◆◆ 第8篇 白球・涙雨の日は相合傘で ◆◆

Chapter7.車道 舞



 あの日以来、柚子が上機嫌だ。
 見ていれば分かる。
 三つ編みはいつも以上にユラユラと元気に揺れるし、プリンが無くてもニコニコ笑っている。
 あの時、修吾とどんな話をしたのか尋ねても、柚子は笑顔で「ナイショ」とだけ言う。
 恋人とか、付き合うとか、そんな概念など、この2人にとっては不要らしい。
 なんともおめでたいと言おうか、……羨ましいと言おうか……。
 今日もニコニコ笑顔の柚子が、お弁当を食べ終えてから話し掛けてくる。
「ねぇ、舞ちゃん」
「ん?」
「前に、文芸部の挿絵やる気ないか? ってお話してくれたことあったでしょう?」
「ええ、あったわね」
「わたし、やっぱりそれ、出来ないや」
「え、なんで?」
「ちょっとね。駄目なんだ」
「……そう」
「目標が無くなっちゃうのは、面白くないからねー」
「 ? 」
「舞ちゃん」
「ん?」
「わたしの夢が叶ったら、きっといちばんに喜んでね?」
「……モチロン」
「ん。わたしも、おんなじだからね? 忘れないでね?」
「分かってるわ。まったく、幸せオーラ全開にしちゃってさぁ……。ニノと何があったのぉ?」
 あんまり柚子がニコニコしているものだから、自分までニコニコ笑顔でそう尋ねていた。
 数日前の清香とのやり取りなんて洗い流してしまうほど、柚子とのやり取りはピュアで綺麗で、何も取り繕う必要が無い。
 それが彼女の良いところで、舞の最も惚れ込んでいる部分だ。
 柚子はさすがに舞の直球な問いに、慌てたように周囲を見回した。
 お昼休みなのだから、みんな自分たちの話に夢中で、こちらのことなんて意識していないというのに、柚子はどうにもそのあたりが慎重だ。いつもはとても楽観主義なくせに。
「ナイショだってば」
「だーよねぇ。そう言われると思った。ま、いいや。そのうち、ニノから聞くから」
「え」
「ニノだったら、きっと聴取可能だもんね」
「……そ、そんなことないもん」
「そうかなぁ? 柚子にとったら大事なことでも、あちらさんはそうでもないかもよ?」
 舞はからかうようにそう言って、にんまり笑った。
 柚子がそう言われて困ったように目を細める。
「冗談だから。まったくさぁ、自信があるのかないのか、どっちなのよ、柚子は」
「じ、自信なんて、あるわけないでしょ……」
 おや、意外と弱気な発言だ。
「他人の気持ちはどうにも出来ないんだもん」
 その言葉で、数日前の清香とのやり取りが過ぎった。
「舞ちゃん?」
「……そうだよねぇ。ホント、どうにかなんないもんかねぇ」
 必死に笑顔を作ってそう返したけれど、たぶん、柚子のことだから誤魔化しきれていなかったと思う。
 相手を大事にして理性を保って、それで自分の心がないがしろにされるのなら、それはとっても意味の無いことのように思う。
 あの時、自分はもしかしたら間違った選択をしてしまったのじゃないか。
 そんなことを考えてしまう。
 あの瞬間は確かに、間違いないと信じて、それを選び取ってしまう自分自身が、まったくもって自然なように感じられていたのに。
『自分のことも、大事に出来る人になって』
 あの時の清香の言葉が繰り返し響く。
 分かっている。
 そうしたほうがいいことは、分かっているのだ。
 けれど、自分を大切にする、という概念が自分の中には無い。
 だから、どうすればいいのか、よく分からないのだ。
 清香を好きな自分が好きだ。
 だから、相手を大切に生きていれば、自分自身も大切に生きられると、そう思っていた。
 ……けれど、もしも、彼女が自分の傍を離れたら?
 それでも、その生き方は、自分自身を大切にした生き方になるのだろうか?
 巷に溢れ、掃いて捨てるほど存在する、相手の幸せを願って身を引くという、悲恋話。
 それは、本当の答えなのか?
 考えがネガティブに作用している。
 清香と、あんな話をしたせいだ。
 自分を想ってくれるからこそ、彼女は正直に話してくれたというのに。
 今は、痛くて痛くてしようがない。
 大会で、彼女が居なくて良かった。
 そうでなければ、自分はどんな顔で彼女に会えばいいのかが、分からなかったと思うから。



「歌枝、負けたらしいよ」
 家でぼーっとテレビを見ていたら、帰ってきて開口一番、楽がそんなことを言った。
 舞は楽のほうに向き直り、小首を傾げて見上げた。
 ホント、憎たらしいほど背の高い弟だ。
 背は高いのに自分似の女顔と来ているから、どうにも気味が悪い。
「歌枝、まだ選手では出てないでしょ?」
「……ああ、うん。そうだった。女バス負けたらしいよ」
「そう。残念だったね」
「帰り際、タイミング悪くアイツに会っちまって」
「今の今までずっと泣いてるのに付き合ってあげたのか。優しいねぇ、ガクは相変わらず」
 その言葉に、いつも仏頂面の楽が、恥ずかしそうに唇を尖らせた。
「別に。アイツが制服の裾掴んで離さねぇから仕方なく……」
「ああ、うん。そういう事にしとこ」
「しとこ、じゃなくて、そうなんだって」
「ガクってさー」
「何?」
「好きな子とかいないの?」
「…………。んだよ、いきなり」
「いやー、たまには弟とコミュニケーションでも、って思って」
「そんなん言ったら、舞は? って聞くぞ」
「あたし? あたしはいるよ」
「……サクッと、答えやがった」
「誰かは秘密」
 舞は含み笑いと一緒に、口元に指先を持っていく。
 楽がその様子を見下ろして、はぁとため息を吐いた。
「別に、興味ないよ。つーか、舞はさぁ、学校でもそんな無防備なの?」
「無防備?」
「気が気じゃない野郎だっているんだから、少しは気ぃ配れよ。ほら、あの……二ノ宮先輩とかさ」
「前も言ったじゃん。アイツは絶対にない」
「なんでわかんのよ」
「だって、ニノは好きな子いるもん」
「……そうなんだ」
「ええ♪」
「おれ、アイツは絶対やだったから、そうならいいや」
「ニノのこと、嫌いなの?」
「嫌いというか、舞には絶対に合わないから」
「ほっほう。そういう言われ方は初めてだわ。いっつも、お似合いって言われて面倒だから」
「合わないだろ、性質的にさ」
「そうかなぁ? ウマは合うんだけどなぁ」
「舞だと、あの先輩のネガティブ要素に引っ張られて一緒に落ちてく可能性あるもん。だから、アイツだけは駄目」
「ネガティブ? ニノが?」
「なんっか、そんな感じすんだって。勘だよ、勘」
 楽はそう言って、クシャクシャと、短い髪を撫で付けた。
「ふーん……。なんか、そういう風にニノが評価されるの、初めてな気がするなぁ」
「まぁ、そうだろうね。みんな、張りぼてしか見てねぇもん」
「ふっ……張りぼてって」
「張りぼてじゃん」
「やー、さすがにそこまで言われると、あたしも怒るよ? 親友だし?」
「……上っ面しか見てないヤツが多すぎるって言いたかっただけ。ごめん」
「確かにそうだねぇ。で?」
「ん?」
「ガクの好きな人は誰なの?」
「いるかいないかの話じゃなかったっけ?」
「チッ、掛からないか」
 舞がわざとらしく舌打ちをすると、楽はおかしそうに笑い、目を細めて言った。
「おれの好みは、遠野先輩みたいな人。少し天然入ってる系」
 いつになく、からかい口調で言うので、本気なのかどうなのか、一切見当がつかない。
 おそらく、歌枝の相手のし過ぎで少し疲れて、テンションが高いのだろうと思う。
 舞は思い切り眉をひそめて、楽を見据えた。
「ほんとーにぃ?」
「みたいな人、って言ってんじゃん。遠野先輩とは言ってない」
「…………」
「ははっ、舞が怒った」
「いや、怒ったわけじゃなくって、洒落にならない例を挙げるなぁって思ってさ。今度から清香連れてくるのやめよ」
「……たまにジョーク言うとこれだ……。ドン引きすんなよ」
「いや、単純に清香は男ウケいいから心配して言ってんのよ」
「上っ面しか見てないからな、みんな」
「……だぁかぁらぁ、あたし怒るよ?」
「でも、遠野先輩はその上っ面を必死に取り繕ってるのが、可愛いと思う」
「…………」
「なんだよ、黙るなよ」
「ガク、気持ち悪いよ、今の発言。らしく無さ過ぎ」
 けれど、正解でもあるから、なかなかどうして食えない男だ。
 楽は座布団に腰を下ろすと、テレビに視線を向ける。
 ドラマの再放送だったのだが、どうやら、内容がお気に召したらしかった。
 それを見ながら、思い出したように口を開く。
「そういえば、歌枝は嫌いなんだよな、遠野先輩みたいなの」
「そうそう。冗談でも歌枝には言っちゃ駄目よ?」
「……なんで?」
「そりゃあ……」
「 ? 」
 ああ、この鈍感男はまったく意に介していないらしい。
 というか、自分に対する矢印に敏感な人間のほうが気持ち悪いから、このくらいがちょうどいいのだろうか。
「ううん、なんでもない」
「そう。これさ、おれが小学2年生くらいの時にやってたやつだよね? 懐かしいなぁ」
「ヒロイン役の人、むっちゃ美少女よね。あの頃はこの素晴らしさを理解してなかったわ。今は今で、楚々としてて素敵だけどさ」
「……舞、発言がおっさん入ってる」
「うるさいなぁ。可愛いもんは可愛いでしょうが」
「女子って、相手役とかに目が行かない?」
「だって、この頃、髪伸ばし過ぎててあれじゃん。まぁ、一種の流行りみたいなもんだからしょうがないけどさぁ」
「もう1人いるじゃん、優等生の……」
「あー、無理。役の性格が無理」
「バッサリだな……」
 楽は舞の返しに笑いながらも、テレビ画面からは目を離さなかった。
 しばらくしてから、楽は何かを思い出したのか、こちらを向いた。
「どした?」
「男テニも負けたんだって」
「それがどうかしたの?」
 清香は女子テニス部のマネージャーなので、男子テニス部が負けようと、特に関係はないはずだ。
「歌枝に捕まる前、遠野先輩に会ったんだよ。長々歌枝に付き合ったので、忘れてたけど」
「それがどうかしたの?」
「男テニのサポートに行ってたらしいんだけど、なんか少し元気なかったかなぁって、思って」
「応援に行ってて負けたなら、元気もなくなるんじゃない? あの子なら」
「んー、でも……」
「なに?」
「おれのこと、舞と間違えたんだよ」
「え?」
「しょげた顔で歩いてきたなぁって思ったら、おれの顔見て『くーちゃん』って……」
「…………」
「あれ、なんかあったんじゃないかな? 女子部のマネなのに、1人だけ男子部のサポートっていうのもさぁ……」
「清香、真っ直ぐ帰るって言ってた?」
「あ、ああ。片づけしたら帰るって……」
 楽が言い終えるのも待たずに、舞はすっくと立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
「へ?! や、もうすぐ18時だぞ? みんな帰ってくんじゃん」
「母さんには適当に言っといて」
 舞は部屋着ルックのまま、玄関へと飛び出し、適当にサンダルをつっかけて、外へと出た。
 カランカランとサンダルでコンクリートを蹴る音が辺りに響く。
 清香の家は、小学校では学区が違ったが、さほど遠くはない。
 舞の足で走れば、20分くらいで着ける。
 どんな顔をして会えばいいのかがわからないなんて思っていたのに、体はいとも容易く彼女に向かう。
 こういうところが、本当に単純だと思う。
 それでも、舞が清香に渡した想いは、まさにそれそのものだから。
 この想いだけは、嘘をつきたくないとそう思うから。
 だからこそ、誰にも渡したくないと、心ばかりが欲張りになっていくのだ。
 清香の家が見えてきて、舞は少しペースを落とし、呼吸を整えるように深く息を吸い込む。
 肺が痛い。
 こんなに必死に駆けてきて、何も無かったらどうしよう。
 今更そんな考えが過ぎった自分がおかしくて、舞は目を細めて笑った。
 別に気にすること無い。
 笑って、「顔が見たくなっちゃって」とでも言ってしまえばいい。
 きっと、彼女なら笑って受け入れてくれる。
 門を過ぎ、呼び鈴を押す。
 しばらく待ったけれど、ドアの向こうから応答は無かった。
 ……そういえば、家の電気が点いていない。
 もしかして、誰もいないのか?
 舞は首を傾げ、少しの間、家の中の音に意識を集中した。
 すると、カロンと、サンダルの音がしたのが聞こえた。
 舞は姿勢を正して、ドアの向こうに立っているであろう人の声を待つ。
「……くーちゃん……?」
 ドアスコープでこちらの様子を見ているのか、清香の弱った声がした。
 数秒、舞は迷ってから、笑顔で口を開いた。
「なんかさ、ガクがさ……元気なかったって言うから、心配になって来ちゃった。……何もないなら、ないで、いいんだけどさ……つい」
 言葉の代わりに、ドアの鍵が開いた音がした。
 ゆっくりとドアが開き、俯いたまま、清香が中へと招くようにどく。
 なので、舞は招かれるままに中へと入り、後ろでドアが閉まる音がした。
 清香の様子をうかがうように顔を覗き込む。
「……大丈夫?」
 そう、声を発した瞬間、清香の瞳が切なげに揺れたのが見えた。
「さや……」
 舞の言葉を遮るように、舞の肩に、清香の細い指が触れた。
 そして、唇に……柔らかい感触がふわりと乗る。
 予期していなかった清香の行動。
 状況が理解できないまま、舞は珍しく、思考を手放してしまった。
 きっと、それがいけなかった。
 経過したのは僅かな時だったと思う。
 けれど、自分自身で理性を飛ばしてしまったから、実際はもっと長い時間だったのかもしれない。
 再び、ドアの開く音がして、舞はあっという間に我に返った。
 背筋が凍る。まさに、その表現がぴたりとはまった。
 そこには、清香の母親が立っていて、動揺を隠すことなく、表情を歪めていた。
「あなたたち……何、してるの?!」
 その声は悲痛を示すそれそのもので、舞は何も言えずに、下を向く。
 以前、清香が揶揄するように言っていた。
 母親は潔癖症な人で、なんでもかんでも、常識という枠に囚われるのを好む性質の人だと。
 ドクンドクンと鼓動がうるさい。
 何ひとつ言葉が出てこなかった。
 あまりにもテンパりすぎたからだろうか。頭が少しクラクラした。
 次の瞬間、清香が冷めた声で言った。
「別に……好きな人と、キスしてた。何かいけない?」
 かなり投げやり。
 今回の行動は、彼女の悪いクセ。感情の暴走だろうと予想がつく。
 そして、母親の登場で、取り繕うのも何もかも、面倒になってしまったのだろう。
 清香はそういうところがある。
 いつもはとても繊細に気を配っているからこその反動みたいなものなのだと思う。
 舞は2人の様子を交互に見て、ゴクリとつばを飲みこんだ。
 母親の視線が冷たい。
 この視線の温度を、舞は知っている。
 清香に、初めて告白をした時。
 あの時も、同じような目をしていた。
 ……清香は、きっと母親似だ。
「……ひとまず、車道さん、今日のところは帰ってくださるかしら?」
「ぇ……ちょっと待ってください。このままじゃ、さすがに……」
「話は、清香から聞きますから。帰ってくださいな」
「お母さん!」
「清香は、部屋に行っていなさい。あとで、話しましょう」
 早口でそう言うと、靴を脱いで奥へと入っていってしまった。
 そこで、清香もようやく冷静になったのか、困ったように表情を歪める。
「ど、どうしよう? くーちゃん……」
「あ、あたしは、とりあえず、これ以上気に障ること出来ないから帰るよ……」
 というか、あの場面を見られて、取り繕えるはずもなかったので、あれはあれで正解だったのではないだろうか。
 この先、どうなるかは分からないけれど……。
「……ごめん。あたしが気を配らないといけなかったのに」
「ううん。くーちゃんは何も悪くないでしょお? 謝らないで。……ごめんなさい、またやっちゃった……」
 苦しげな清香の表情。
 見ていたくなくて、舞は清香から視線を逸らした。
 玄関を出て、ゆっくりと歩く。
 清香は門のところまでついてきて、不安そうにこちらを見ていた。
 そんな顔しなくても、こちらはあなたを嫌うことは絶対的にないのに。
 心の中、掠める言葉。
 けれど、状況的に言えるはずもなく、舞は髪をかき上げて静かに言った。
「あとで……電話する」
「……何時ごろ?」
 母親が出たら、取り次いでもらえないことを懸念しての問いだろうか。
「21時前。天気予報のころに」
「分かった」
 清香がようやくそこで少しだけ笑ってくれた。



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