◆◆ 第9篇 星祭り・キミノヒカリ ◆◆

Chapter6.渡井 柚子



『留学?』
 電話の向こう、舞の声はそれだけで止まった。
 なので、柚子は慌てて言葉を継ぎ足す。
『い、いつかね、行くのかもしれないって、だけの、話なんだよ。本当は、中学卒業と同時に、って……言ってくれてる人が、いたんだけど、色々あってさ……』
『はぁ……柚子って、やっぱ、すごいんじゃん』
 感心した舞の声。
 けれど、誉められてすぐに柚子の表情は翳った。
『す、すごくなんて、ないよ……』
『いやいや、すごいって。柚子はもっと自信持って、胸張ればいいんだよ。人に見られただけで、俯いて「ごめんなさい」だもんね。そういうとこ、徐々に直してかないとさー。付け入られちゃうよ』
『う、うん……』
『そっかそっかぁ……。柚子も、いつかはどっか遠くに行っちゃうのかぁ……』
『…………』
『すごいね。柚子の好きなことで、しかも、それが、他の人にも欲しいって思われるんだもんね』
『……でも、わたしは、何も、考えてないよ』
『ん?』
『心の奥から湧き上がってくるままに描いて、描き直して、その繰り返し。頭でなんて、ひとつも考えてないの。もしも、心の奥の、泉? みたいなものが、涸れちゃったら、きっと全部終わりなんだよ』
『柚子?』
『だから、すごくなんて、ないんだよ……』
『…………。だぁいじょうぶよ』
『え?』
『泉が涸れたら、あたしが水を引いてあげる。柚子はもう、独りじゃないんだから』
『舞ちゃん……』
『あ、そうだ! 隣町の七夕祭り、みんなで行かない?』
『え?』
『あ、それとも、頑張ってニノ誘う?』
 茶化すような舞の声。
 あの綺麗な顔を可愛らしくにんまりさせている姿が目に浮かぶ。
 柚子は熱くなる頬を押さえて、ゆっくりと首を横に振った。
『ううん。みんなと行きたい』
『……いいの?』
『うん。みんなと、がいい』
 柚子を取り巻く環境は、緩やかに、それでも、柚子の中ではとても速いスピードで移り変わってゆく。
 独りだと思っていた自分に、友達ができ、好きな人ができ、そして、更に仲間の輪ができた。
 今は、それが嬉しくて仕方がないのだ。
 絵なんて置き去りにしてもいい程に、今、柚子は楽しくて仕方ないのだ。
 だから、彼と2人では勿体無い気がしてしまう。
 それに、修吾だって、そのほうがきっとたくさん笑顔を見せてくれる。
 そんな気がする。



 修吾と舞がお化け屋敷から出てくるのを待つ間、秋行に誘われるまま、近くの屋台を見て歩き、金魚すくい、ヨーヨーすくい、射的といったミニゲーム形式のお店でひととおり遊んだ。
 体のこともあって、普通の運動は苦手なようだが、こういった遊びは得意なのか、秋行はどれでも、柚子の希望どおりのものを取ってくれた。
 水ヨーヨーを4つ指から垂らし、大きなくまのぬいぐるみを抱えて、柚子は満足げに笑う。
 それを見て、秋行も楽しそうに笑い、水ヨーヨーを2回ほど弾ませた。
「金魚、本当によがったべか?」
「うん。生き物は、持って帰っちゃ駄目って言われてるから。でも、秋行くんすごかったよ」
「へへー。ありがと」
「水ヨーヨーも全員分取ってくれたし、それに、このくまのぬいぐるみだって!」
「柚子チャンは、くまさんが好きなんだ?」
「え? うん。わたしも、好きなんだけど……」
「ん?」
「舞ちゃんが、喜ぶかなぁって、思って。舞ちゃん、今週お誕生日なの」
 柚子はそう言って、更に大事そうにぬいぐるみを抱えた。
 秋行がその様子に、少々不満げに目を細める。
「なんだ。また、シャドーか……」
「え?」
「柚子チャンはあれだべ」
「あれ?」
「自分のごど、2の次にしすぎだべ。欲しいって言うがら取ったのに、そんなのあんまりだぁ」
「え? え?」
「……んー。ま、いいべ。柚子チャンは、それで嬉しいんだもんな?」
「う、うん……」
「だったら、いいべ」
 心許なく秋行を見上げると、秋行はその不安げな様子を感じ取ったのか、いつも通りの優しい笑顔で応えてくれた。
「ボク、思うんだけど」
「何?」
「修吾クンとシャドーって、物凄くお似合いだよね? 学校でも、そんな噂よぐ聞くし」
 優しい笑顔のまま、それでも、持ち出してくる話題は意地悪な気がして、柚子はキョトキョトと目を泳がせた。
「お化け屋敷のごど、結構あっさりとオッケーしてだがら、意外だった」
「意外って? だって、舞ちゃんに我慢して欲しくなかったんだもの。お祭りの事だって、言い出したのは舞ちゃんだから、ちゃんと楽しんで欲しかっただけだよ」
「柚子チャンは、自分よりシャドー優先なんだべが?」
「…………。どういう意味かな?」
 柚子は小首を傾げて、秋行に視線を戻した。
 秋行はその視線が意外だったのか、怯んだように目を見開く。
「……好きな人、被ったりしても、譲ってしまうのがなぁって」
「被らないよ」
「へ?」
「わたしと舞ちゃんは、人の好みが違いすぎるもの」
 そう。
 あの人と自分では、好みが違いすぎる。
 だって、もしも、自分が彼女だったら、自分は絶対に”渡井柚子”を親友になどしない。
 自分の好きなことにしか興味がなくて、悩んでばかりで、他人の相談にも上手く乗れない。
 そんなコミュニケーション能力に欠けた人間など、絶対に親友にはしない。
 そうでなければ、自分が苦しいときに、容易に崩壊してしまうから。
 けれど、彼女は自分を選んだのだ。
「わたし、自惚れてるんだと思うの」
「ん?」
「修吾くんも、舞ちゃんも、わたしの嫌がることは、絶対にしない。とっても、波長の合う人たちだって、勝手に、そう思ってる」
「…………」
「だから、わたしにできることはなんでもしたいなぁって。お化け屋敷だって、ほんとうは、一緒に入ってあげられればよかったけど、わたし、パニック起こしちゃうと、手が付けられなくなるから。……でも、修吾くんが一緒なら舞ちゃんも入らざるをえないでしょう? あの子、グループ行動の時に、1人で勝手な行動取れるような子じゃないから、むしろ、秋行くんがああ言ってくれて、よかったと思うの」
 話しながら、ほんのり上気していく頬の熱が心地よくて、柚子は目を細める。
 この『幸せ』の風景の中に、みんなの笑顔が咲いていく。
 きっと、振り返った時、それはとっても良い思い出になる。
 お祭りが始まってから、こうやって、ペアに分かれての行動が目立っていることは残念だけれど、それで舞が少しでもつまらない思いをするくらいなら、このほうがいいのだ。
「ふーん。それならいいけど。ボクも、柚子チャンと回れで、すっげー楽しかったし」
「うん、わたしも……」
 秋行の言葉に笑顔でそう返し、柚子はくまのぬいぐるみを抱え直した。
 その瞬間、浴衣の裾がずり落ちた気がして、立ち止まる。
 少しはしゃぎすぎただろうか。
 そんな後悔が、心の中を過ぎる。
「柚子チャン?」
「……ちょ、ちょっと、浴衣が……」
「ん? あ。……あっち。あそこなら、2人を待つのにも、浴衣直すのにもちょうどよさそだ」
 浴衣の裾に視線を落とし、すぐに察して、秋行は柚子からくまのぬいぐるみを奪い、空いているほうの手で、柚子の手を取った。
 この暑さの中、ひんやりと冷たい手。
 その温度にドキリとする。
「で、でも、わたし、浴衣直せない……」
「大丈夫。ボク、着付けでぎっから」
 その表情はとても頼もしくて、泣きそうになった柚子の心を励ましてくれた。



 結局、帯も締め直してもらうことになり、かなり迷惑を掛けてしまった。
 申し訳ないやら、人目が少ないとはいえ、道路で帯締めのし直しをしなければならず、恥ずかしいやらで、柚子は直してもらってすぐに、泣くのをこらえながら、秋行に何度も「ありがとう」と言った。
 彼は慣れた様子で笑って、「気にしなくていいがら」と言い、さりげなく柚子の頭を撫でた。
 くすぐったさに怯んだが、感謝の気持ちもあって、そんなに嫌だとも感じなかった。
 それが、その手を拒まなかった理由。
 けれど、困ったことに、笑っていて欲しいその人が、とても怖い顔をして、秋行のことを今睨みつけている。

「修吾、くん?」
 柚子の呼びかけに、修吾はすぐに柚子の手を取った。
 少し汗ばんだ手。
 あこがれ続けた骨ばってガッシリとした手に、ドクンと胸が鳴った。
 柚子を引っ張って、修吾が歩き出す。
「ちょ、ニノ? どこ行くの?」
 後ろからその行動を制止する舞の声。
 修吾が立ち止まって、ゆっくりと振り返った。
 柚子は逆らうこともできず、手を取られるまま、立ち尽くす。
 触れられているところが熱い。
 熱くて、頭がおかしくなりそうだ。
「ごめん。ペア交代」
 修吾がはっきりとそう言い切る。
 怖い声と怖い顔。
 柚子は泣きそうになって、俯いた。
「けど、そろそろ、山車行列が来る時間だよ?」
「…………。すぐ、戻るから」
「あー。じゃ、あっちの十字路で待ち合わせね。合流できなかったら、柚子のおばあちゃん家。いい?」
「わかった」
 修吾は柚子には特に確認も取らずに頷くと、また広い歩幅で歩き出す。
 柚子は引きずられるように歩きながら、懸命にそのスピードについていく。
「ほんっと、言い出したら聞きゃしないんだから……」
 後ろで、呆れたような舞の声がした。

 山車行列が始まる時間帯に差し掛かってきたので、外に出てくる住民の数も増え、通りが混み合い始めた。
 人ごみが苦手だと言っていた修吾は、それを気にする様子もなく、「すみません」と言いながら、人を押しのけて進んでいく。
「あ、あの、修吾くん」
 意味も分からずに引きずられて、呼びかけても何の返答もない。
 なんとなく、分かっているのは、彼が怒っている、ということだけだった。
 今日は、柚子にとって、とても楽しい日になるはずだったのに。
 どうして、彼は不機嫌なの?
 楽しくなかったの? 楽しめてないの?
 不安で、先程堪えた涙がこみ上げてくる心地がした。
 足、痛いな。
 そんな言葉が頭を過ぎった。
 歩くの速い、っていつも言ってるのに。なんでわかってくれないの?
 そんな言葉がその後に続いた。
 人ごみを押しのけて押しのけて、ようやく空いた路地に入る。
 提燈が飾られている通りの終点。
 通りの端っこまで、来てしまったのだ。
 修吾が立ち止まったので、柚子も立ち止まった。
 息を整えようと、何度も呼吸を繰り返した。
 汗が頬を伝ったので、巾着に入れていたハンカチを出して拭う。
 それを見て、修吾も気が付いたようで、ようやく優しい声を発した。
「ごめん。疲れた?」
 コクンと頷いた。
 それを見て、修吾が気まずそうに息を飲む。
「下駄だし、足痛い。それに、修吾くんは歩くのが速いんだって、わたし、いつも言ってるのに……」
 速くたって、追いつけるうちはそのスピードで歩けばいいと思っていた。
 でも、今日は、ついそう言ってしまった。
 彼の行動の意味がわからなかったのと、足の痛みと、不安がごたまぜになってしまったせいだと思う。
「ご、めん……」
 ここまで引っ張ってきておいて、柚子の様子を見た途端、彼の態度はいつも通り。
 何か、話したいことがあったから、引っ張ってこられたのではないのだろうか。
 せっかく、初めて、手だって繋げたというのに。
 暗くて、彼の表情はよくわからなかった。
「ごめん。カットバン、持ってきてるから……」
「…………」
 そうじゃないでしょう?
 そう言いかけて、でも言えなかった。
 引っ張ってきたのは彼だ。
 いつものように、こちらから問いかけるのは、何か違う気がした。
 修吾は作務衣のポケットを、空いているほうの手でゴソゴソと漁り出した。
 けれど、柚子が何も返してくれないことに気が付いて、手を止める。
 通りでは山車行列が始まったのか、賑やかな音頭が流れ出した。
「あ、ご、ごめん……!」
 音で少し冷静になったのか、修吾は握っていた手を慌てて離した。
 ほんのりとした、恥ずかしさと心地よさに似た温度が消える。
 それに寂しさを覚えながらも、柚子はおかしくて、クスリと笑った。
「謝ってばっかりだね」
「……ごめん」
 目が慣れて、彼の表情がほんの少し感じ取れるようになった。
 いつもは凛々しい眉を、情けなく八の字にして、こちらを見ている。
 怒っているんじゃないの?
「……何か、用事?」
「え?」
「急にこんなところまで引っ張ってこられたから、こっちはビックリだよ」
 柚子はつんと刺すような涙の匂いを無視して、優しく苦笑してみせた。
 けれど、その言葉で困ったように、修吾の表情が曇る。
「修吾くん……?」
「なんでも……」
 搾り出すように、彼が小声で何か言った。
 聞こえなかったので、首を傾げてみせると、彼は失笑まじりで、申し訳なさそうに言った。
「ごめん。別に、なんでも、ないんだ……」
「……そう」
 いつでも、この人は自分の感情になど気が付かない。
 気に掛けて欲しいなどと、そんなことを考えているわけではないけれど、それでも、先程まで楽しさで弾んでいた自分の心は、目の前の彼の行動で、みっともないほどにぺしゃんこになってしまった。
 考えていることが、よくわからない。
 口下手で、シャイな人だということはよくわかっている。
 それでも、やっぱり、言葉にしてもらえなければ、何もわかることなんて出来ない。
 そんなつもりはなかったのに、ポトリ、と涙がこぼれた。
 いち早く気が付いたのは修吾で、驚きを隠せずに、目を見開いたのがわかった。
「わた、らい……?」
「よく、わからないよ」
「え?」
「なんでもない訳ないのに」
「…………」
「どうして、そんな風に言うの?!」
 気が付いたら、足の痛みなど置き去りにして、駆け出していた。
 泣いてしまった自分を見られたくなくて、彼の前にいたくなかったのだ。
「渡井! ちょっと! まっ……!」
 後ろで、必死に叫ぶ修吾の声。
 けれど、人ごみに邪魔されたのか、彼は追っては来られなかった。

『とっても、波長の合う人たちだって、勝手に、そう思ってる』

 あの言葉を、本当に、自分自身の自惚れだなどと思いたくないのに。



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