◆◆ 第9篇 星祭り・キミノヒカリ ◆◆

Chapter3.二ノ宮 修吾



「なんだ。今日は清香来てねぇのか」
 夕方、仕事から帰ってきた兄が、玄関の靴の多さで察して、リビングを覗きに来た。
 ……にしても、一言目がそれか。
「お邪魔してます」
 そんなことを気にも留めずに、柚子がにっこり笑って頭を下げた。
 それに倣って、他3人も軽く会釈をした。
「おお。夏休みまでご苦労なこったね。弟にそんな魅力があるとも思えんが」
「明後日の七夕祭りの相談で」
「ああ、お前ら、ワイワイ行くの?」
「そう」
「へぇぇ……。気になる子とのデートにでも使やいいのに。田舎なんだから、こんな機会しかねーだろ」
 サラリとそう言うと、ローテーブルに置いてある皿の上に余っていたスイカをひと切れ摘み、バクリとかぶりついた。
 器用に種を出し、シャクシャクと平らげ、口元を拭う。
「っぷは! ぬりぃけど、生き返るわ。で、清香は?」
 修吾は返答に困って、兄を睨みつける。
 同級生たちの前で、いくら幼馴染とはいえ、馴れ馴れしく呼び捨てで呼ぶのは気が引ける。
 特に、ついこの間まで、彼は遠野清香が誰なのかも分かっていなかったはずだ。
 今だって、昔、ピアノ教室が一緒だったらしいことくらいしか思い出せていないだろう。
「清香は明日から東京なので、お祭りは行かないんですよ」
 修吾が呼び方について注意するよりも前に、舞が静かにそう返した。
 それを聞いて、兄はつまらなそうに目を細める。
「残念だな。可愛い子の浴衣姿には興味があったのに」
「兄貴!」
「……冗談だよ。いつでもいいけど、伝言頼むわ」
「え?」
「ピアノ、聴きたいって言ってたから、いつでもドーゾって言っといて」
 複雑そうに舞はその言葉を聞いていたが、仕方なさそうにコクリと頷いた。
 それを見届けてから、兄は後ろ手をヒラヒラ振って、リビングを出て行ってしまった。
「遠野遠野って、修ちゃんとこの兄貴、まさかのロリコン?」
「ロリ……、5つ違いだし、その表現はどうかと思うよ、勇兵」
「ま、しょうがないんじゃん。清香可愛いしね」
 舞が苦笑混じりにフォローする。
「ここ最近、急にピアノ弾くようになったから、何事かと思ってたけど、さっちゃんと約束してたんだね」
 修吾の言葉に、舞は特に気にも留めない風で視線をそらした。
「母さんが喜んじゃってさ。母さん、兄貴のピアノの1番のファンだったから。趣味でもいいから、続けて欲しかったんだと思うんだよね」
「……お兄さんって、どうして、ピアノ辞めちゃったの?」
 尤もな疑問を柚子が口にした。
 当たり前のように話すのを避けてきた話題だったから、当然だろうか。
 でも、兄がピアノを再開した今ならば、咎める者なんて、誰もいない。
「高校卒業目前で、父さんと進路のことで揉めたんだ」
「え?」
「音大の推薦も取れてて、あとは、入学金を払うだけでよかったんだけど……。父さんは、首を縦に振らなかった。それまで、何の口も挟まなかったくせに、ギリギリになって駄目だって。高校の先生とか、ピアノ教室の先生とかも、わざわざ、家まで来て説得しようとしてくれてた。オレは、それをただ見てたよ。凄いなぁって思いながら」
「凄い?」
「……だって、兄貴の才能が惜しいって、本気で思ってくれてなきゃ、わざわざ説得なんて来ないだろ? 兄貴にはそれだけの物があるんだ。でも、それでも、駄目なんだなぁって……」
「修吾くん……」
「結局、入学金の支払いに間に合わなくて、兄貴は仕方なく、今の会社に就職。なんとか、指や腕に負担のかかる仕事は避けられたみたいなんだけど、兄貴はそれ以来、ピアノを弾かなくなっちゃった」
「それが、なんで急に……」
「わかんない。兄貴、気まぐれだから。さっちゃんにピアノ聴きたいって言われて、純粋に嬉しかったのかもね」
「嬉しい?」
「オレたち家族は、事情を知ってるだけに、1回もそんなこと言わなかったから」
「あ……そっか」
「うん。だから、たぶんだけど、不純な動機とかじゃないと思うよ。ピアノに関しては、人一倍潔癖で、真面目な人だから」
 穏やかにそう言い、そっと目を細めて笑う。
 兄に対して劣等感を抱くことが多かった自分とは思えないくらい、最近はそんなことすら簡単に言えるようになった。
 これも、成長のひとつなのだとしたら、少しは自分自身を誇ってもいいのかもしれない。
「……偏屈だから、気に入った相手への親しみの表現が、ちょっと偏ってるんだと思う。あんまり気にしないでくれると助かる」
「わかるなぁ、それ」
「え?」
 柚子がぽけらっとそう言うので、修吾だけでなく、他のメンバーも柚子に視線を動かした。
 一斉に見られたのが恥ずかしかったのか、柚子が照れくさそうに俯く。
「ごめんなさい……」
 そして、小さな声。
 柚子はこういう時、すぐにそう謝る。
「何がわかるの?」
 修吾の問いに、柚子がそっと顔を上げた。
 きょときょと、と視線が宙をさまよい、数秒してようやく修吾へ向いた。
「わ、わたしも、その……偏ってるから……。お兄さんのそゆ不器用なところ、少しは、わかるかなぁって」
「柚子はもっとオープンマイハートすりゃいいだけじゃん」
「ま、舞ちゃんに言われたくないよぅ!」
「ん? あたしのどこが心開いてないって言うのよ」
「ぅ……だ、だって……」
「シャドーは確かに、ずかずか入ってくる割に、こっちから踏み込むと、素早くバックステップ踏むよね」
 舞の視線に押し負けて困っている柚子がおかしかったけれど、ひとまず、助け舟を出す。
「ずっと玄関で『ごめんくださーい』って言ってる二ノ宮修吾くんよりはマシなつもりでーす」
「な、なんだよ、それ」
「『入っていいよ』って言われてるのにさ。キミは何なの? 心の耳が遠いの?」
「う、うるさいなぁ」
 なんとなく図星をさされてしまった気がして、思わずそんな声が漏れた。
 母親に返すような馴れ馴れしさが混じってしまった気がして、気恥ずかしさで顔が熱くなる。
 勇兵がおかしそうに笑った。
「お前らのやり取り見てると思うんだけど、姉弟みたいだよな」
「はあ?」
「は?!」
 舞と修吾の声が見事にはもる。
 それがおかしかったのか、余計に勇兵が笑い、秋行も勇兵の横でクスクスと笑い始めた。



 七夕祭り当日。
 兄のピアノの音で目が覚めた。
 暑さでひっくり返してしまっていたタオルケットを引き寄せ、丸める。
 目覚まし時計を見たら、10時をとうに過ぎていた。
「しまった……」
 汗を不快に感じながらも、ガバリと起き上がる。
 約束の時間は午後なのだから、そんなに焦る必要はなかったのだけれど、生活リズムを崩さないために、夏休み中でも普段と同じ時間に起きることを心がけていた修吾としては、初の失態だった。
 昨日に限って、久々にインスピレーションが沸いて、話をガツガツ書いてしまったのがいけなかったろうか。
 でも、書ける時に行けるところまでやらないと、またいつ降ってくるかもわからない。逃す訳にはいかなかったのだ。
「渡井はすごいな……」
 だからだろうか。毎日のように絵を描き続ける彼女を本当にすごいと感じる。
 とはいえ、毎日絵を描くことが、兄が毎日練習曲をさらうことや、自分が毎日小説を読み、良いと感じた作品の文章を書き写してみることと同義であるのであれば、自分だって負けていないと思う。
 すごいすごいばかり言っていても何にもならない。
 自分のペースで、進まなくては。
 ベッドから下りて、タンクトップと短パンから、Tシャツとハーフパンツに着替える。
 女子は浴衣を着るらしいけれど、自分はどうしようか。
 勇兵はお祭りのハッピ姿のままだと言っていたような気がする。
 秋行は、以前自宅を訪問した際、慣れたように着物を寝巻きにしていた気がする。となると、今日も和装で来る可能性が高い。
 1人だけ、Tシャツにハーフパンツは浮くだろうか。
「うーん……」
 部屋を出ると、一層兄のピアノの音が大きくなった。
 広がりのある音。軽快に跳ねる音符たちが目に浮かぶようで、不思議な心地になる。
 きっと、技術レベルみたいなものは、本気でピアノをやっていた頃の半分にも至っていないはずなのに、兄の演奏には、人の心を強引にでも引き寄せる何かがあった。
 言葉や普段の態度では上手く自己表現が出来ないからなのかもしれない。
 修吾も同じだし、きっと、柚子も一緒だ。
 自己表現の形は、人それぞれ違うのだ。
 階段を下り、ピアノの置いてある部屋を覗く。
 すると、足音で察したのか、兄のピアノの音が止まった。
「おそよう、ネボスケ」
「ん。いつもは兄貴のほうが遅いじゃん」
「確かにな」
「朝っぱらからピアノ?」
「ああ、起こしたか?」
「別に」
「ふっ。起こしたお詫びに、修吾君の好きな曲を弾いてやろう。選びなさい」
 立てかけてあった楽譜本を手に取って、兄はこちらにそれを差し出してきた。
 妙に優しくて、気味が悪い。
 そう感じながらも、悪い気はしなかったので、傍まで行ってそれを受け取り、ペラリとページを捲った。
「……兄貴が、中1の時に大きなコンクールで賞取ったことあったじゃない?」
「ああ。っても、取りすぎて、どれのことを言ってるのかわからんが」
 相変わらず、鼻につく言い方をする。
 なので、修吾は覚えているメロディを口ずさんだ。
 テレビCMなどでも、時々耳にする曲だ。
 兄はそれを聞いて、少々難しい顔をする。
「ラ・カンパネラか」
「だめ?」
「あの時、弾いたやつならな、多少つっかかるがたぶん空で行ける」
 兄は指を休めるように、ぐいーと両手を合わせて、そのまま前に伸ばした。
「さっちゃんが好きだったなぁって思い出したんだよ、今」
「……へぇ。そうなの」
「兄貴」
「ん?」
「変な気、起こしてないよね?」
「んぁ?」
「だから、その、さっちゃんに手を出そうとか、そういうこと……」
「ないない。あるわけない」
 キッパリと言い切る兄。
 修吾はじっとそんな兄を見据える。
 自分とよく似た眼差しが、こちらを睨み返してきた。
 そして、不敵に笑う。
「あるわけねーだろ。これでも、オレ、好きなヤツいるんだよ」
「そうなの?」
「ああ。忘れといたんだけどな」
「……?」
「お前らが、ちょろちょろオレの周りうろつくから、思い出しちまったんだよ」
 自嘲気味にそう言うと、プラプラと手を振り、鍵盤に指を置いた。
「ラ・カンパネラの大幻想曲を弾けるようになるのが夢だったんだよな」
「へ?」
「ラ・カンパネラをピアノ用に編曲したフランツ・リストってヤツはな、ピアノの魔術師って呼ばれてるんだ。ラ・カンパネラはどれもこれも難しい。オレが弾いたのは、その中でもエチュード……難易度が低いほうの練習曲集のひとつでな、自分用に更に難易度落としてもらったやつだった。1番難しいと言われている『ラカンパネラの主題による華麗なる大幻想曲 イ短調op.2』を弾いて、世に出してるヤツは世の中に、片手で数えられるほどしかいない。この意味、わかるだろ?」
「…………」
「オレにも夢はあったんだって話だ」
 兄は誇らしげに笑い、静かに弾き始めた。
 なので、修吾は何も言わずに、ゆっくりと床に腰を下ろし、あぐらをかく。
 弾き始まってすぐに、母が修吾の隣に腰を下ろした。
 驚いてそちらを見ると、母はお茶目な表情で、口元に人差し指を寄せた。
 静かに、と言いたいらしい。
 兄の指が綺麗に鍵盤の上を滑る。
 時折、険しい表情をしたので、ところどころもしかしたらミスったのかもしれないが、音楽にそれほど詳しくない修吾に、それはわからなかった。
 演奏が終わり、兄が息を吐く。
 その次の瞬間、待っていたかのように、母がパチパチパチ……と手を叩いた。
 つられて、修吾も両手を軽く合わせて、数回叩いてしまった。
「よせよ。拍手もらえるほどの演奏じゃねぇだろが」
「それでも、よぉ」
「1日触らないだけで元に戻るって言われる世界だぞ。4年も空けたんだ、自分でよくわかる」
 その言葉に、母の表情がすぐに翳る。
 それを見て、兄が慌てたように続けた。
「母さんさ」
「え?」
「もう、あんま気にすんなよな」
「…………」
「正直、あのまま大学行っても、音楽って金の掛かる世界だし。世界コンクールとかなったら、それこそ、うちなんかじゃ無理だったと思うんだよ」
「賢くん……」
「親父は許せねぇけど、それ以上に、甘えてたのはオレのほうだ。だから、母さんが気にすんな」
「……ぅん……」
「今からでも、母さんの専属ピアニストになることくらいなら、できっかもしんねーしな」
 ニッと笑みを浮かべる兄。
 母はその笑顔で安心したのか、おっとりと柔らかく笑った。
「でもま、今日はこれでおしまい。さすがに指が疲れた」
「ざーんねん」
「あんまり酷使すると、弾けなくなっちゃうんでね」
 首をゆっくり回して立ち上がると、あーのど渇いたと言って、兄は部屋を出て行ってしまった。
「あ、そういえば、修くん」
「ん?」
「七夕祭り行くんでしょう? 服どうする? 浴衣とか作務衣、着たかったら出すわよ? お父さんと賢くんのがあるから。お下がりだけど」
「そっか。じゃ、浴衣……」
「因みに賢くんの趣味だから、黒と赤のいなせな感じよ」
「着崩れした時が心配だから、作務衣にするよ」
「ぷっ……そんなに嫌かしら。似合うと思うのに」
「兄貴のタッパだから合うんだよ、それは」
「そ。じゃ、賢くんが中学の頃着てた作務衣、出してくるわね。お父さんのじゃ渋いし、大きいものね」
「……ありがとう」
「いいえ。息子の恋の架け橋になれるなんて、お母さん幸せ♪」
「な、何言ってんだよ!」
 修吾の叫びなぞ気にもせず、母は軽やかに立ち上がって部屋を出て行った。
 その後、兄がサイダーの缶を片手に顔を見せ、「ヒューヒュー」とだけ行って去っていった。
「……あー、今度からうちを拠点にするの、よしてもらお……」
 これでは、あまりにもイベントごとの情報が筒抜けすぎる。
 特に、よく考えてみると、柚子や勇兵と、ピンで遊ぶことは何度かあったと思うが、こうやってみんなで外で遊ぶのは、初めてのことだ。
 これも、カンバスの彩のひとつになるのだろうか。
 なんとなく、そんなことを思った。



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