◆◆ 第10篇 筆の海・未完成の肖像画 ◆◆
Chapter7.二ノ宮 修吾
文化祭当日。 兄が風邪で熱を出した。 「ああ……くっそ、修の朗読とやら冷やかしに行く気満々だったのによぉ……」 真っ赤な顔で、おかゆを口に運びながら、悔しそうにそんなことを言う。 母はおかしそうに笑ったが、父は特に何も言わずに新聞を読んでいる。 珍しく4人揃っての朝ごはん。 兄ははじめ嫌そうに顔をしかめたが、母が嬉しそうなので、大人しく席に着いた。 兄は本当に母に弱い。自分も人のことは言えないけれど。 「お父さん、今年こそ一緒に行きません? 修くんも頑張っているようだし」 「……仕事が残ってるんだ。そんなに暇じゃない」 「……そう、ですか。じゃ、お母さんだけでも行こうかな? いいよね? 修くん」 つれない父の返事に、母は少々寂しそうに目を細めた。 けれど、すぐに気を取り直したように笑顔を作ったので、修吾はコクリと頷いた。 兄が今にも舌打ちをしそうな不機嫌な調子で息を吐き出す。 「家に仕事持ち帰ってくんなよなー」 静かにぼやいてから、父のほうを一切見ることなく、おかゆを完食し、ゆっくりと立ち上がった。 ふらふらと体を揺らしながら、だるそうに歩いていく。 「賢くん、階段上がれる?」 「ガキじゃねぇんだよぉ。ほっとけー」 熱で少々テンションのおかしくなっている兄は、陽気な調子でそう言い、重い足音を響かせながら階段を上っていった。 「修くん、そろそろ行く時間じゃない?」 「あ、う、うん」 母の言葉に、修吾は慌ててごはんをかきこみ、立ち上がった。 床に置いておいた鞄を掴み、軽い足取りでダイニングを出た。 「行ってらっしゃい♪」 朗らかな母の声が、後ろでした。 「え? 今朝出したの?」 「うん! 一昨日の文芸部のリハーサル見て帰ったら、すっごいスムーズにイメージが湧いてきてね? 2日がかりで!」 彼女の生き生きとした笑顔に、修吾は目を細める。 やっぱり、この子はすごいな。 すぐに出てくる言葉はそれだった。 きっと、初めて迎えたスランプだったろうに、自分が何か手を貸す暇もなく、乗り越えてしまった。 このタイミングでなければ、真っ先に手を差し伸べられたかもしれないのに。 そんな言葉が心を過ぎる。 「午前中の朗読、素敵だった。リハーサルの時よりも良くて、泣けてきちゃった。えっと、えい……」 「『永訣の朝』。賢治の妹が亡くなる時のことを詩にしたものなんだ」 「……うん。本当に悲しみが伝わってきて、わたし、どうしようかと思った」 「はは。それなら良かった」 「良くないよぉ。わたし、すぐ感情移入しちゃうからさぁ。1番前の席で泣いたら目立っちゃうもん」 「別に気にしなきゃいいんだよ」 「そんな……」 「渡井と2人きりで、僕が周囲を気にして歩いてた時、そういう笑顔で僕を見てたじゃない」 「あれは……本当に、誰も見てないと思ったから……」 「同じことだよ」 目の前でまごまごする柚子が可愛らしくて、修吾はクスクス笑いながらそう返す。 人が溢れる廊下を、手を繋いで2人は歩いてゆく。 時折、すれ違う生徒がこちらを見ている気がするけれど、特に気に留めずに歩く。 気恥ずかしさがないと言ったら嘘になるけれど、こういう時でなければ、手なんて繋ぐ度胸はない。 繋いだ指先から、彼女の鼓動が伝わってくる。 落ち着くようで落ち着かない。とても不思議な心地だった。 「二ノ宮くん……?」 人ごみを抜けた先、人通りの少ない踊り場に立っていた女性が、修吾を見て、静かに名を呼んだ。 サングラスで目元は見えないが、おそらく、20代半ば。 すらっとしていて、背が高い。悲しいことに修吾よりも高かった。 長い髪を後ろでまとめ、大きなヘアクリップで挟んでいる。 ヘアクリップはスタイリッシュな色合いの赤。 口元にほくろがあり、色っぽさが漂っていた。 「知ってる人?」 柚子が不思議そうに小首を傾げてこちらを見た。 けれど、勿論、修吾には覚えのない人なので、すぐに首を横に振った。 女性は考えるように口元に手を当て、思い至ったようにスチャッとサングラスを外した。 二重のくっきりした瞼。 目つきも雰囲気同様色っぽかった。 ゆっくりと歩み寄ってきて、シゲシゲと観察するように修吾を見つめてくる。 「違うか。二ノ宮くんにしてはちっちゃいや」 グサリと本人が気にしていることを言い放ち、おかしそうに笑う彼女。 「もう、学ランなんて着てるはずもないし……。来てる訳、ないか……」 寂しそうに目を細め、踵を返しかけるが、何かに気が付いたのか、素早く振り返った。 柚子がキュッと修吾の手を握り締める。 何なのだろう。 意味が分からないのもあって、質問の言葉も上手く出てこない。 修吾の胸元まで目線を下げ、マジマジとネームプレートを見てくる。 いい加減堪え切れず、修吾は声を発した。 「あの、何なんですか?」 「二ノ宮……」 「はい?」 「二ノ宮修吾?」 質問が聞こえていないのだろうか? それとも、相当マイペースな人なのだろうか? 扱いに困るから勘弁して欲しい。 考え込むように、彼女は一時停止。 修吾はもう付き合いきれないと思い、柚子の手を引いて、踵を返した。 その瞬間、パンと納得したように手を打つ音がした。 「あー!」 次に大きな奇声。 前に出しかけた足が自然と止まった。 柚子も困ったように顔だけ、女性のほうに向けている。 「弟ね! あなた、二ノ宮くんの弟でしょう?!」 ……兄のことを言ってるのだろうか。 仕方ないので、修吾は振り返り、呆れた調子で答える。 「二ノ宮賢吾のことを言ってるんであれば、そうですけど……」 「そう! KENGO NINOMIYAのことを言ってます!!」 ビシッと指差される修吾。 だいぶ感情表現というか、ボディランゲージが日本人離れした人だ。 柚子が2人のやり取りを見守るように、きょときょとと視線を動かしている。 「すっごい。目元とかそっくりなのに、ミニマムサイズ」 「ミニマム……」 「修吾くん、あ、あんまり気にしないで……」 抉られた傷がそこにあるような気がして、思わず胸に触れる修吾。 気遣うように柚子がすぐにフォローを入れてくれた。 なので、なんとか気を取り直し、彼女に尋ねた。 「で、兄に何か御用ですか?」 「約束してたのよ」 「は?」 約束……? デートの約束でもしてたのだろうか? 今朝、兄はそんなこと、一切言っていなかった。 あんな大風邪をひけば、約束なんて守れないことは分かりきっているのだし、なんだかんだで律儀な兄のこと、その辺はきっと抜かりなどないはずだ。 「あの、今日、兄は風邪で寝込んでて、文化祭には来れる状態じゃないですよ? 連絡とか、なかったですか?」 「連絡……? 連絡なんて取れない。だって、私、彼の連絡先知らないから」 「え……?」 もしかして、不味い人に捕まってしまったのだろうか。 思わず、心の中でそんなことを呟いてしまった。 修吾が頭を抱えそうになっているのを察したのか、柚子が声を絞り出した。 「あ、あの……賢吾さんとは、お知り合いなんですよね?」 「勿論」 「でも、連絡先は知らないんですか?」 「そう」 「えっと、それはどうして? デートの約束なら、連絡できないと難しいですよね?」 「デート?」 「え? デートじゃ、ないんですか?」 きょとんと目を丸くした女性に、柚子も修吾も同じように首を傾げた。 言われた当人は、最初なんでもないような顔をしていたが、急におかしそうにお腹を抱えて笑い出した。 高らかな笑い声が廊下に響き渡る。 随分と良い声をお持ちなようだ。 「デートなんかじゃないわ。私、せせら笑いに来たのよ」 言葉の意味が分からず、修吾は柚子と目を合わせ、次の瞬間、同時に間抜けな声を発した。 「はぁ?」 「4年後有名になってたら、リサイタルに私を呼ぶ。彼はそう約束した。で、もし、それが叶わなかったら、私は文化祭の日にあなたをせせら笑いに来てあげる。そう約束したの」 修吾は彼女の言っていることがよく分からずに頭を抱える。 いや、言っていることは分かるのだが、意味がよく分からない、という表現が正しいだろうか。 わざわざ、人をせせら笑いにこんなところまで来るだろうか? この人からは、普通に都会のにおいがする。 こんなところまで来ようとすれば、1番近い大きな都市だって、電車で片道3時間は掛かる。 そんな約束のために割く時間、費用としては、妥当とは考えられなかった。 その上、当の本人がここに来ているかどうかの確証さえないのに、だ。 彼女は少し考えるように目を細め、うぅんと唸った。 「忘れちゃったのかなぁ。こういうことには、律儀な子だと思ってたのだけど」 おまけに人の話を聞いていないようだ。 「……兄は、今日風邪で寝込んでます」 「ん?」 「風邪で寝込んでます」 「…………。それ、ホント?!」 「は、はい」 「え? 大丈夫なの? 本当に風邪? インフルエンザとかじゃないよね?!」 突然、態度が変わったことに目を白黒させつつ、彼女の問いに肯定の意を示した。 先程の事情を聞く限り、彼女は兄に会いにわざわざ来てくれたようだし、このまま帰すのも忍びない気がした。 「えっと……たぶん、夕方戻る頃には、熱も下がってると思うんで、それまで時間潰しててもらっていいですか?」 「ん?」 「家、連れてくんで、それまで待っててくれますか?」 「え? いいの?」 「はい。だって、結構遠いところからいらしたんじゃないんですか?」 「うん。東京!」 「と……」 修吾も柚子も言葉が出てこなかった。 せいぜい仙台だと思っていたのに、東京では、沿岸部のこの辺では、4、5時間は悠に掛かる。 「何かおかしい?」 「……あ、いえ」 当人にとっては大事な約束だったのだろう。 こちらにとっては理解不能でも。 「えっと……僕は、弟の修吾で、この子は、渡井って言います」 「彼女?」 「……い、一応……」 「あはは、照れてる。かわい〜。賢吾くんとは全然性格似てないねー」 「で、お姉さんは?」 「…………。おぉ♪ これは失礼! 私、設楽悠(したらはるか)って言います。 賢吾くんとは、教育実習の時に仲良くさせてもらった者です」 「設楽さん……」 「ハルカでいいよ。私、苗字、あんまり好きじゃないの」 「あ、じゃ、悠さん」 「はい。じゃ、えっと……17時ごろに校門のところにいればいいかな? 早い?」 「いえ、大丈夫、だと思います」 「了解。私は先生方にご挨拶して、そのへん、適当に見てるよ。知ってる先生が何人残ってるか、不明だけども」 色っぽい風貌とは打って変わって、だいぶお茶目な人らしい。 お茶目に悪気のない毒舌が加わるから始末に終えないが……。 「じゃあね」 「はい。またあとで」 気安く手を振る悠に、修吾はぺこりと会釈をし、柚子と一緒に階段を上る。 「ごめん」 「え……?」 「一緒に帰れなそうだから」 「あー。いいよ別に。わたしも、今年は部の片付け手伝うつもりだし」 「それなら、いいんだけど……」 「不思議なお姉さんだったね」 「うん……」 「せせら笑いに来たって凄いよね。わたしも、ついて行きたいなぁ。あとで、お話聞かせてね?」 「分かった」 突然の訪問者。 それは人付き合いの下手くそな兄への来客で、修吾は少々戸惑いつつも悪い気はしなかった。 前に少しだけ話題に上った、球技大会の時に、兄を焚きつけたとかいう女性だと、思い出したからだ。 |