◆◆ 第9篇 星祭り・キミノヒカリ ◆◆
Chapter9.渡井 柚子
『絵以外のことでも、楽しい3年間を過ごして欲しいんだ』 入学式の朝、父は優しい笑顔でそう言った。 絵だけでいい、と投げやりになっていた、あの頃の自分の心には、父の想いは届かなかったけれど、今なら、笑顔で父に言えると思う。 誰かと一緒に過ごすことを、柚子にとってのお絵かきと一緒だと、言ってくれた人がいたんだよ、と。 「話があるんだ……。聞いて、くれる、かな?」 ゆったりとしたぬるい風に、柚子の髪が微かに揺れる。 彼と一緒にいると、いつもドキドキしている胸。 彼の真っ直ぐな眼差しに、更にスピードが上がった気がした。 「だ……」 「え?」 「駄目、って言ったら、どうするの?」 柚子の照れ隠しの言葉に、修吾がキョトンとする。 けれど、すぐにこう続けた。 「駄目でも、話すよ」 「あは。じゃ、質問の意味ないよ」 「……そだね」 柚子のカチンコチンの笑顔に、彼も優しく笑った。 今の自分は不自然じゃないだろうか? 上手に、笑えているだろうか? 「そ、の……ごめん」 「え?」 「さっき。無神経だった。渡井、怖かっただろ?」 「……うん」 「ごめん」 「怖かったけど、それはいいの」 「え?」 「修吾くんが、どうして怒っていたのか、それが知りたいの」 勇兵に言われたとおり、真っ直ぐに疑問を口にした。 柚子の言葉に、修吾の目が心持ち開かれ、その後、照れくさそうに目が泳いだ。 「ねぇ、どうして? わたし、何かいけないことしたかな?」 怒らせるようなこと、したのかな? あんな風に癇癪をぶつけてしまったわたしを、嫌いになってない? あふれてくる感情の漣を押し殺して、柚子は静かに彼の言葉を待つ。 修吾が落ち着かないように髪に触れ、その後、決意したようにこちらを見た。 「……した」 「ぇ?」 「南雲くんに、嫉妬した」 「……え?」 「だから、南雲……」 「あ、ご、ごめん、聞こえてる。だいじょうぶ」 恥ずかしそうな修吾の表情を読み取って、柚子は慌ててその言葉を遮った。 2度目の問い返しはそういう意味じゃない。 彼の言葉の意味を、理解できなかっただけだ。 「なんで、嫉妬なんて……」 「……僕が、我慢してること全部……余裕そうな顔でするから」 そう言った時の彼のふてくされた表情が、まるで子供のように可愛らしくて、その言葉の意味を問うよりも先につい噴出してしまった。 「なっ……笑うとこじゃないだろ、今の?! だから、言いたくなかったんだ!」 修吾がいつもの穏やかな雰囲気など忘れたように、同年代の男の子らしい口調で声を張った。 ああ、そういえば、自分も羨ましいと思っていた。 彼の素の部分を、容易に引き出してしまう、舞のことを。 修吾も、そうだったのだろうか。 ……修吾も? どうして? だって、自分が舞を羨ましいと思うのは……。 答えに辿り着いて、柚子は笑うのをやめた。 どうしよう。 溶けそうだ。 自意識過剰でないと、こんなに信じたいことは初めてだ。 耳元で鼓動が騒ぐ。 急に笑うのをやめて、視線を向けられたことに驚いたのか、修吾はまたもやキョトンとする。 「な、なんだよ……。何?」 心配そうに、修吾が膝を折って、柚子の視点の高さに合わせてくれた。 空気が薄くなった気がして、柚子の体感温度が急上昇する。 「渡井……?」 彼の言葉に我に返り、柚子は慌てて口を開いた。 「みんなでお絵かきしようって言ってくれたの、覚えてる?」 「……うん、覚えてる」 直接的な表現をしたのは柚子で、彼はそのようには言わなかったけれど、あの言葉がとても嬉しかった。 柚子の、宝物だった。 みんなで集まって、みんなで遊んで、その中の彼の笑顔や怒った顔、色々な表情を切り出すことが、柚子にとって、1番の幸せだったのだ。 「修吾くんは……わたしが欲しい言葉をくれたんだ」 「…………」 「人付き合いが得意じゃないわたしにとって、あの言葉は、とってもすごい言葉だったの。そっか、絵と一緒なんだ。じゃ、難しく構えなくても、わたしにも出来るのかなって」 「渡井……」 「修吾くん、入学式の時、新入生代表で挨拶したでしょう?」 「……うわ、なんで、そんなの覚えてるんだよ」 「すごく印象深かったから」 「え?」 「修吾くんは嫌がるかもしれないけど……、とっても綺麗な顔の男の子が、緊張の様子ひとつ見せずに、綺麗な姿勢で壇上に上がっていく。それが、すごく絵になってた」 「…………」 「しかも、ポケットから取り出した紙は一切開かずに卓上に置いて、はっきりした声でつっかえずに読んだよね。あれが、すごくカッコよかった。校長先生だって、生徒会長さんだって、あんな風には出来ていなかったのに、だよ」 「……やるからにはちゃんとやらないと、気が済まないんだよ」 それをカッコつけと揶揄する男子がいたことも、柚子は知っているのだけれど、それでも、彼の人となりを知れば、きっとそんな言葉は出てこない。 この人は、自分で出来る範囲のことをしっかりとやっているだけなのだ。 だから、彼にとっては当然のことで、それには全くの価値がない。 それが格好のいいことだなんて自覚は、これっぽっちもないのだろう。 「たぶん、一目惚れだったんだ」 柚子にとっては自然な流れだったが、修吾にとってはそうではなかったようで、動きが止まった。 その反応で、余計に恥ずかしくなって、柚子は俯いて、パタパタと手うちわで顔を扇ぐ。 しばらくして、顔に涼しい風が舞い込んできた。 顔を上げると、修吾が団扇で扇いでくれていた。 「あ、ありがと……」 「なんで言うの?」 「え?」 ん? どういうこと? 言ってはいけなかった? もしかして、自分の勘違いで、両想いではない? ぶすっとした修吾の反応に、柚子の頭の中で、そんな言葉が飛び交う。 「ぼ、オレが言う流れだっただろ?」 「え……?」 意味が分からなくて、柚子は首を傾げた。 修吾がむっと口を尖らせる。 舞が言っていた。こういう時の修吾は、照れている、と。 「だから、話聞いて欲しいって、言ってるんだし、オレが言うところだったんだって」 柚子から言って欲しいけど、言ったら言ったで面倒なこと言いそうね。 そんなことも、舞は言っていた気がする。 「負けず嫌い」 柚子はクスクスと笑った。 もう、こちらは言ってしまったから気が楽になってしまった。 「笑い事じゃないよ……」 両想いであることを喜ぶよりも先に、どちらから言ったかなどという瑣末なことで、腹を立てる彼がおかしくて、笑わずにはいられない。 「うん。じゃ、聴かせて?」 「え?」 「聴いてるから、聴かせて?」 何度も問う。 自分は、上手に笑えている? と。 きっと、顔は真っ赤で見れたものじゃないと思う。 でも、あちらだって一緒だ。 真っ赤になって、柚子の言葉に困ったように頭を掻く。 彼が口を開くまでは相当長かった。 それでも、柚子は身じろぎひとつせず、それを待った。 「その……」 彼が口を開く。柚子のためだけに。 きっと、今が人生で1番贅沢な時間だと思う。 『絵以外のことでも、楽しい3年間を過ごして欲しいんだ』 それは、父の言葉だ。 うん、楽しいよ、とっても。 この人のおかげで、わたしは、とっても楽しい。 「あ、来た来た♪ 山車、あっちの通りに集まってるから見ながら帰ろう?」 十字路に戻ると、山車行列はもう終わっていて、人はだいぶはけていた。 舞が大事そうにくまのぬいぐるみを抱えており、秋行がふてくされたように通りを眺めている。 「ごめんね、遅くなって」 柚子が小首を傾げてそう言うと、秋行はチラリとこちらを探るように見て、コクリと頷いた。 「……無事でよかった……」 それだけ言って、どこで買ったのかわからないが、狐のお面を被って、またもやふいっとそっぽを向く。 器用に見せているだけで、この人もだいぶ不器用な人だと思う。 秋行は、修吾とはひとつも言葉を交わさなかった。 そんな微妙な空気を察しながらも、舞がそそくさと柚子の脇に来て、さっさと歩き出した。 「どうだった?」 「後で」 「おあずけ?」 「だって、後ろにいるし」 残念そうな舞の顔。 それがおかしくて柚子はクスリと笑った。 真っ直ぐに自分を見つめる彼の表情が思い起こされる。 いつでも、彼の視線には力があって、柚子はついそれに見惚れてしまう。 想像だけで言っているから、実際にどうかなんてわからないけれど、彼がその姿でなくても、それは同じだったと思う。 回想の中、彼の口が動いた。 それを思い返すだけで、照れがよみがえってくる。 「やっぱり、わたしだけのものだから、誰にも言わない」 「…………」 「な、なに?」 「ご馳走様。その言葉だけで十分だわ。あたしには刺激が強そう」 「そ、んなこと……」 「キミらは純度が高すぎるんだよねー」 「そ、そんなこと……」 「だったら、手繋いで戻ってくるくらいの貫禄見せろよぉ」 はっきりとした口調でからかう舞。 柚子はボボボッと顔が熱くなった。 手を繋いで引っ張りまわされたのが揉め事の原因だったのもあり、修吾が配慮してくれただけのことだった。 彼は本当に繊細で、繊細すぎて、時折、強引さに欠ける。 残念に思いながらも、その優しさすら心地よいのだと言ったら、きっとまた舞にからかわれるだろうから、絶対に言わない。 「そういえばさー、戻ってきたら、モグ、あの狐のお面被ってたんだよねー。あたしに対するあてつけかなぁ」 「本物は駄目なんだっけ?」 「お化け屋敷はいいんだけど、怪談と本物は駄目ね。アトラクションだからいいんじゃん。存在になんて興味ない」 「ふふ……舞ちゃんらしい。でも、なんで、あてつけ?」 「お前は留守番、みたいなこと、言ったから?」 「それだけで……?」 「そりゃあ……あ、気付いてないのか」 「え?」 「ううん。なんでもない。気にしなくていい」 「そう?」 「ぅん。あたしが言っちゃ、駄目なことだから」 「そっか」 「……夏も終わりかぁ」 空を見上げて、思い出したように舞が言った。 「そうだね」 柚子は小さくそう返して頷くだけ。 「誕生日には、いつも思ってたよ」 「何を?」 「夏が、終わるんだなぁ……。あたし、この1年間、何が出来たかなぁって」 「そっか。舞ちゃんは、この1年間、何が出来た?」 「ん? 部活でしょー?」 優しい笑顔で、柚子の問いに答える舞。 指折り数えながら、まずは修吾を指差してそう言った。 修吾がそれに驚いたのか、きょとんと目を見開く。 それがおかしくて柚子は笑った。 「うん」 舞はすぐに前に視線を戻し、宙をキョトキョトと見つめた。 「……恋愛?」 恥ずかしそうに舞の声。 きっと、彼女は知らない。 その時の彼女が、いつでも1番可愛いのだということを。 「うん」 「熱闘球技大会」 今度は秋行を指差して、そう言った。 秋行も、修吾と同様、意味が分からないように首を傾げた。 「あは。うんうん。カッコ良かったよ♪」 笑顔で頷く柚子に視線が向く。 それで、つい、柚子は呼吸を止める。 やんわりと舞の目が細まった。 「親友」 出来たことを問うたのに、出来たものを答えるなんて、卑怯だ。 清香の件では、”恋人”とは言わなかったくせに。 この人は、本当に……。 人のことをいつもからかうくせに、絶対にこの人のほうが恥ずかしいことを言う。 純度の高さだけなら、絶対に、彼女が上だ。 「……バカ……」 照れて、つい、柚子はそう言ってしまった。 舞がその言葉に驚いたように目を見開く。 最近、照れ隠しの量が増えた。 ニコニコして応えるには、キャパシティが追いつかない。 「今日は、帰ったら絵を描こうっと」 「宿題やりなよ」 「う……」 「ふふ。……どんな絵?」 「星空の停車場で、男の子がおじいさんと笑って話している絵」 「何それ?」 「子どもの頃に読んだお話。誰が書いたか分からないけど、わたしの、大好きなお話なの」 「あ、前言ってた、”幸せの欠片”がどうとかっていうやつ?」 「うん」 「そんな良い話なら、本屋で見つかるかなぁって思ったけど、見つからなかったなぁ」 「見つかるわけないよ」 「え?」 「……だって、それ、小学生の作文コンクールで賞を取った作品だもん」 「…………。そうなんだ? だったら、名前なんてわかりそうなものなのに」 「冊子、なくしちゃったの」 「ああ……なるほど」 「そのお話は、わたしに欲しい言葉をくれたんだよ」 「……どんな?」 「やりたいことだけやることができない理由」 「ふぅん」 「そして、いつか、苦しくなくなる時が来るって」 柚子は柔らかく笑った。 あのお話は嘘をつかなかった。 だって、今、自分はこんなにも笑っていられる。 あの作品を書いた人にも、そのいつか、が訪れていればいいな。そんなことを思った。 |