◆◆ 第10篇 筆の海・未完成の肖像画 ◆◆
Chapter8.二ノ宮 賢吾
放課後の音楽室。 音楽部の活動していない曜日だけ、勝手に入って使っている。 けれど、今まで一度もそれを咎められたことはなかったので、気にもしていなかった。 「君のピアノが聴けるのも、今日で終わりかぁ」 いつも余裕そうに、むかつく面で笑う彼女が言った。 きっと、自分自身の笑顔もこんなものなのかもしれない。 それでも、自分と違うのは、彼女は誤解されずに生きられる人だということ。 賢吾は何も言わずにピアノを弾き続ける。 弾む指。記号に従い、作者の思い描いたであろう世界を表現する。時に柔らかく、時に激しく。譜面の中にある作者の心に触れ、世界を共有する。その瞬間が、たまらなく好きだった。 歌劇用に作られたその曲は、実に甘やかで、夕日の差し込む教室にとても映えた。 曲を聴いていて、彼女は意図を察したように、賢吾の横に立った。 伸びのある歌声を紡ぎ始める彼女。 音大から来たその美人実習生は、この2週間、どの生徒からも慕われ、最終日だった今日に至っては、寄せ書きは勿論のこと、連絡先を書いたメモや花束、お菓子などのプレゼントを山ほど貰っていた。 賢吾は彼女の声に触れながら、ズボンのポケットに綺麗に畳んで入れてある連絡先に思いを馳せる。 書いては来たものの、どう言って渡せばいいのか分からない。 こんな恥ずかしいこと、出来る訳ないじゃない。 自分は、二ノ宮賢吾だ。音楽の神に愛された男だ。天才なんだぞ。 そんな言葉を、心の中の、いつでもささくれ立った荒野の果てにいる男が言う。 賢吾は最後まで弾ききり、そっと鍵盤に指を置いた。 見上げると、彼女は微笑んでこちらを見ていた。 「……良い声だよな」 「あれ? 珍しいねー。誉めてくれるの?」 「…………。別に。思ったこと言っただけだし」 「そっか。ありがと♪」 フランクな口調でそう言って笑う彼女。 自分が必死に搾り出したことなど、きっと分かりもしない。 「オペラ歌手、ならねぇの?」 「……うーん。狭き門だからねぇ。自分がそこをくぐれるかどうかも危ういしなぁ……」 「……おれはピアニストになる」 「いいんじゃない? 楽しみにしてる。二ノ宮くんなら大丈夫でしょ。大学の友達に訊いてみたんだけどさ、君ってその界隈じゃ結構有名らしいじゃない?」 「有名……?」 「大きい賞もたくさん取ってるし、見た目もかなり綺麗なのに、変な売り出しに捕まらない幻の高校生ピアニストだって。それに、国際大会には一切出てこないから、無冠の帝王、とも言われてるとか?」 「……親がそういうの嫌いなんだよ。それに、国際大会なんて、行ける訳無い」 「……そうよねぇ。お金掛かるもんねぇ、色々と」 彼女は苦笑混じりにそう言うと、はぁ……とため息を吐く。 「一人っ子だから、なんとか無理も利いたけど、こっから先まで、親には迷惑掛けられないの。これが、本音、かな」 諦めたような眼差しで、天を仰ぐ彼女。 賢吾は少し考えて、静かに声を発する。 「……なれよ」 「え?」 「なれるだろ。おれが誉めたんだぞ」 「…………」 賢吾の言葉に、彼女は何も返さなかった。 ただ静かに笑って、優しい目を、こちらに向けただけだった。 「二ノ宮くんなら」 「なに?」 「4年後、有名になってるかしら?」 「…………。と、当然だ」 「そっか。じゃ、その時は私、あなたにファンレターを送るから、覚えていたら、ソロコンサートに招待してちょうだい?」 「え?」 「ね?」 念を押すように笑う彼女。その笑顔はとても大人びていて、ドキリとした。 意図がよく読み取れなくて、賢吾は少し動揺した。 顔に出さないのが精一杯だった。 「わかった」 頷いた瞬間、少しだけ後悔する。 連絡先のメモを、渡せなくなってしまったからだ。 彼女はその後、少し考えるように目を細め、今度は先程の笑みなど嘘のような、いつものむかつく笑みを浮かべた。 「どこの雑誌見ても、名前が無かった時はぁ」 「 ? 」 「そうだなぁ。この高校の文化祭の日、屋上に続くあの階段の踊り場で待ってる」 「は?」 「せせら笑いに来てあげる。あんな大口叩いてたのにぃ……って。うふふ」 ふざけるように笑い、ポンポンと賢吾の肩を叩く彼女。 賢吾は少し考えてから自信たっぷりの、いつもの自分の笑みを浮かべて返してやった。 「いいよ。ありえないし」 彼女はその言葉を受けて、本当に嬉しそうに笑った。 あの放課後を思い出すと、心が痛い。 胃がしくしくと痛んで、もどかしくて、やりきれなさだけが湧き出してくる。 賢吾はあの時、自分の心の中に、何という感情があるのかを知っていた。 知っていたけれど、通り過ぎた。 4年後を、彼女がくれたから通り過ぎた。 なのに、自分は今……あの頃の自分が思い描いていた未来とは違う形で、日々を過ごしている。 パチリと目を覚ました。 寝る前のだるさが嘘のように、頭の痛みは消えていた。 額にはよく冷えたタオルが乗っていた。 寝る前は、だいぶぬるくなっていたはずなのに。 「? 母さん?」 な訳は無い。 賢吾が眠る前に、母は出掛けた。 では、これは誰が……? 考えたけれど、思い至った答えに失笑する。 まさか、あの父親が? あまりにイメージと一致せず、賢吾は心の中、すぐに否定した。 けれど、それでは誰が……? 母はきっと夕方まで帰らない。 修吾が相手をしてくれなくても、修吾の友達が親切に案内をしてくれることだろう。 自慢じゃないが、二ノ宮春花は、誰からも愛される素敵な女性なのだ。 では、やはり……。 「やべー。槍が降るぞ」 静かに呟いて、ムクリと起き上がった。 体が軽くなっている。 汗でぐっしょり濡れたパジャマはさすがに気持ち悪いので、ゆっくりと立ち上がり、押入れからジャージと肌着を取り出す。 素早く着替えて、床にどっかりと腰を下ろした。 ローテーブルに置いておいた音楽雑誌に目をやる。 表紙には彼女がいた。 設楽悠。 4年前、賢吾の学校に来た美人実習生。 あんなことを言っていたくせに、彼女は狭き門をくぐり抜け、こんなところにいる。 賢吾は苦笑した。 あの時、自分からも提示すれば良かった。 ファンレターを書くから、その時は招待してくれ、と。 言っても良かったはずだった。 でも、あの頃の自分には、彼女がその道に進むことを考えているようには見えなかったのだ。 だから、言えなかった。 音大からの合格通知が届いた時、自分は本当に心から喜んだ。 母もとても喜んでくれて、自分には、希望に満ち溢れた未来が待っていると、そう確信していた。 なのに……。 賢吾は静かに目を細める。 無くなった未来に、目は向けられない。 だから、賢吾は彼女を忘れることで、あの放課後を忘れることで、前に進んだ。 書店でたまたま見かけて買ってしまった音楽雑誌。 手に取った瞬間、あの苦痛が舞い戻ってきた。 そして、一縷の望みすら捨てた。 こんな大事な時期に、わざわざあんな約束を、守りに来る訳が無い。 自分を認めてくれる人は多くいた。 だから、ずっとぬるま湯にいるだけで済んだ。 自分の才能と、ひたむきな音楽の情熱だけで生きていられた。 なのに、たったひとつ、立ちはだかった壁に、自分は勝てなかった。 才能? ひたむきな情熱? 本当に、自分の中にそれがあったなら、父の言葉なんて振り払って、何とか出来たはずじゃないか。 どうにでもなったはずじゃないか。 結局、自分はその程度だった。 そう。それだけのことだ。 割り切れてはいる。 もう、割り切れているのだ。 それでも、思い出したように溢れ出す涙は、誰も止められない。 なんで、自分はあの時……、あの程度のことで、負けてしまったんだろう。 17時前、母が帰ってきた。 賢吾は体調が戻ったことを告げ、ピアノのある和室に入った。 ちょうど西日の差し込むこの部屋は、あの日の音楽室のような不思議な色をしていた。 ゆっくりと歩み寄り、椅子に腰掛ける。 3年半前から、弾かれなくなったピアノ。 母は調律をこまめに頼むことを欠かさなかったらしい。 だから、自分が久々にピアノを弾いたあの日も、音の狂いはひとつも無かった。 誰にも言わないけれど、それを察して、自分はまた泣きそうになったのだ。 馬鹿ばっかりだ。 なんで、自分の周りには、馬鹿親切な奴ばかりなんだ、と。 蓋を開け、鍵盤に触れる。 すべらかな感触。 1音だけ鳴らす。 ポーン、と、澄んだ音が空気に融けて消えた。 ゆっくりと指を動かす。 弾くのは……、最後の日に弾いた、甘美なあの曲。 あの日見た譜面を思い出すように弾く賢吾。 指が跳ねる。 あの頃のように? それとも、もう、あの頃のレベルではないのか? 今の自分は、一体どこにいる? 昔に比べて、体力の無くなった指は、長いその曲に、容易に悲鳴を上げた。 けれど、賢吾は弾くのをやめなかった。 ただ、ひたすら、あの頃の自分を追う。 背中が、すぐ傍に見える気がしたのだ。 なんとか、最後まで弾ききり、深く息を吐き出す。 世界が見えた。作者の世界が。 懐かしい感覚だった。 確かに今のは、あの頃の自分が当たり前のように味わっていた……世界の共有だった。 僅かな時間ではあったけれど、確かに感じた。 後ろで大きな拍手が鳴った。 また、母か、と思い、賢吾は大きくため息を吐く。 「いいって。そういうのは」 ヒラヒラと片手を振ってやると、思いがけない声が耳に届いた。 「よかった……。怪我とかじゃなかったのね?」 賢吾はぎょっとして振り返る。 そこには、あの頃よりも数段輝きを増した、その人が立っていた。 賢吾にとって、彼女が美人であるかどうかなんてどうでも良かったのだが、そんな無関心を弾き返すほどに、現物の彼女は、写真以上に綺麗になっていた。 修吾が申し訳程度に顔を出し、静かに言った。 「兄貴に用があるみたいだったから、連れてきたよ」 シャイで無愛想な弟はそれだけ言うと、リビングに戻っていった。 悠はそれを見送ると、落ち着かなげに目を細めたが、ゆっくりと部屋に入ってきた。 「……なんでいるんだよ?」 「約束、したから」 彼女は問いに答え、穏やかに笑った。 あの日に見せた、大人びた笑顔そのものだった。 「留学先から戻ってきて、これから忙しいはずだろ」 「…………。記事、見てくれたの?」 彼女の穏やかな声に、賢吾はカァッと顔が熱くなる。 「ならねぇって言ったくせに」 「なれって、君が言った」 「ッ……」 「凄く、勇気貰えたの。こんなにはっきり言ってくれる人がいるんだって。本当に、本当に、あの時嬉しかったんだ」 「…………」 当たり前じゃないか。 心から素直に、良い声だと感じたのだから。 「あの頃、師事してた先生ね? 相性が悪かったみたいなの。私、いっつもダメ出しばかりされてて、”君には才能が無い。先はないと思いなさい”って、何度もはっきり言われてた。だから、自信無くして諦めようかなって思ってたの」 「センスねぇ馬鹿に当たったんだな」 「……うん。本当にその通りね」 賢吾のはっきりした言葉に、悠はおかしそうに笑った。 「元々行く予定だった教育実習で、しかも、行ったことも無い場所で心細くて。でも、赴任して2日目、生徒に案内されて歩いていたら、君のピアノに出会った。なんだか、心が洗われたような気がしたわ」 そこで、悠がおかしそうに笑った。 「どうした?」 「ん? いやー、君、ホント、評判悪かったよ?」 思い出したように笑いながら、あの頃と同じむかつく笑みを浮かべる。 賢吾は察して、いじけたように返す。 「顔だけ男、だろ?」 「そこまで酷くはなかったけど……。”友達が何人か振られてて、しかも、いっつも酷い言葉言われて帰ってくるんです。だから、あたしはあの先輩、大嫌いなんです。ピアノが上手だからって天狗になってるんですよ。馬鹿みたい”って言ってた」 「…………。まぁ、当たってるわな」 今になって思えば。 「あははは♪ 認めるんだ?」 「お山の大将だったのは確かだからな」 「まーねー。確かに扱いづらい子だったねぇ。最初はうわって思った。だって、音楽室入った瞬間、『邪魔。出てけ』だからね」 さっくりと彼女は言う。 ああ、この感じ、懐かしい。 「でも、本当に才能ある人って、どっかのヒューズが飛んでるもんなんだと思ってたから、あんまり気にしなかった」 またもやさっくりと失礼なことを言う悠。 賢吾はクッと笑いを漏らした。 「で?」 「え?」 「何しに来た?」 賢吾はゆっくりと立ち上がって、彼女に歩み寄る。 静かに見下ろすと、彼女も真っ直ぐこちらを見上げて、息を呑んだのが分かった。 「……まさか、本当にせせら笑いに来た訳じゃねぇだろ? そうだったら、おれ、ぶん殴るぞ」 「……チケット」 「は?」 「渡しに来た」 悠はそう言うと、肩に掛けていたバッグから、可愛らしい封筒を取り出した。 賢吾は言葉も無く、差し出されたそれを受け取る。 心臓がうるさく鳴る。 「観に来て欲しい」 「ッなこと言ったって……」 「君のおかげでなれたから、観に来て欲しいの」 賢吾は彼女を見つめ、グッと奥歯を噛み締める。 真意が読めなかった。 本当に感謝の気持ちだけなのなら、舞い上がりたくは無かった。 もう、痛いのはまっぴらごめんだった。 封を開けると、中には2枚チケットが入っている。 「これ……」 「1枚で良かったかしら? さっすがに、もう、彼女労わる器量くらいは持ち合わせてるかなぁって思って、用意してきたんだけど」 悠はそう言って、お茶目に笑う。 本当に、むかつく笑顔だ。 頭の中で何かが弾ける音がした。 賢吾は渡された封筒にチケットを丁寧に入れ直し、悠に突っ返す。 さすがに予想していなかった反応だったのか、悠は色っぽい目をまん丸にして、それを見下ろす。 「いらねー」 「……二ノ宮くん……」 「田舎の企業ってさ、よっぽどじゃねぇと、休暇取れねぇんだよ。体調不良以外だと、すっげー嫌な顔される。だから、無理だわ」 不機嫌な調子に、悠が戸惑うように動きを停止した。 そして、しょげるように俯く。 「そっか。そうだよね。ちゃんと、働いてるんだもんね。ご、ごめん。私ってば……」 なんだよ。いつもみたいに、むかつく顔で、さっくり痛いところ突いて来いよ。 なんで、急にしおらしくなるんだよ……。 心の中、賢吾は呟く。 「ごめんなさい。もう、帰るね?」 悠は静かな声でそう言うと、部屋を出て行く。 賢吾はもやもやを感じながらも、舌打ちをするだけで、その場に立ち尽くすだけだった。 「あら? 帰るんですか?」 廊下で母の声がした。 「は、はい……。あんまり暗くなると、道分からなくなるので」 「そんなの、賢く……賢吾に送らせますよ。賢吾? あなたのお客さんなんだから、きちんとなさい」 珍しく、きちんと名前で呼んで、母がこちらに叱るような声を向けた。 それに対して、悠は何か返したようで、母の「そぅお?」という返事だけが聞こえた。 その後、今度は修吾を呼ぶ声。 「修くん、設楽さんのこと、バス停まで送ってきてちょうだい? もう暗いし、女性のひとり歩きは心配だわ」 「分かった!」 リビングでテレビを見ていたであろう修吾が、敏感に母の声を察知して出てきた。 賢吾に対し、軽蔑するように視線を一瞬だけ寄越して、タタタッと足早に駆けていった。 |