◆◆ 第8篇 白球・涙雨の日は相合傘で ◆◆
Chapter2.丹羽 日和子
『丹〜羽ちゃん☆』 球技大会のバスケの試合で、舞に負けた後、すぐに勇兵が笑顔でベンチにやって来た。 1年女子の間でも勇兵は人気があり、突然の登場にその場にいた女子たちの何人かが落ち着かなげにこちらを見た。 男子バスケの試合の審判をしていた歌枝が、戻ってきて日和子の功を労っていたが、兄の登場に顔をしかめる。 『何しにきたのよ!』 『あ、歌枝。なんだ、審判の仕事いいのかよ?』 『今、あっちもクラス入れ替え中なの! ……あー、舞先輩のプレイ、ちゃんと見たかったのにぃ!』 『明日も見られるじゃん』 勇兵が白い歯を見せて、ニシシと笑う。 その笑顔を見て、歌枝が憎たらしそうに脛を蹴った。 『痛って!』 『負かしたクラスのベンチにすぐ来るデリカシーのないお兄ちゃんが悪い! 日和ちゃん、よく頑張ったよ。みんなもよく頑張った』 『つ、塚原さん……』 『なに?』 『あ、いえ、先輩じゃなくて……』 今にも泣き出しそうな歌枝をなだめようと背中に手を伸ばしかけたが、勇兵が呼ばれたと勘違いしてこちらを見たので、日和子は慌てて首を横に振る。 歌枝は直情的な性格であることもあって、涙もろい。 たかだか球技大会であっても、そこは変わらないのだ。 裏表のない子だから、日和子ははじめこそ怯んだけれど、最近では、彼女のそういうところが気に入っている。 『日和ちゃん、だから、歌枝でいいよって言ってるのにさぁ……すぐ塚原さんに戻るんだもん』 『あ、ご、ごめん……』 こういうところが余所余所しさを感じさせるのは分かっているのだけれど、なかなか直すことができない。 そのやり取りを見て、勇兵が笑った。 『俺のこと、『勇兵さん』って呼べば解決じゃん☆』 『いや、日和ちゃんだとすぐ『塚原先輩』に戻るから解決しないし』 『はっ! そうか!』 『お兄ちゃん……』 勇兵の反応に歌枝が頭痛を覚えたように頭を抱えた。 日和子はそんな2人のやり取りで、クスリと笑う。 それに気が付いて、勇兵が嬉しそうに目を細めてこちらを見た。 目が合った瞬間、日和子は顔が熱くなって、すぐに視線を逸らす。 『あ、そだ。丹羽ちゃんに、差し入れ』 勇兵は視線を逸らされたことも気にしないようにそう言って、持っていたペットボトルを差し出してきた。 日和子は戸惑いながらもそれを受け取る、というよりも、ほぼ押し付けられる形で手に収まった。 『あ、ありがと、ござ、います』 『んーん。本気のシャドーなんて、久々に見たから、そのお礼』 いつでも、この人の思考は、あの人を中心に回る。 誰にでも分け隔てなく優しい人だから、周囲の人は気が付かないが、日和子にはなんとなくそれが分かっていた。 『本気……?』 『アイツ、すーぐ手ぇ抜くっていうか……。いや、違うか。気持ちが冷めやすいんだよね。モチベーション保つの下手で……。だから、上手い相手がいないと燃えないんだわ。強いチームに勝った後、すっげー弱いチームに負けるとか、普通にやるもん。な? 歌枝』 『……た、確かに、そういうところは、あったかな……? 舞先輩って、基本的に相手蹴落としてまで前に出るタイプじゃないから』 『アイツの場合、スポーツ競技が向いてないんだな、性格上。あんなに上手いのに、マジ勿体無い』 『……そ、そうなんだ……』 日和子は4月に聞いた舞の話を思い起こしながら、2人の話に耳を傾けた。 『人間は、なろうとする人間になれる、らしいよ。イマジネーション豊かに、自分の理想の姿を想像できる人ほど、上手に生きられるのかもしれないね』 優しい表情で、それでも寂しげに、彼女は、文芸部の部室で日和子にそう教えてくれた。 家が遠いこともあって、朝練に参加することが難しい分、居残り練習だけは欠かさずに参加をすることに決めていた。 元々強いチームでもないからか、朝練も居残り練習も、部員1人1人の意気込みに任されている。 それでも、6月の高校総体予選に関してだけは、みんな自覚があるのか、ここ最近はほとんどの部員が居残り練習に参加していた。 高校総体。 3年の先輩は、ここで負ければ即引退することになる。 1試合でも多く、1日でも長く、残ってもらえるように。 そんな思いがあるのだろうと思う。 「勇兵! そのくらい拾え!」 「はい! すんません!!」 「おら、次行くぞ! バテてんじゃねぇよ!! そのガタイは飾りか!?」 「…………」 勇兵は膝をついたまま、ゼェゼェと肩で息をしていたが、なんとか立ち上がって構えた。 「まだまだぁ。さ、来ーい。ヘボアタッカー!」 笑顔でそう叫ぶ勇兵。 彼は、チームのムードメーカーだ。 3年の先輩にも気に入られていて、居残り練習はいつも、エースである小堀先輩とタッグを組んでいる。 「ぴーわこ」 「ひゃっ」 その声と一緒に、後ろからきゅっと抱き締められて、日和子はビクリと体を震わせた。 こんなことをしてくる先輩は1人しかいないので、最近は慣れては来たのだけれど、それでも、ビビリ症の体まではそれに慣れてくれない。 「ミャオ。丹羽さん、ビビッてるじゃん、可哀想に〜」 3年の先輩がおかしそうに笑ってそう言うと、日和子にくっついて離れないミャオ先輩が、笑いながら返す。 「大丈夫ですよ〜。ぴわこはツンデレなんですって」 「ツンデレってそういう意味だっけぇ?」 「あれ? つれないけど、心の中はホット、ってことじゃないんですかぁ?」 「アタシがそんなん知るわけないっしょ」 頭の上でかわされる会話。 日和子は諦めて、抱き締められたまま立ち尽くす。 「あれ? ぴわこ、いつもみたいに『は、離して、ください』って言ってくれないの? こう、嫌がる子を、1枚1枚脱がせていく感じが好きなんだけどなぁ」 「ミャオ先輩」 「ん〜? あ、ていうか、ミャオって呼んでくれたぁ。ぴわこ〜。私の求愛がようやく通じたかぁ!」 「……そろそろ暑いんで、やめてください」 「ツン度グレードアップ?!」 ミャオ先輩のその反応に、周囲で練習していた先輩たちがみんな楽しそうに笑った。 それでも、離してはくれない先輩。 この先輩は、橘真央という。 日和子の1コ上。勇兵と同学年で、彼と同じく、2年で唯一のレギュラーだった。 万能な人で、本当はアタッカー志望なのだが、3年の先輩にセッターをこなせる人がいなかったため、今はセッターポジションを主にこなしている。 ポジションが一緒なので、いつの間にか日和子に懐き、セクハラをしてくる先輩に変貌を遂げた。 「ぴわこさぁ」 呼び名に関しては、面倒なのでもうどうでもよくなった。 ミャオ先輩は周囲を気にするように、声のトーンを落とした。 「勇ちゃんと仲良いじゃん?」 「仲……? じ、自主練習、一緒にやってるだけですけど……」 「うん、仲良いじゃん」 「はぁ……」 そう言われて、顔が熱くなる。 あまり意識しないようにしていたことを言われ、心の中は動揺していた。 きゅっと抱きつかれているのもあって、心臓の鼓動が速くなったのを悟られそうで、そのことだけが怖かった。 「好きなの?」 「え?」 「勇ちゃん、人気あるからさぁ」 「…………。ぃ、いえ。そういう訳では」 そういう訳では、ないと思いたい。 目立たず、静かな生活を送ることが望みの日和子からすると、勇兵は対極に位置する人間だから。 「そうなん? 好きなんだったら、私、協力する気満々なんだけどなぁ」 「え?」 「ぴわこと勇ちゃんのカップル。面白そうなんだもん♪」 ミャオ先輩はそう言い、ゆっくりと離れてポンポンと日和子の頭を撫でると、走って行ってしまった。 日和子は撫でられた場所に触れ、目を細める。 「だぁっ、くっそ! もう1本! もう1本!!」 スパイクされたボールを上手く上げられず、悔しそうに叫んで、勇兵が素速く立ち上がった。 普段周囲に優しいこの人は、コートの中でだけ、鬼になる。 「……別に、送っていただかなくていいんですけど……」 自転車の後ろに乗ったまま、日和子は申し訳なくそう言った。 勇兵は無言で自転車をこいでいて、何も返してこなかった。 聞こえなかったのかと思い、勇兵の学ランを控えめに握ったまま、目を細める日和子。 駅までの道。 21時前なのもあって、通学路には学生の姿がほとんどなかった。 終電の時間が迫っているにも関わらず、片付けに手間取って遅くなってしまい、慌てて走っているところを勇兵に拾われたのだ。 「送らなかったら、丹羽ちゃん、間に合わないじゃん」 少ししてからそう言葉が返ってきた。 「……そう、です、けど……」 「丹羽ちゃんさぁ、他にも部員いるんだから、『私やります』って言わなくていいんだよ」 「で、でも……」 「丹羽ちゃんはホント空気読むタイプっていうか……。そういう子は損するよー。空気なんて、読まなくていいんだから。空気読む奴なんて俺からしたらクソ」 「…………」 「でも、空気読めない奴は、もっとクソ」 「ふふっ。じゃ、どんな人が良い人なんです?」 「ん? ……その場の空気を作る奴。動かせる奴、でしょ」 普段の彼とは少しだけ違って、声のトーンが低かった。 おそらく、部活の疲れもあるのだと思うけれど、そんな彼を見たことがなかったので、少しだけ違和感があった。 「俺の友達に」 「はい?」 「そういうのがいるんだ」 「…………」 「シャドーもそうだけどさ。二ノ宮って奴がいて」 よく一緒にいる先輩なので、顔は知っていた。 勇兵と同じく、1年女子の中では人気があった。 「はい」 「アイツ、普段無口で周囲に興味なさそうにしてるんだけど、ふとした時、パリッとしたひと言を言うことがあるんだよね」 「……そう、なんですか」 「うん。存在感あるんだし、もっと周囲に興味持てばいいのになって思うんだけどねぇ」 勇兵はおかしそうに笑う。 「空気読めないんじゃなくて、空気読まないタイプ。だから、俺、アイツ大好き」 「……塚原先輩も、そうじゃないですか」 「へ?」 「あ、前見てください」 「あ、ああ。悪ぃ」 日和子の言葉に振り向いた勇兵に、日和子はすぐにそう言って前を向かせた。 ただでさえ、2人乗りでバランスが悪いのに、よそ見運転なんてされたら怖すぎる。 「先輩?」 「ん?」 「車道先輩、お元気ですか?」 「? この前、球技大会で戦ったばっかじゃん。元気元気。それに、アイツは今幸せなのよ〜。付き合ってる子とラブラブで♪」 明るい声でそう返ってきたものの、日和子はなんとなく勇兵は舞が好きなのだと思っていたので、どう返せばいいのか困った。 そう。 この人は、きっと舞のことが好きだ。 そう考えた瞬間、チクリと胸の奥が痛んだ。 今日の練習中、ミャオ先輩に言われたひと言が浮かんで消える。 心の中、日和子はそれを否定した。 「シャドーがどうかしたの?」 「いえ」 ただ、自分自身の理想の姿を、あの人は見つけられたのだろうかと。 そんなことを思っただけのことだった。 日和子がそこで話を切ると、勇兵も話すことがなくなったのか黙ってしまった。 風が吹き抜けてゆく。 日和子はサラリと流れる短い髪をそっと押さえ、小さくため息を吐いた。 |