃん?』 『……だって、あんたら、何かあるでしょ? 初恋の相手とかさ、そういうのじゃないの?』 ああ、この人を舐めていた。 もう既に怪しんでいたのか。 『……なんか、くーちゃんにとったら、私って、すっごい惚れっぽい子かもしれないねー……?』 『ん?』 『中学の頃、一時期、勇くんのこといいなぁ……って思ってたって話した事あったしさ?』 『……いや、清香はフツーでしょ。むしろ、あたしの心が乙女じゃ無さ過ぎるんだと思う。初恋が中2は遅い気がするんだよねー』 この人は、何をサラリと言ってのけるのか。 清香は顔が熱くなるのを感じて、唇を噛んだ。 『……くーちゃん』 『ん?』 『照れるからやめて』 『……重いからやめて、って言われなくて良かったわ』 電話の向こう、彼女が笑う。 彼女はいつだってどんなに不安に思っていても、それをふわりと茶化しの言葉で包み隠す。 だから、本当は、誰よりもデリケートな人なのではないかと思うことがある。 気持ちが重たい軽いなんて次元の話になったら、きっと自分の気持ちのほうが彼女の数倍重たいだろうに。 だから、彼女が言ったようなことを考えたことなんて一度もない。 ……そう思うことがあったら、きっと、その時は……この魔法が解けてしまう時だろうから。 別に、怒ってなんていないのだ。 手渡したレモンのはちみつ漬けが、あっという間にクラスメイトたちの手で消化されてしまったことなんて、特に気にしていない。 「柚子、結局、球技大会なのに、1人で絵描いてたの?」 感心するように、柚子のスケッチを見て笑う舞。 柚子は照れたように小首を傾げて、それでも、得意そうにおずおずと言った。 「……よく描けてるでしょう? 舞ちゃんが見られない分、切り取っておこうと思って頑張ったの」 「そこで、写真撮っておこうって発想が出てこないのが柚子だよねぇ」 「しゃ、写真は、クラスの子が撮ってたもん……。そ、それに、わたし、カメラ苦手」 「ふーん……。まぁ、いっか。……本当はもっと近い距離だとありがたいんだけどねぇ」 「う」 「あはは。冗談だって♪ サンキュー。どれが清香かすぐ分かるから平気よ」 「おぉ〜、本当だ〜。渡井さん、やっぱすげぇべ〜!!」 「そ、そんなこと……」 清香は隣で楽しそうに笑っている舞を、チラリと見た。 舞が自分自身のことよりも先に、クラスの人に対して気を配ってしまうことは、天然と言っていい。 彼女にとって、周囲に親切にすることは、空気のように当然なことなのだ。 自分が心がけて親切にするのとは全く違う。天性のもの。 それをわかっているから、怒ってなんて、いない。 ただ、たぶん、気に掛けて欲しかっただけなのだと思う。 誰に対しても優しいから、だから、不安になることだってある。 「さっちゃん」 「ッ……な、なに?」 考え事をしていたせいで、修吾に突然名前を呼ばれて、肩がビクリと跳ね上がった。 修吾が小さく手招きをして、部屋の隅に歩いていく。 なので、清香もそれに従った。 立ち上がる瞬間、舞がこちらを気にするように見たのが分かった。 違うって。なんにもないんだってば。特に、彼とは何も。心の中、そんな言葉が駆け巡る。 修吾は何も気にしないように、清香の耳元に右手を寄せて、小声でボソボソと言った。 勇兵とは違って、本当に相手にしか伝わらないレベルの小声だった。 「兄貴、今日帰り早いと思うよ。よくわからないけど、大丈夫?」 「う、うん。ヘーキだよ。なんで、そんなこと?」 「思い出したから」 「そ、そう」 「それに……」 「 ? 」 「兄貴が、さっちゃんに興味示してたから……あんまり良くないかなぁって思っただけ」 「え?」 「……付き合ってる人がいるなら、なおのこと」 修吾が知っているはずはないので、その言葉を受けて、清香はチラリと舞を見た。 舞と視線が合って、あちらが気まずそうに目を逸らした。 すごい見られてる。そう感じて、複雑な感情が沸き上がった。 でも、それを嬉しいと思ってしまっている自分の愚かなこと。 変に誤解されていたら、色々と取り繕うのが大変だというのに。 「……あ、相手は知らないけど、さ」 清香の不安げな様子が見て取れたのか、修吾が照れくさそうにそう言った。 「ぅ、うん……」 「兄貴、意地悪いし、掻き回すのとか、好きそうだから……気をつけたほうがいいかなって思って」 「……そんな人では、ないと思うけど……」 「え?」 「ううん。私なんて、眼中にないよ、あの人は」 「…………」 修吾が清香の言葉に困ったように目を細めた。 なので、清香は小さく首を傾げる。 「あんまり、男を侮らないほうが、いいよ」 「え?」 「女子が思っている以上に、変態なのが普通だ、って思うくらいがちょうどいいと思う」 それを、舞曰く学年の王子様、が言うのか。 清香はおかしくなって笑いをこぼした。 修吾がその反応が意外だったように目を見開く。 「ごめんごめん。シュウちゃんが、そんな風に言うと思わなくて、つい」 「な、なんだよ。人が心配してやってんのに……」 「うん。だから、ごめんって……」 「……まぁ、いいけど」 と言いながら、拗ねたように腕を組む修吾。 けれど、すぐに穏やかな眼差しでこちらを見た。 「何かあったら、すぐ言ってね」 「ん?」 「一応、幼馴染だし……困ったことの相談くらい、乗れる、から」 『それに、幼馴染って言っても、9年も前のことだから、そんなに仲良しって訳でもないの』 先程清香が言った言葉を気にしているのだろうか? 全く……相変わらず忠犬……(などと言ったら、彼は怒りそうだけれど)本当に良い人なのだから。 「シュウちゃんは」 「え?」 「私より気に掛けないといけない人がいるでしょ?」 清香がそう言って、修吾に笑いかけた瞬間、舞の茶化しの言葉が割って入ってきた。 「お2人さ〜ん、柚子がつまらなそうなので戻ってきてくれません〜?」 「え?! え? な、なに、いきなり! わたし、思いっきり、アップルパイ堪能してたのに〜」 「なっはは! つまんないのはシャドーだろぉ?」 舞と清香のことを知っているだけに、余裕そうな表情で勇兵が言った。 彼の心中を察すると、余裕ではないと思うけれど、自分が言えた義理ではないから、そこはもう気に掛けないことに決めていた。 清香はすぐに振り返って笑う。 「ごめんごめん。ちょっと小母様がうちのお母さんに用事があるとかで、その話。ね?」 「え……あ、ああ、うん」 「ふ〜ん……それにしては、随分と距離が近かったようだけど」 舞が少しばかり不機嫌な様子で頬杖をついた。 ……いつも人がいる場所では、驚くようなレベルで、そんな様子を全くと言っていいほど見せない人なのに。 自分が不機嫌なふりをしたのがいけなかったのだろうか。 清香はすぐに舞の隣に戻って、ゆっくりと腰掛ける。 修吾と話していようと、柚子なんて全然気に掛けもしないのに。 彼女のほうが、清香の心を分かっている気がする。 清香は舞を気にして、チラリと見た。 目を細めて、ペットボトルをこねくり回している舞。 「せっかく、私の機嫌が直ったのに、今度はくーちゃんが不機嫌?」 茶化すようにそう言うと、舞が驚いたようにこちらを見た。 周囲を気にするように見てから、髪の毛をかき上げる。 「……疲れて眠いだけよ」 「そっか」 「柚子〜、おせんべい取って」 「あ、うん。これでいい?」 「ええ、ありがと」 舞は笑顔で受け取って、袋を開ける前に煎餅をガツンと殴った。 それから袋を開け、満足そうに割れた煎餅のかけらを取り出し、袋をこちらに向けてきた。 「食べる?」 「あ、うん。ありがとう」 清香は舞を見つめて、柔らかく笑った。 お手洗いを借りて、修吾の部屋に戻ろうと階段に手を掛けた時、ちょうどその位置から見えた室内に、ピアノが置かれていて、清香は足を止めた。 なんとなく、その部屋の前に歩いていき、覗き込む。 窓が開いている。 窓からの風で、カーテンがユラユラと揺れていた。 「あら? 良かったら、弾いてみる?」 後ろからそんな声がして、ビクリと肩を跳ねさせる清香。 首だけ振り向くと、春花がエプロン姿でそこに立っていた。 「賢くんももうすっかり弾かなくなっちゃったから、ピアノが可哀想でね〜。時々、こうして風を通すために開ける程度なのよ」 「は、はぁ……」 「さっちゃんも上手だったわよね?」 「わ、私なんて大したこと……。それに、高校入る前にやめましたから」 「そうなの?」 「はい」 「そうなんだぁ……残念ねぇ」 「あの」 「なぁに?」 「ケンゴさんは、なんで、ピアノをやめたんですか?」 「…………」 清香の問いを受けて、春花は悲しそうに目を細めた。 聞いてはいけないことだったと気が付いて、すぐにその問いを取り消そうとしたが、それよりも早く、低い声が割って入ってきた。 「受験に失敗したんだよ」 その声に、心臓がドクンと跳ねた。 声の先に視線を向ける清香。 髪、黒に戻したのか。そんな言葉が過ぎる。 色が戻ると、少し大人びただけで、昔と全く変わらないような……そんな錯覚を覚える。 清香が反応に困って立ち尽くしていると、賢吾はゆっくりと片手を上げて笑った。 「よぉ。……なんだよ、今日は、修の部屋で集会か? 玄関にくつがたくさん……」 「ええ、そうよぉ。なんと、5人も来てるのよ! あの、修くんが、5人もお友達を連れて……」 「へいへい。すみませんでしたね。お友達を1人も連れてきたことのない兄貴で」 「そ、そんなこと、お母さんは言ってません!」 「ふっは。ウェイトレス、よかったら弾いてけば? ま、しばらく手入れしてないから、音ズレしてそうだけど」 「……それじゃ、少しだけ」 「うん。じゃ、おれはここで聞いてようかねぇ」 賢吾はニィッと笑うと、清香の背中をトンと押し、部屋の中に入った。 「お母さんはお夕飯の準備しないと。さっちゃん、みんな食べてってくれるんでしょう?」 「あ、た、たぶん……」 「わぁい♪ 気合入れて作らないと〜」 春花は嬉しそうにそう言って、軽い足取りで廊下を歩いていってしまった。 「さっちゃん?」 「え?」 「名前」 その瞬間、お腹が冷えるような、そんな感覚に囚われた。 「聞いてなかったよな、名前。なんてーの?」 その問いに、清香は賢吾を見上げた。 弟の修吾とは違い、勇兵と同じくらい背が高い。 涼やかな目に、吸い込まれそうだった。 すぐに我に返り、目を伏せた。 大丈夫。 自分は、大丈夫。 気持ちはもう絶対に彼に揺らいだりしない。 速まる鼓動を必死に抑える。 覚えてもいてくれなかった人。 それにほっとしながら、それが清香にとってはとても屈辱だった。 一体、どんな顔をすればいい? もっと、この人が悪い人だったなら、接し方にも困らなかったはずなのに。 ……自分が情けない。 舞がいるから大丈夫? そんなんじゃない。 だって、自分は……この人を見返したくて、しょうがなかったんじゃないか。 今更、そんなことに気が付くなんて。 清香は少し考えてからゆっくりと視線を上げて、笑顔を作った。 「遠野、清香です」 清香のその言葉に、賢吾は驚いたように目を見開いた。 そして、おかしそうにクツクツと笑った後、不敵に目を細めて、こちらを見下ろしてきた。 「……お前、自分のこと、覚えてるかってわざわざ聞いたの?」 それは、昨年の体育祭の時のことか。 「……はい。覚えてないって言われたので、名乗る気が失せました」 「……ふぅん……」 清香を品定めするように、賢吾は頭の先から足の先までゆっくりと視線を動かす。 どうして? 名前を知られたせいか、上手く動けない。 振られたあの時に失った自信。 傷ついた心は、プライドの高い自分には、本当に認めたくないほど辛かったのだ。 もし、そのことを何かの拍子で、彼が思い出したりしたら? きっと、自分は居ても立ってもいられないのではないか。 やっぱり、今日、自分はここに来るべきではなかったのかもしれない。 その時、階段を降りてくる音がして、舞の横顔が手すりのところから覗いた。 その音で、賢吾がそちらに目をやる。 「お、えろいの」 その言葉で、舞がこちらに視線を寄越す。 「げっ……ニノの兄貴……」 「げっ、って何だ、げって……。お前、顔綺麗なのに……」 「あ、清香、そんなとこにいたの? 戻ってこないから、具合でも悪いのかと思って心配したじゃない」 「無視かよ」 「あたしは近づかないほうがいい人間は、徹底的に避ける主義なので」 舞はそう言いながら、ベーッと舌を出した。 そのやり取りに、清香のざわついた心が少しずつ穏やかになっていく。 「ふーーーん……ほぉぉぉぉ。えろいの、お前、そう言いながら、厄介なのに絡まれるタイプだろ?」 「なっ」 「見る目ねーもん」 「なんですってぇぇぇぇ?」 舞が威嚇するように、階段の上から賢吾を睨みつける。 清香はそこで賢吾の横をすり抜けて、廊下に出た。 「ん? あれ? ピアノ弾かんの?」 「は、はい。やっぱり、いいです」 「そう。残念」 「……今度」 「ん?」 「お兄さんのピアノ、聴かせてください」 「…………。考えとくわ」 賢吾は目を細め、真面目な顔でそう言うと、部屋の窓を閉めに、奥へと入っていってしまった。 清香はそわそわする心を誤魔化すように、拳を握り締めて床に視線を落とした。 初恋の人と今付き合っている人が一緒にいるというのは、こんなにも落ち着かないものなのか。 「清香?」 「……小母様が、お夕飯の準備するって言ってたから、その、手伝ってくる」 「だったら、あたしも……」 「いい!」 「ッ……」 つい、突き放すように声を発してしまい、慌てて取り繕った。 「あ……たくさんいても、邪魔でしょう? だから……」 「え、ええ、そうね」 清香の言葉に舞は頷いたが、すぐに階段を降りて清香の傍にやってきた。 後ろで窓の閉まる音がする。 舞の手が、頬に触れた。 ひんやりと心地よくて、清香は目を細める。 「顔色、悪いけど……本当に大丈夫?」 「大丈夫」 「……そう。きつかったら、すぐ言ってね。一緒に帰るから」 「うん……」 目に掛かった前髪をそっとどかし、清香は頷いた。 その拍子に舞の手が離れる。 舞は安堵したように、ゆっくりと踵を返す。 「くーちゃん」 「ん?」 思わず呼び止めてしまい、舞が足を止め、こちらを見た。 「ぁ……なんでもない。心配してくれて、ありがと」 「いいえ」 舞の笑顔は優しい。 いつだって……いつだって、優しい。 それなのに、自分は先程、一瞬であったとしても、なんということを考えたのだろう。 |