◆◆ 第8篇 白球・涙雨の日は相合傘で ◆◆
Chapter8.遠野 清香
「ッ……。最低……! サイテー! ……もう、ホント、ヤダ……ッ」 暗い洗面所で、バシャバシャと顔を洗いながら、必死に今日あったことを振り払うように、清香は頭を振った。 水滴ではない熱い雫がポタポタと落ちる。 タオルで柔らかく水を取りながら、念入りに唇をゴシゴシと拭う。 ……拭ったところで、起こってしまったことは消えない。 そんなことは分かっているけれど、やらずにはいられなかった。 清香は目を細めて、眉根を寄せる。 こんなことなら、自分からしてしまえばよかった。 全く眼中にない相手に奪われるくらいなら、さっさと『はじめて』を彼女と共有してしまえばよかったのだ。 「あー……。馬鹿……! 興味の無い相手に、隙を作らないことだけは、自信あったのに……」 悔やみながら、また唇を拭う。 大会の会場で起こったことがフラッシュバックする。 引退が決まってしまった先輩たち。 その中でも、一番落胆の大きかった部長。 みんなの前では気丈に振舞っていたが、片づけで2人きりになった途端、彼は唐突にうなだれてしゃがみこんだ。 気さくな良い人で、清香に対しても、他の部員と同じように接してくれていた。 だから、気付けなかったのだ。 自分自身が、彼の勝手なセンチメンタルドラマのひとコマにされようとしていたことに。 自分だけが男子部のサポートに来なければならなかったことを、訝しんではいたというのに、だ。 「……いっぱいいっぱいだったのかなぁ……」 ぽわんと出た言葉。 舞とのことばかり考えていて、疎かになってしまっていたのかもしれない。 ……答えなんて簡単だった。 こんなに。こんなに簡単だったのか。 賢吾の存在に気持ちが揺れてしまったことが嘘のように、今、自分の中には、彼女しかいない。 気付かなかったとはいえ、答えは出ていたのに、彼女を惑わした罰だったのかもしれない。 陣取りしていた場所の荷物を片付けながら、清香は部長を気遣うように優しく声を発した。 『部長、元気出してくださいね』 すると、その声に気が緩んだように、部長はそっと手で顔を覆い、その場にしゃがみこんだ。 清香は手を止めてそちらに目をやる。 『部長?』 『……ぁ、ごめん。終わっちまったんだなぁって思ったら、なんか、さ……すげー……喪失感? みたいなのが……』 部長は泣きそうな顔で笑って、はぁ、とため息を吐いた。 なので、清香は部長を慰めようとゆっくりと近づいて、同じようにしゃがみこんだ。 今振り返れば、無防備になってしまっていたことは明らかだった。 『みんな、頑張ってました』 『…………』 『私は、ちゃんと見てましたよ』 柔らかい笑顔で、清香はそう言い切った。 運動が苦手だから、自分自身はプレーヤーを選択しなかったけれど、それでも、身近で頑張っている人を応援したい。そんな気持ちがあって、マネージャーになった。 だから、どんな結果であろうと、その人の頑張りを讃えてあげられる。 清香にとって、それだけがマネージャーとしての誇りだった。 勝てなければ意味が無い。そう言い切ってしまうのは、戦っている人だけで、いいと思うのだ。 『残念でしたけど……まだ、追い出し試合もあるし、遠慮なんかしないで、これからもドシドシ後輩の指導に来てあげてください。部長は……みんなに慕われてますから』 『遠野……』 『でも、やっぱり、寂しいですよね。中学の時も、やっぱりおんなじだったなぁって今……ちょっとしんみ……』 湿っぽい雰囲気に目を細めながらも、清香は出来るだけ笑顔で部長を見ようとした。 その瞬間、部長の顔が、ありえないくらいに近くにあって、清香の体は硬直してしまった。 少しカサついた唇。 それが自分の唇に触れたのが分かって、慌てて、部長の胸を押した。 けれど、普段から鍛えているだけに清香の力では少ししか後ろに下がらなかった。 部長の呼吸が荒い。 怖い。 選手を休ませる用に、涼しい場所で陣取りをしていたので、周囲に人気も無かった。 だから、清香は決死の思いで叫ぶしかなかった。 『やめてください……ッ!』 そう叫んだ途端、ポロポロと涙が溢れ出す。 泣きながらも、彼を睨みつけることだけは忘れなかった。 それで、部長の手が止まった。 『あ……ごめ、そんなつもりじゃ……』 『じゃ、どういうつもりだったんですか?!』 当然だが、口調は厳しくなった。 その口調に、部長がうろたえたのがよく分かった。 『ずっと……気になってて……』 『…………』 『遠野って、誰にでも愛想良いし……に、人気あるのだって、自覚あるだろ?』 それは自分の悩みの種だから、嫌というほど自覚している。 けれど、愛想良くするなと言われても、自分の性質上それは無理な相談で、何と言われても困ってしまう。 『それで?』 『だ、男子部のサポート……お前だけって、おかしいと思わなかったのかよ』 「お前」という呼び方に、少々嫌悪感を抱きながらも、出来るだけ感情的にならないように、清香は唇を噛んだ。 『おかしいとは思ってましたけど、それ以上に、みんなを応援することが自分の仕事だと思っていたので。……だって、この大会が、集大成じゃないですか、先輩たちにとっては。そんな先輩たちに、応援してもらえたら嬉しいなぁって言われて、後輩の私が断れると思いますか?』 『…………』 『……片付け、しなくちゃ』 『だったら』 『 ? 』 『誰にでも愛嬌振り撒くなよ。そうやって、お前は自分以外を気に掛ける自分が大好きなんだろうけど!』 そんなことは考えたこともなかったけれど、言葉にされると、芯を捉えているような気もした。 『俺たちみたいな……免疫ない男は、勘違いするに決まってんだろ!!』 それはあんまりにもあんまりな言い分で、清香はその言葉に眉根を寄せた。 けれど、何も言葉が出てこなくて俯くしかなかった。 ゴシッとジャージの袖で口元を拭い、頬を手で撫でてから立ち上がる。 『勘違い、させたのでしたら、申し訳、ありませんでした』 声の温度が冷たいのは分かったけれど、事務的にしか、言葉を紡げなかった。 だって、どんな理由があっても、清香が大事にしていたものを、この人は、一時の感情だけで吹き飛ばしてしまったのだから。 なかったことに。 そう考えるためには、思考を止めるしかなかった。 『…………』 『私は、私らしく振舞っていただけで、それをどうと言われても、返す言葉はありません』 敷いてあったシートの角を持って、力ごなしに引き寄せる。 風が吹いて、シートの真ん中あたりがバフォリと音を立てて膨らんだ。 『仮に』 『…………』 『部長が、こういう卑怯なやり方でなく、真摯に想いを告げてくれたとしても』 『ッ……』 『答えは同じでした。だって、私らしさを疎ましく思っている人と付き合うなんて、きっと無理ですから』 清香は慣れた手つきでシートを畳み、まとめておいた荷物を持ち上げた。 『あ、も、持つよ』 『いいです。持てますから』 頑なな清香の表情に、先程までの言動を恥じるように、部長は俯いた。 『ご、ごめん』 何を言ったって、もう遅い。 『俺の、エゴ、だよな……ごめん……』 母が泣いた。 自分自身を見ているようで、本当に面倒な人だと思う。 ふざけて遊んでただけ、なんてことを言えるようなキャラクターでもないことがよく分かっているから、真面目な問いに対して、真面目に返すことしか出来なかった。 「……きっと、今だけよね? 大人になって、いろんな人に出会えば、きっとあなたもまともに……」 「お母さん。それは、私とくーちゃんが、まともじゃないって言っているの?」 「だって、普通に考えたら……」 「それは、お母さんの中での普通だわ。世間体とか、一般的な思想とか、そういうのが大好きな、お母さんの中での普通よ」 一般的な思想、すら、単純な偏った思想でしかないことを……、清香は身を持って自覚している。 何が普通で、何が変、と区別すること。 それさえも偏った思想であることを、意外と人は気付くことなく受け入れてしまう。 柚子に言われて気付いたこと。 それが母にも通じるかは分からない。 けれど、自分たちが変・まともじゃない、なんてことは認める訳もなかった。 だって、それは、自分の大好きなあの人を、おかしいと否定してしまう行為でしかないのだから。 「…………」 母は、ひとり娘である自分を本当に溺愛していて、いつでも可愛い服を着せるし、寒くなると誰よりも早くコートを着せた。 そんなくすぐったいあたたかさを疎ましく感じるようになってしまったのは、いつの頃からだったろう。 普段は、友達のように接することの出来る親子関係なのに、ひとつの食い違いで、あっという間に崩壊してしまいそうな危うさがある。 なんだか、そう考えると、こんな時なのに、おかしさがこみ上げた。 「お父さんには……言わないでおくから、しばらくの間、車道さんとは仲良くしないでちょうだい」 「そんなの、無茶だわ。周りが変に思うもの」 「え?」 「友達なのよ、くーちゃんは。好きな人である前に、友達だもの」 「…………。清香、お願いだから、お母さんが分からない世界に行かないでちょうだいな」 「…………。好きだって」 「 ? 」 「私のこと、真っ直ぐに好きだって言ってくれたのよ?」 「ッ……」 「嫌いになんて、絶対にならないって、そんな笑顔で、私のことを見る人なのよ?」 「清香……」 「そんな人……これから先、出会えると思う? 駄目だって言われたって、心は嘘をつけないものだよ」 「…………。そう。そこまで、真剣なの……」 どう真剣か、までは自分でもよく分からない。 今日の今日まで、こんな眼差しを向けられてしまう関係だということから、目を背けていたから。 自分は、舞しか見えていなかった。 舞はいつも、こうなることを恐れていたのに。 あの人は……自分自身をおかしいとは思っていなくても、世の中の枠組みからは少し外れた位置にいるのだと、自覚している人だから。 「理解も出来ないし、やっぱり、清香には普通に家庭を築いてほしいと、思うわ……」 「お母さん……」 「清香、学生のうちはいいだろうけど……、大人になったら嫌でも思い知るわよ?」 「…………」 「大事なひとり娘が幸せになれないのを分かっていて、こんなこと、受け入れられる訳ないでしょう」 「幸せに、なれないのかな?」 「…………」 「本当に、なれないのかな?」 あの人の想いに包まれている時、自分は満たされたように笑うことが出来るのに。 それでも、幸せではないと、この人は言うのだろうか……? 電話に出る時、母が悲しそうな顔をした。 それに心を痛めながらも、舞の声で、すぐに笑顔が湧き上がる。 階段に腰掛けて、「こんばんわ」と返した。 「大丈夫……じゃないよね?」 「断固反対」 「……清香もさぁ、もっと言い方ってものがねぇ」 あの時の言葉を思い出したのか、舞は失笑しながらそう言った。 「でも、嘘じゃないわ」 「……うん、ありがとう。投げやりな言い方だったのは気になるけど、嬉しかった」 「うん……」 「清香さ、今日、何があったの?」 「……面倒くさいからいいよ、それは」 「え? えっと、ちょっと待ってよ。急襲された上に、何も教えてもらえない訳?」 電話の向こうで小声になる彼女がおかしかった。 急襲。 確かに、その表現が的確か。 「したくなったの。いけない?」 「…………」 「したくなったらしようって、あなたが言ったのよ?」 「うぅぅ……恥ずかしいからやめて。んで、煙に巻こうとしないで」 「ふふっ」 電話の向こう、真っ赤になっている彼女が容易に想像できた。 「ねぇ、くーちゃん」 「ん?」 「私たちって、幸せになれないんだって」 「……?」 「お母さんに言われちゃった」 「…………。確かに、他の人よりはハードルが高いかもしれないね」 「そう……ね」 「でも、なれないなんてことは、絶対にないと、思いたいよ、あたしはさ」 それは、舞らしい答えだった。 「もしも……」 「くーちゃん?」 「大人になったその先も、あたしと一緒に居たいって、清香が思うなら……、その時は、2人で考えよう」 「…………。今じゃ、駄目なのね」 「あたしはいいけど、清香には、もう少し猶予があって、良いと思う」 「くーちゃん、それって……」 こんなに言っても、この人には伝わらないのか。 終わりがあるのを当然と考える恋に、どれだけの価値があるだろう。 舞は、やっぱり、どこかしら感情の部分で欠落しているところがあるような気がする。 「そう思わないと、リミッター外れちゃうのよ」 「…………」 「あなたの想いを信じてないなんて、言うつもりはないわ」 「くーちゃん……」 「今日は、このへんで」 「え、あ、うん……」 「昼間あったこと、話してくれる気になったら、話してね?」 言ったら、殴りこみに行きそうだから、言える訳もなかった。 「うん。おやすみ」 「おやすみなさい」 きっと、大丈夫。 まだ、そう信じていられた。 |