◆◆ 第10篇 筆の海・未完成の肖像画 ◆◆

Chapter6.渡井 柚子



『ユズって、自分の絵にしか興味ないんだよ。あたしの絵なんて、1回だって誉めてくれたことないもんね』
 中学時代、美術部で唯一仲の良かったその子が、冷めた声でそう言った。
 確か、初めて彼女がコンクールで銀賞を貰った時のこと。
 柚子はその時は出展をしておらず、興味もなかったので、特に見にも行かなかったし、彼女が賞を取ったのを知ったのだって、その日の朝礼が初めてだった。
 どういう会話の後、そう言われたのかを、今では思い出すことも出来ない。
 脳が消したがっているのか、彼女の顔だってもう思い出せない。
 そんなことないよ。そのひとことが言えたなら、何か変わったのだろうか。
 でも、柚子はその言葉を選び出せるほど、人間が出来てはいなかった。
 本当のことを言われて、口を噤むことしか出来なかった。
『なんで、何も言わないの?』
『ごめん』
『何のごめん?』
 わずかな記憶が、自分に告げる。
 あの時、彼女は泣きそうな顔をしていた。
 ……転校初日、席の近かった彼女とは、絵を描くのが好きという共通点から、すぐに仲良くなれた。
 彼女が美術部に誘ってくれたから、部活にも所属できたし、なじみづらいと思っていた東京という街にも、思ったよりも早く慣れることが出来た。
 けれど、自分の感謝の気持ちも何もかも、彼女にはひとつも伝えることは叶わなかった。
 その日のやり取りを最後に、柚子は美術室に顔を出さなくなったし、それはおろか、教室にすら行けなくなってしまったからだ。
 自分が悪かった。
 あの時、嘘でも言い繕えていたら、まだ修復は可能だったかもしれない。
 そうすれば、その後、教室で、自分の悪口を言っている彼女を見ることだって無かっただろう。
 けれど、嘘でも良かったのだろうか?
 彼女が欲しかった言葉は、本当に、そんなものだったのだろうか?



 教室に足を向けられなくなってしまった自分。
 校門の前で立ち尽くしていると、保健の先生に声を掛けられた。
 学校に行かなければ、親に心配を掛ける。
 けれど、学校をサボる勇気なんて無かった。
 保健の先生は柚子の話を聞いて、無理に教室に行かせようとはしなかった。
 だから、暫定的に、柚子は保健室登校者となった。
 もちろん、その事情はすぐに親にも伝わってしまったけれど、あの楽天的な母が父を説得して、行けるようになるまではそのままでいい、という話でまとまった。
 父は単身赴任せずに、東京まで家族を連れてきてしまったことを後悔したようだったけれど、別に父は悪くない。
 悪いのは、人付き合いもろくに出来なかった自分自身だ。
『渡井さん、本当に絵が上手ねぇ……』
 保健室から見える風景を描いていると、時折、感心したように保健の先生がそう声を掛けてくれた。
 上手に言葉を返せない柚子を見て、先生は穏やかに笑う。
『渡井さん、あのね、これだけは覚えておいてね』
 いつも、言い聞かせるように先生は言ってくれた。
『人と上手に付き合おうとしなくていいの。ただ、自分を認めてくれる人を見つければいいのよ。自分の苦手なことをいつも頑張っていたら、それこそ、渡井さんの心が萎んでしまうもの。無理に付き合おうとしなくていいし、無理に言葉を紡がなくていい。ただ、自分がこれが欲しいって、そう思った時は、絶対に声に出して言うの。それだけでいいのよ。それだけで』
 優しい先生だった。
 その言葉を、柚子はとても大事にしている。



「あ、柚子チャン、リハーサル始まる時間だよ?」
 美術室からの帰り、柚子が帰ってしまうことを懸念したのか、廊下で秋行が柚子を待っていた。
 ニコチャンと笑って、柚子の腕を優しく掴む。
「……わたし、やっぱり……」
「そう言うど思ったんだぁ。怖ぐねぇってなんも。それに、修吾クンが目の前にいんだがら、そんだけでだいじょぶだべ?」
「…………」
 何も言わない柚子の背中を秋行が押す。
 これは、行かないわけにはいかないようだ。
「柚子チャンは、文化祭用に何点出展すんの?」
「5点……だったかな……。今年、新入部員も少なかったから、スペースがあるらしくて」
「そっかぁ。楽しみだな。ボク、柚子チャンの絵のファンだがらさ。ねぇねぇ、柚子チャンが有名になったら、ボク、ファン第1号って名乗っていいがな? ホント、柚子チャンの絵、大好きなんだ」
「……大袈裟だよ」
 修学旅行のしおりの絵すら満足に描けないのに。
「んなごどねよ」
 それでも、秋行ははっきりと否定する。
 人付き合いは上手でも、”これが欲しい”を上手に言えない人だったのに、こんなにもはっきりと彼は言う。
「あ、そだ。ボクも、書道部に1点展示してもらうごどになったがらさ、文化祭当日、少しだげ、一緒に回ってけんねぇべが」
 当日は、上手く時間を合わせて、修吾と回る約束をしていた。
 でも、文芸部は詩の朗読で時間を取られるし、ずっと一緒でもない。
 受けても問題はないか。
「……うん、わかった」
「ホントに?! やたっ♪ ボク、こう見えで達筆だがんね。楽しみにしてでね」
「書道家のお祖父さんがいるもんね?」
「そそ。スパルタ英才教育受げでっからさ。体さえ良ぐなれば、ボクが後継ぐのさ。父さんは結局花開かねがったがらね」
「…………。秋行くんは、書道家かぁ」
「そそ♪ 色々面倒くさい世界なのよ? あ、ま、そんなん、どごでもそうがもだけど」
 秋行は楽しげにそう言い、柚子の足が止まらなくなったのを察したのか、ようやく隣に並んだ。
「絵の調子はどう?」
 柔らかい雰囲気のまま、彼が尋ねてきた。
 どうやら、いろんな人に心配を掛けているらしい。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「余計な心配掛けてるみたいで」
「余計? 全然余計なんかじゃないべ。大事なことだよ」
 柚子の言葉に、怒ったように秋行がまじめな顔でそう言った。
 真っ直ぐな言葉に、柚子はたじろぐ。
「でも……」
「だがら、シャドーだって気に掛けでんだべ?」
「でもさ、わたし1人が絵を描けなくなったくらいじゃ、誰も困らないじゃない?」
 柚子がそっと言うと、秋行は驚いたように目を丸くした。
 そして、本当に怒ったように唇を尖らせる。
「……ボクの話、柚子チャン、何も聞いでないんだね?」
「え?」
「ファンだって言ってるべ。第1号だべ。公式だよ。今ここで、本人に許可取ったべ」
「……あ……」
「ボクの言葉、冗談に聞こえやすいのがもしんないけど、ボクはいづだって本気だべ。柚子チャンの絵見られなぐなったら、ボクは困るべ。修吾クンは困らなくても、ボクは困るんだよ?」
「……ごめん」
「わかってくれだ?」
「うん。ありがとう」
 柚子が俯いて謝ると、彼の声は途端に優しくなった。
 この人は、本当に、自分のことを思って言ってくれている。
 強い意志と、優しい心。
「わたしね」
「ぅん?」
「望まれて描いたことが、1回も無いの」
「…………。うん」
「いつも、描きたいって欲求に任せて、描きたいものを描いてきた。だから、挙げられたテーマに沿うのが苦手で……」
 それが、柚子の導き出した答え。
 他人から見られることを意識したことがない自分の絵。
 中学の頃、描きかけで終わった肖像画も、今回頼まれたしおりの表紙も、他人――見る人――を意識して描かなければいけない。いけなかった。
 他人を意識しなかった、友達の肖像画。
 描かれた側が不愉快な気持ちになって、途中で終わった。
 それは自身の描きたいものだけが詰まってしまったから。
 悪意は無くても、それで誰かが不愉快になるのであれば、それは全く意味が無い。
 誰かのために、絵を描くことは、とっても難しい。
 それでも、自分が世界と繋がるには、絵を描くしかなかった。
 他人を意識できない自分の絵でも、それに評価をくれる人たちが、いたから。
 自分を認められたような気がして、きっと、とても嬉しかったんだと思う。
「でもさ、柚子チャン」
 秋行が真面目な顔でこちらを見た。
 柚子も横目でそちらを見る。
「柚子チャンの絵が良いって言われだんだべ。肩肘張らないで、好きに描けばいいじゃない」
「……でも」
「お仕事になったら、そりゃ、求められたものを描かねどいげなぐなんのがもしんねーよ。でもさ、これは仕事でもなんでもねよ。単なるイベント用のワンカット。好きに描いで欲しいな。ボクは、自分の好きなように描いた柚子チャンの絵が好きだ」
「…………」
「柚子チャンらしい絵を、ボクも、修吾クンもシャドーも、待ってる。意識なんかしなくていい。君が楽しそうに絵を描いてくれたら、それだけでいい人たちが、たくさんいるんだ」
 無邪気に笑い、はっきり言い切る秋行。
 この人は、どうしてこれだけの言葉を照れずに言えるのだろう。
「それに」
「え?」
「仕事になっても、柚子チャンには好きに描いで欲しいな。それだげのものを持ってるって、ボクは信じでるがら」
「……ありがと」
「いいえ! どういたしまして!!」
 柚子の照れたような返しを見て、秋行が本当に嬉しそうに笑う。
 そして、文芸部の展示教室の前までやって来て、勢いよく戸を開いた。
「シャドー、来てやったぞぉ♪」
「……ツカみたいな登場の仕方しないでよね……」
 見物用に椅子を並べていた舞が、呆れたようにそう言った。
 思わず、柚子はそれで笑う。
 教室に入ってすぐのところに、音楽室から運んできたのかオルガンがあり、すぐ傍に清香が立っていた。
「いらっしゃい、柚子ちゃん」
「うん。演奏、するんだっけ?」
「そう。人遣い荒いよね、くーちゃん」
 そう言いながらも、満更でない様子の清香。
 いつも彼女を見ると、心が和む。
 昨年のことを思うと、彼女の気持ちの移り変わりが、きっと何よりも大きい。
 清香はじっと柚子のことを見下ろしていたが、柚子が見つめ返すと、にっこり笑った。
「? なに?」
「もう、大丈夫みたいだね」
「え?」
「もしかして、くーちゃんの出番、なかったのかな?」
 おかしそうに言い、くすくすと笑う清香。
 柚子はよく意味が分からずに首を傾げるばかり。
「二ノ宮くん、彼女のご登場ですよ♪」
 ふざけた調子で清香が呼ぶと、教室内にいたわずかな生徒が、若干ざわついた。
「え、嘘……?」
「誰、あれ?」
「えー……二ノ宮くん、彼女出来たの? ショックー……」
「修学旅行の魔力にもすがれないなんてぇ……」
 周囲の反応と、清香の行動に呆れたように舞が天を仰いでいる。
 清香はその反応を面白がるように小さく笑った。
「思った以上に、シュウちゃん目当てだ」
「あ、あの……」
 教室中の視線がこちらに集まったのを感じて、柚子は清香の背中に隠れる。
 知らない人がいる空間も、それに見つめられる空間も苦手だ。
 普段は自分なんて見られていないと思えば全然平気だが、今回は無理だ。
 完全にこちらに視線が来ているのが分かる。
「先輩の彼女さん、席、ここですよー。特等席!」
 文芸部の1年らしき女子がとても朗らかな調子でそう言い、手招きしている。
 どうやら、文芸部内ではもう話が通ってしまっているらしい。
 あまり公にしていなかったのだが、これで、きっと噂はあっという間に広がる。
「ごめんね、柚子ちゃん。面倒くさいから私が話しちゃった」
 笑顔で言う清香。
 完全に意図的だ。
 柚子がわたわたしているのが見えたのか、修吾がこちらにやってきた。
「……席、あそこだから、適当に座って、見てて」
 照れくさそうにそう言い、きゅっと柚子の手を取り、引っ張っていく。
 触れた手の温もりに涙が出そうになった。
 あの夏祭り以来、手なんて繋いでもくれなかった。
 照れくさいのもあったと思うけれど、それ以上に、2人ともそれどころでは無くなってしまっていたのだ。
 こそばゆいような感覚。
 顔が熱い。
 わざわざみんなの前で……、清香や舞に何か言われたんじゃないだろうか。
 そんな勘繰りをしたくなる。
 こんな行動は、彼らしくない気がしてしまうから。
 修吾は柚子の表情が冴えないのに気が付いたのか、小さい声で言った。
「ああまでされて、僕が構わなかったら最低じゃない? みんなの中で、1番ユズさんを大事に想ってるのは、僕なんだから。それだけは、負けたくないもん」
 言った後、恥ずかしそうに息を吐き、柚子を椅子に腰掛けさせると、元の場所に戻っていった。
『人と上手に付き合おうとしなくていいの。ただ、自分を認めてくれる人を見つければいいのよ』
 先生、認めてくれる人たちを見つけたんです。
 自分のために絵を描いて、それで喜んでくれる人たちが出来たんです。
 自分のためが、みんなのためになるのなら、自分はいつまでだって、絵を描いていきたいと思います。
 思うように描けなくて投げ出したくなるような苦しみなんて、きっと描き上げた後に見られる、この人たちの笑顔には、絶対に敵わないから。
 柚子はただ心の中で呟いて、静かに微笑んだ。



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