◆◆ 第10篇 筆の海・未完成の肖像画 ◆◆

Chapter1.渡井 柚子



『柚子? どうしたの?』
 幼い頃、泣いているといつも母が飛んできて、優しい声でそう問いかけてくれた。
 大事にされていた、いや、今もされていると思う。
『がっこう、いぎだぐないぃ……』
 今にしてみれば他愛のないことだけれど、あの頃の自分にとっては、とても辛かった。
 自分のしたいことも出来ずに、やりたくもないお勉強をたくさんやらされる場所。
 他の人と同じ行動、同じリズムで過ごさなくてはいけないことが苦痛だった。
 それが守れないだけで、先生に怒られてしまうのも、子供心に納得がいかなかった。
 そういう決まりで、学校はそういうところなんだから、と言われても、それは変わらなかった。
 出来の悪い子は可愛いもの、という言葉にだって、やっぱり限度はある。
 手の掛かる子供なんて面倒でしかない。
 担任の先生が、自分のことを見放すのは、随分早かったと思う。
『行きたくないなら行かなきゃいいのよ♪』
 自分と一緒で芸術家肌の母はノーテンキな笑顔でそう言い、その後、必ず父の突込みが入った。
 突っ込み、というよりかはゲンコツか。
 大人の女性があんなに綺麗にカチコンとゲンコツされる姿は、母以外では未だに見たことがない。
『おかしなことを教えるな! それが普通なんだと、ユズが覚えたらどうするんだ?!』
 マイペースに家で絵ばかり描いている母とは違い、父は真面目を絵に描いたような人だった。
 柚子が世界の枠からはみ出てしまうことを心配して、母が世間的には間違ったことを教えようとすると、必ずそう言って、母を叱った。
 そうすると、母は決まってこう言い返すのだ。
『少し毛色の違うものを排除しようとするのは日本人の悪しき文化だわ。常識なんて、腹も膨らまないものを気にして何になるのだか。常識だかなんだか知らないけど、それで傷つく人間が存在するのなら、それは”常識”という単語を用いるのには不相応な知識だと思うわ』
『……キミは、またそんな屁理屈を……。しょうがないじゃないか。世間は、そういうくだらないもので、構成されているんだから!』
 母の言葉に、父はいつもたじろぎ、そう言い返すのだった。
 父は父で、上手く折り合いをつけて生きてきた人だったのだと思う。
 中学を卒業して、こちらに引っ越してくる時、母は柚子にだけこっそりと父がなりたかったものを教えてくれたことがあった。
 けれど、年下の母と恋に落ちたことで、父のなりたかったものは、あっという間に消え去ってしまった。
 柚子が、産まれたからだ。



『そこはちがうよ、このいろだよ!』
 図画工作のお絵かきの時間。
 決まって柚子はそう言って、周囲の子どもたちのお絵かきの邪魔をした。
 細かな色彩など気にせずに色を選んでゆく同年代の子のセンスが、研ぎ澄まされ過ぎていた柚子の感性では理解が出来なかったのだ。
 今であれば、自由に描けばいいと、それだけ言って笑うことが出来るけれど、昔の自分にはそれが出来なかった。
 だって、柚子の目に映し出される世界は、彼らが選ぶようなビビッドな世界ではなく、淡く、様々な色の組み合わさった、とても美しいものだったのだから。
『せんせい、ゆずちゃんがわたしのえにラクガキしたぁぁ!』
『ちがうよぉ! そのいろじゃないんだもん! こっちとこっちのいろをたすんだもん!』
『はいはい、静かに! ……柚子ちゃん? 人の邪魔はしないで、自分の絵を描いてなさい?』
『……もう、できたもん』
 柚子は机に置いておいた画用紙に視線を落として、グッと唇を噛む。
 出来上がってしまったものに色は置けない。
『……もうですか?』
 先生が驚いてこちらに歩いてくる。
 柚子はコクンと頷いた。
 もう1枚、画用紙をくれるだろうか?
 それだったら、もっとたくさん描ける。
 淡い期待をこめて先生を見上げたが、それと同時にチャイムが鳴った。
『あら、もう終わりね。柚子ちゃんは、次の時間から自習道具を持ってらっしゃい』
『え……? でも、このじかんは、おえかきのじかん……だよ?』
『そうなんだけどね。ほら、柚子ちゃん、まだ算数の引き算、上手く出来ないでしょう?』
 柚子は先生の言葉に、グッと奥歯を噛んだ。
 せっかくの好きな時間まで、嫌いなことをさせられる。
 最悪だ。
 そんなことを思いながら、シュンとしょげる。
『算数が出来るようになれば、色々と役に立つから』
 先生は笑ってそう言った。
 お絵かきは……?
 お絵かきは、役に立たないの……?



「ユズさん?」
 放課後の教室で、1人ぼーっとしていたら、後ろからそう声を掛けられた。
 自分のことをそう呼ぶ人は1人しかいない。
 すぐに笑顔を作って、柚子は振り返る。
「修吾くん。部活終わったの?」
 学ラン姿の修吾がそこに立っていた。
 10月を過ぎ、衣替えも既に終わった。
 文化祭が近づき、周囲は少々慌しい。
 修吾ももちろん文芸部の準備で、バタバタと駆け回っていた。
 昨年までは文化祭の準備は1年生の担当になっていた、と舞の愚痴にて聞いていたが、今年からは方針転換をして、全員で取り組むことにしたのだそうだ。
 言い出したのは、部長の鳴だったそうだ。
 昨年取り組めなかった分を取り返す意味もあっただろうけれど、おそらくは、先代の部長の忘れ物を彼女が果たしたのだろう、というのが、舞の見解だった。
「もしかして、わざわざ待ってた?」
「え? あ、ううん。修学旅行のしおりの表紙を頼まれたから……それを描いてたの」
「しおり?」
「……うん」
 不思議そうに首を傾げて近づいてくる修吾。
 机の上には、ノートと参考に渡された観光資料が乗っている。
 けれど、ノートが真っ白なことに気が付いたのか、修吾が心持ち目を細めた。
「浮かばなくて」
「そっか」
「うん。困ったな……」
「どうして?」
「わたし、修学旅行、行ったことないの」
「え?」
「小学校も中学校も、熱出しちゃって……行けなかったの」
「あー、そっか」
「だから、どんな雰囲気なのかもよくわからないし」
「……普通に、寺をバンッと描いちゃ駄目なの? ユズさん、そっちのほうが得意じゃない」
「……そうだけど」
「どうしたの?」
「参考に、ここ数年間のしおりも借りてきたんだけど」
「うん」
「みんな、楽しみにしているのが伝わってくる絵で」
「…………」
「わたし、引き受けてよかったのかな……って」
「描けない人に、先生は頼まないと思うよ」
 自信のない声を発した柚子に対して、修吾は優しい声でそう言い、ポンポンと頭を撫でてきた。
 柚子が見上げると、照れくさそうに修吾は手を離し、ぎこちない表情で視線に応えてくる。
 それがおかしくて、柚子はつい笑ってしまった。
「……ありがと」
「ううん。志倉先生、よく見てるからさ」
「…………」
「きっと大丈夫だよ」
「うん」
「……それに」
「え?」
「ユズさんは楽しみじゃないの?」
 修吾の問いに、柚子は小首を傾げた。
 その様子を見て、修吾が照れくさそうに視線をそらす。
「自由行動」
「…………」
「一緒に回るつもりでいたんだけど」
 そう言われて、柚子は顔がぼっと熱くなるのを感じた。
「あ、あー、そっか……」
「もしかして、シャドーたちともう約束した?」
「う、ううん。舞ちゃんは、回る人、決まってる、から」
 柚子の言葉に、思い至ったように彼は真面目な顔になり、小さく頷いた。
「じゃ、決まりだ」
 はっきりと言い切る修吾。
 いつになく、頼もしかった。
「また、舞ちゃんにでも焚きつけられた?」
「いや。純粋に回りたいと思ったから」
 またもや、はっきりと言い切る修吾。
 思わずぽかんと口が開いてしまった。
「どうしたの?」
「なんか、修吾くんって感じしないなって思って」
「……そういう反応する?」
「あ、ごめん。……嬉しい。ありがと」
 彼の表情が曇ったのを見て、照れくさいのを我慢しているのだと、やっと察した。
「これで、楽しみ出来たでしょ?」
「え? あ……」
「…………。さて、部室戻ろ」
「あれ? まだ終わらないの?」
「うん。忘れ物したの思い出したから戻ってきただけ」
「……そっか」
「……部室、来る?」
「え、でも……」
「終わったら、シャドーと一緒に帰ればいいよ」
「邪魔じゃない、かな?」
「机空いてるから平気だよ」
「じゃ、お邪魔しようかな」
 修吾の言葉に、おずおずとそう返すと、修吾は穏やかに笑い、そのまま踵を返して、自席へ向かった。
 机の中から文庫本を抜き出して、満足げに振り返る。
「また、本?」
「うん。今、インプット時期なんだ」
「インプット?」
「読みたいって時期と書きたいって時期があって、今は、読みたいって時期」
「そっか」
「書きたいって時期を、書かないといけないタイミングに合わせるのが難しい」
「……そうなんだ」
 柚子はその言葉の意味がよく分からず、小首を傾げて、相槌だけ打った。
 その反応に、修吾が寂しげな顔をしたような気がした。
「修吾くん?」
「先に行ってる。部室分かるよね?」
「あ……うん」
 柚子が頷いたのを見て、すぐに教室を出て行った。
 柚子は机の中に広げていたノートや資料をまとめ、机の横に掛けてあるバッグを手に取った。



「へぇぇ。しおりの表紙ねぇ……。美術部はいいの?」
 舞は作業しながら、器用に柚子に話しかけてくる。
 部室の奥にある大きな机には鳴。
 床では模造紙に何かを書き写している1年生が3人。
 男子が1人と女子が2人。
 いつの間にか、部員が増えたらしい。
「うん。絵だったら、持って帰ってくれませんか? って言われるくらい、美術準備室に置いてあるから」
「あはは。なるほど。ねぇ? 夏休みに描いたあの絵は出すの?」
「え?」
「ほら、星空の停車場、とかいうやつ」
「あ……ああ、あれかぁ」
「あたしは好きだから出して欲しいんだけどな。柚子の絵にしては珍しくファンタジーだし」
「あれは……発表するつもりで描いたものじゃないから……」
「そうなの? 残念……」
「そんなに気に入ってくれたなら、舞ちゃんにあげるよ」
「まじ? それは嬉しいなぁ♪ 額に入れるよ」
「ふふ……大げさ」
「大げさじゃないって」
「あ……そういえば、修吾くんは?」
「ん? アイツは、場所の調整で今駆け回ってるところ。鳴先輩が推薦の準備で、着手が遅くなっちゃったから、あたしとアイツで分業したの。鳴先輩はない時間搾り出して、今は部誌の小説書いてるとこ」
「……そうなんだ」
 先ほど、教室に顔を出したのは、その合間だったらしい。
 大変だったろうに、あんなに優しく接してくれたのだと思うと、情けない気持ちがあふれ出す。
「柚子?」
「あ、ごめん。ぼーっとしちゃった。1年生、楽くん以外にも入ってたんだね?」
「ん? あー、そうね。始業式にさ、ニノが夏休み中のコンクールで賞取ったとかで表彰されたじゃない? 新聞にも文章載ったし。あれがアピールになったみたいでさ、9月に2人入ったんだ。しかも、片方、イラストも得意でさ。助かったよ、ホント」
「あの話、すっごく優しいお話だったよね」
「ふふ」
「どうしたの?」
「いや、漫画すら読まない柚子が、アイツの話だけは読めるんだからすごいものだなぁって思ってさ」
「べ、別に活字が読めないわけじゃないもん。興味がないだけで……」
「うん。だから、そんな柚子に興味を持たすんでしょ? アイツってすごいんだなぁって感心する」
「部誌の小説は出来たの?」
「……んー。アイツにしては珍しく、案もまだなんだよねぇ」
「そうなの?」
「ま、アイツが苦しみながら書いてるのなんて、いつものことだから、あたしは気にしないんだけどさ」
 舞は何気ないひと言のつもりで言ったのだろうけれど、柚子はその言葉に眉根を寄せた。
「柚子?」
「わたし、全然気付かなかった……」
「え? あー、いいんじゃない? アイツ、カッコつけだから、柚子には悟られないようにしてたんでしょ、きっと」
「…………」
「助けて欲しけりゃ、自分から言ってくるよ。気にしなさんな」
「うん……」
「作家ってのは、みんな、あんな苦しんで話書いてんのかなぁ。そんで、それに対する感想やら批評やら受ける訳でしょ……? 何が楽しいんだろうね? あたしにはわかんないや」
「……対話なんだよ」
「え?」
「自分自身じゃ上手く表現できないものを、作品に投影する。世界との、みんなとの対話になる。それに共感する人もいれば、反発する人もいる。好きな人・嫌いな人がいるのと一緒だよ。むしろ、その反応があればあるほど、その作品には我があるのだと、意志があるのだと実感できるんだと思う」
「……柚子……」
「見てくれる人がいなかったら、きっと書かないよ」
「…………」
「舞ちゃんは、こちゃこちゃ書く暇あったら行動しちゃう人だから、確かにこっち側の人じゃないよね」
「誉められてんだかけなされてんだか」
「勿論、誉めてるよぉ……」
「ならいいや。ありがと」
 舞はにんまり笑うと、いつの間にか止まってしまっていた手を動かし始めた。
 なので、柚子は邪魔をしないように、その様子を見守ることにした。
「戻りました」
 しばらくすると、そう言って、修吾が部室に戻ってきた。



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