◆◆ 第10篇 筆の海・未完成の肖像画 ◆◆

Chapter3.渡井 柚子



 別に、人間に興味がないなんてことはなかった。
 ただ、それ以上に好きなものがあっただけだった。
 自分の思うままに絵を描くこと。
 白い画用紙に。
 チラシの裏の白い部分に。
 家の障子や壁に。
 波打ち際の砂浜に。
 コンクリートの道路に。
 鉛筆で。
 絵筆で。
 クレヨンで。
 木の棒で。
 石ころや草の汁で。
 描けると思った場所にはいくらでも描いた。
 それさえ出来れば何も要らないほどに。
 絵が柚子の世界の全てだった。
 大きくなるにつれて、描いてはいけない場所があることを学んだけれど、それでも、絵筆を手放すことはなかった。
 きっと分かっていたのだと思う。
 それを手放したら、自分は呼吸さえ満足に出来なくなることを。
 それなのに、不思議だ。
 今回は、全然イメージが降りてこない。
 描きたいという気持ちにならない。
 テーマを与えられることは確かに不得意だけれど、それでも、こんなにもイメージが降りてこないことなどあっただろうか。
 せめて気分転換に、と、別の絵を描こうとも思ったけれど、描けていないその絵が気に掛かるのか、そちらのイメージも一切降りてはこなかった。
 柚子は鉛筆を置いて、ため息を漏らす。
「どうしちゃったんだろ、わたし……」
 夏休み前までは、毎日のように描いていた。
 それがいつの間にか、描くペースが落ちて、描かない日があっても気にならなくなってきていた。
 これは、どういうことだろう。
 絵よりも楽しいことが見つかったから?
 そんな言葉に行き着いて、浮かんだ舞と修吾の笑顔を振り払う。
 違う。そんなのは違う。
 それとこれとは別だ。
 だって……。
「描きたいのに……」
 気持ちばかりが焦って、イメージにならない。
 こんなことは、初めてのことだった。
 あまりにも描けない時は、ひたすら素描をすることに決めていたけれど、それすらもままならないほどに、今の自分には集中力が無かった。
「柚子?」
 部屋のドアをノックする音がして、その後、聴き慣れた母の声。
「なに?」
 返事をすると、すぐにドアが開いた。
 母が入ってきて、にっこりとご機嫌な様子で笑う。
 彼女はいつでも楽しそうだ。
 自分の感じるままに、思うままに、自由に世界と気持ちを通わせているかららしい。
 この人が辛そうな顔をしているところは、困ったことに一度も見たことが無かった。
 勿論、それがどれほど凄いことなのかも、理解している。
「今日、お好み焼きにするけど、大阪風と広島風、どっちがいい?」
「広島風……がいいかな」
「了解♪ ……なんか、複雑そうな顔してるわねぇ。何か悩み事? ママに似て、あんまり頭良くないんだから、いくら考えたって出ない答えは出ないぞ?」
 浮かない表情の柚子に、きょとんとした表情で、さっくりとそう言う母。
 柚子は苦笑するしかなかった。
「絵が描けないの」
「へぇ……柚子にもそんなことがあるのね」
「……うん。あるみたい」
「天才にも壁はあるんだねぇ」
「……そういう表現、好きじゃないよ」
「ふふ。でも、あんた、初めて描けなくなって、戸惑ってるんでしょ?」
「…………」
 調子が悪くたって、鉛筆だけは動かし続けるようにしていた。
 それすらも、今は出来ない。
 確かに、母の言うとおりなのかもしれない。
 夏休みから感じていた不安が、”修学旅行”というテーマの絵を描くことになって、顕著に露呈してしまった。
 そんな気がする。
「その苦しさを、今は存分に味わえばいいのよ」
「……え?」
 何かしらのアドバイスをくれるのかと思いきや、母は軽くそう言い放った。
 あまりのことに呆気に取られる柚子。
「だって、締切だってあるし……」
「だからって、自分の中で未消化で不完全なものを出しても、それで満足できる子じゃないでしょ、柚子は」
「そ、それはそうだけど……」
「だったら、気持ちとイメージが降ってくるまで待ちなさい」
 母は柚子の傍まで来て、人差し指で柚子の鼻の頭をつついた。
「ま、待っても降りてこなかったら……?」
「大丈夫よ。仕事じゃないんだから、ごめんなさいって頭を下げればいいだけ」
「……そ、それは嫌だな」
「ふっふん」
「 ? 」
「ママが苦しんでいる横で、いつもサラサラと無邪気に絵を描いていた報いだわね」
 得意そうに笑う母。
 それが母親の台詞か。
「……も、いい」
「ん?」
「ママが相談に向かない人なの、忘れてた」
「なによぉ、ヒロくんみたいなこと言わないでくれる?」
 ”ヒロくん”とは父のことだ。
「パパみたいには言ってないよ……」
 不機嫌そうに目を細める母を見て、慌てて柚子はすぐに言葉を継いだ。
 母はまぁいいけどねと言い、柚子の手をぎゅっと握って、そのまま立ち上がらせた。
「え?」
「柚子、暇ならお夕飯の手伝いしなさい」
「全然、暇じゃ……」
「ただ唸ってるだけなら全くもって生産性ゼロなんだから、たまにはお家に貢献しなさい。ママだってねぇ……絵を描くためだけに、仕方なく、掃除、洗濯、料理にお裁縫をしてるんですからね、仕方なくよ、仕方なく」
 仕方なくを散々強調する母。
 30代後半の大人とは思えない言動だった。
「パパのカイショーに感謝しなくちゃ駄目だよ、ママ」
 思わず、そんな言葉が漏れた。
 柚子の言葉に、母が一瞬だけ困ったように目を細めたのがわかる。
 そんなことは、本人がいちばんよく分かっていることだった。




 お昼休み。
 テニス部は打ち合わせがあるらしく、久しぶりに舞と2人きりのお昼になった。
 最初、清香にそう言われて、不機嫌そうだった舞も、今は目の前でニコニコとご機嫌だ。
 理由は単純。
 清香から、愛妻弁当を手渡されたからだ。
「舞ちゃん、嬉しそうだね?」
「うん♪ いやー、まさか作ってきてくれるなんて思わなかったなぁ」
「毎日、購買のパンやお弁当食べてるとこ見せられたら、世話焼きの清香ちゃんならいつかはやると、わたしは思ってたよ」
「ふぅん……そんなもんかな? うちの家族、誰も気にしないよ?」
「あはは……」
 それだけ親身になっている彼女の想いは、伝わっているのだかいないのだか。
 ほんの少し前までは、舞が懸命に彼女の背を追っているように見えたけれど、今は全く真逆のように感じてしまう。
 勿論、舞が清香を信頼しているからこそ、この態度になっていることも、柚子は分かってはいるのだけれど、女の子としては、もう少し構って欲しいところもあるのではないかな、なんて、柚子は思ってしまうのだ。
「そういえばさぁ」
「ふ?」
 柚子が玉子焼きを口に含むと同時に、舞が話を切り出してきたので、つい変な声が出てしまった。
 舞はそれを気にも留めずに、真面目な顔でこちらを見て小首を傾げてみせた。
「柚子、しおりの絵、間に合いそう?」
 その言葉に、柚子の心が急激に冷え込む。
 ふるふると首を横に振ると、心配そうに舞は目を細めた。
「そっかぁ……。いやさ、柚子なら放っておいたほうがいいと思って、静観してたんだけどさぁ。確か、文化祭明けすぐだったじゃない? 締切」
「うん」
「ちょっと心配になっちゃって。柚子、修学旅行、行ったことないって言ってたじゃない? だったらさ、あたしの修学旅行の思い出でも参考にならないかなぁって思ってさ。聞いてくれたら何でも答えるから、何でも聞いて?」
 舞が優しい眼差しで見つめてくる。
 その色が心地よくて、笑みがこぼれた。
 けれど、修学旅行という単語が引き金となったのか、中学の頃の嫌な思い出が、頭の中を過ぎった。

『ホント、あの子うざい。あんな頑なに絵にしか興味ありませんって態度取ってさぁ……結局、男子の気を引きたいだけじゃん』
『あれ? あんた、渡井さんと仲良いんだと思ってた。同じ美術部だし、席だって近いし、渡井さんもあんたとなら嬉しそうに話してたから』
『付き合いに決まってるじゃん。偶然席が近くて、偶然部活も一緒になったから合わせてるだけ。大体やってらんないのよ。いちいち、あの子が賞を取る度に、比べられるなんてさー』
『キャハハ、こわー。え? じゃ、修学旅行どうすんの?』
『面倒くさいよねぇ……あの子、あたしとしか話さないし』
『ハブでいいんじゃない?』

 1人であることは別に怖くなかった。
 絵さえあれば、それでいいと思っていたから。
 けれど、心を許した相手がいたからこそ、自分の中にある想いを否定されたことがショックだったのだと思う。
 1人であることは別にいい。
 でも、独りは怖い。
 それは、いじめと呼べたのだろうか?
 相手は本人に伝わったことを知らない。
 ならば、いじめではないのだろうか?
 ……ああ、そうか。
 ずっと、このことから逃げようとしていたから。
 筆なんか進むはずもなかったのだ。
 中学の頃のことは、あまり思い出したくなかった。
 けれど、蓋をしたからこそ、自分は前に進めていないのかもしれない。
 描きかけの肖像画は、部屋の押入れに、大事に包んで置いたままだ。
 もう……彼女の顔も思い出せない。

「柚子? どうしたぁ?」
「あ、ご、ごめん……。ぼぉっとしちゃった」
「ん、いや、ぼぉっとしてるのはいつものことだし、いいんだけどさ。あたしは役に立てたらいいなぁって思っただけだから、必要なかったらそれでいいし」
「うん、き、聞かせてもらいたいな。出席番号順的には、舞ちゃんはやっぱり清香ちゃんと同じ部屋だったの?」
「ああ、1・3年は同じクラスだったけど、2年の時はクラスが別だったの。だから、別行動、接点なし。というか、中学の頃、あたしら、そこまで仲良くなかったし」
「……そうなんだ?」
「ん。あたしが勝手気ままに片想いしてただけ」
 舞は茶化すようにそう言って、たこさんウィンナーを口に放り込んだ。
「舞ちゃんは、修学旅行好き?」
「んー、んぐ。うん。好きかな」
「どんなところが?」
「そうだなぁ。移動時間はかったるいけど、その間、喋ってていいし。ずっと集団行動なのは面倒くさいけど、その分、普段見れないような一面を見れたりするし?」
「…………」
 中学の頃の自分にとっては、それは無縁の世界だ。
 けれど、彼女がそう言ってくれると、なんだかとてつもなくかけがえのないイベントであるような気がしてくるから不思議だ。
 数日前、修吾と帰りが一緒になった時、修吾が言ってくれたのは、
『普段行けないところに行けること』
だったが、それはあまり柚子にとって身近な回答にはならなかった。
 周囲に無関心な彼らしいといえば彼らしかったのだけれど。
「でも、修学旅行のしおりってからには、寺とかのほうが分かりやすい気がするんだけどなぁ。ほら、何年か経って、もしも、旅のしおりが出てきたとしてさぁ、『あ、そうだ。おれ、京都行ってきたわ』って思えるのってよくない?」
「……ああ、そうか。そういう考え方もあるんだ」
「ん。だから、いつもどおりの柚子の絵でもいいんじゃない? どうして、そんなに悩んでいるの?」
「……描くテーマが決まらなかったから」
「ふむ?」
「絵って、テーマさえ決まれば、そこからは早いからさ」
「あー……なるほどねぇ。ま、金閣の池の前で、あたしが写真に写ってるような絵でも、全然構わないけど?」
「ふふ」
「肩の荷下りた?」
「ん……少しは」
「……浮かない顔だねぇ」
「あまり、良い思い出ないなぁって」
「え?」
「……中学……」
 柚子が消え入るような声でそう言うと、舞は察したように、すぐにぽんぽんと優しく頭を撫でてくれた。
 舞は聞いてはこない。
 いつも、こうやって優しくしてくれるだけ。
「ま、過ぎたことはしゃーないよ」
 舞の言葉に、柚子は顔を上げる。
 頼もしく笑う舞の顔がそこにあった。
「高校は楽しめばいいだけじゃん。ニノも言ってくれたでしょ? 良い思い出を塗りたくろうって」
「……うん、そだね」
 とにかく、今は描くしかない。
 いくらあの頃を振り返っても取り戻せないのだから。
 今はとにかく描くしかないのだ。



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