◆◆ 第10篇 筆の海・未完成の肖像画 ◆◆
Chapter9.二ノ宮 修吾
高いヒールを物ともせずに、設楽悠はツカツカと早足で進んでゆく。 修吾はそれを追いかけるように歩き、真っ直ぐな声で謝った。 「あ、兄が失礼なこと言ってすみませんでした……! やっぱり、きちんと話しておけばよかった」 悠がその声で立ち止まり、綺麗な姿勢で振り返る。 彼女は悲しそうに目を細めていたが、すぐに気を取り直したのか、眉を八の字にして笑った。 「本人に訊けばいいと思ってたから。私、結構自惚れてたかも。……あはは、情けない……」 「兄貴、吹っ切ったように言ってるけど、たぶん、まだ吹っ切れてないんだと思います」 「…………。何があったのか、教えてもらってもいいかな?」 修吾の言葉に、悠は真面目な表情でそう言った。 一瞬、自分が話していいのだろうかという言葉が頭を過ぎる。 けれど、彼女が真っ直ぐな目でこちらを見るので、コクリと頷いた。 「じゃ……歩きながらで。バスの来る時間も、まだまだ先だろうから」 「ええ。ありがとう」 彼女の顔からは、昼間見た、あの茶目っ気たっぷりなオーラは消えていた。 子供の頃、発表会の前日、兄は必ずと言っていいほど熱を出した。 当日には腹の調子が悪くなることも多く、本当にプレッシャーに弱い人だった。 覚えている限りでは、それは、兄が高学年に上がる頃まで続いていた気がする。 けれど、子供の頃から演奏の腕は群を抜いていて、発表が終わった後には、必ず自分に対して、得意げな笑みを見せ、溌剌とした声で言った。 「どうだ。兄ちゃん、すごかったろ?」 と。 修吾がこっくり頷いて笑うと、兄はくしゃくしゃと修吾の頭を撫でてくれた。 普段は傲慢で意固地で弟を労わるなんて気持ちを一切覗かせない人だったが、発表の後のあの時間だけは、とても優しい兄の笑顔を見ることが出来た。 だから、修吾は誰にも言ってないけれど、兄が発表会に出る日が、とても好きだった。 会場の前で、兄が出てくるのを待っている時、母がにこにこしながらこう言ったことがあった。 「賢くんはねぇ……とっても繊細なの。きっと、発表の後だけが、繊細なあの子が殻から出てきてくれる、唯一の時間なのかもしれないわねぇ……」 さすがに小学校に上がる前の修吾には、その言葉の意味はよく理解できなかった。 ただ、”繊細”というものが、壊れやすくて脆いものであることだけは、感覚的に分かって、兄とその言葉がイコールにならず、首をひねったものだった。 「……そっか。それで、大学に行けなかったの……」 修吾が3年半前の出来事を話し終えると、悠はまるで自分のことのように悲しんでくれた。 静かなその声に、修吾は思わず息を呑む。 悠は思い詰めるように目を細め、うぅんと唸る。 「それじゃ、怒って当然だ」 「え?」 「無神経だったのは、向こうからすれば私だわ」 「い、いえ、そんなこと! 兄が悪いんですから、そういう風に言わないでください」 「……私」 「はい?」 「二ノ宮くんには、光の道が用意されているものだとばかり思ってた」 「…………」 「……だから、こんな遠回りな約束して……。こんなことになるなら、あの時、連絡先を教えておいてあげたら良かった……。もしかしたら、力になれたかもしれないのに」 悠は後悔するように呟き、唇を噛み締める。 「ある訳無いのにね」 「え?」 「絶対なんて、この世にある訳無いのに。それでも、私、4年後に会えること、それだけが楽しみで。彼に胸張って、夢が叶ったことを話すことばかり考えていて……。もし、彼が夢を叶えていなかったら……? そんなこと、ひとつも考えなかった。留学先から戻ってくる頃には、彼は当然のように有名になっているって、そう信じて疑わなかったのよ」 「…………」 「日本に戻ってきて、色々な情報に目を通したけれど、彼の名前はどこにもなかった。大学時代の友達に訊いても、”高校卒業と同時に、彼の名を見なくなった。本当に幻になってしまったね”なんて、冗談が返ってきたわ」 悠の表情は冴えなかった。 予期していなかった現実に、ようやく向き合ったせいかもしれない。 「彼は、私の前に道を示してくれたのに。彼の性格だもの。分かってるわ。とても惨めな気持ちにさせてしまった……。私は、来てはいけなかったんだわ」 「本当に、そうでしょうか?」 「え?」 「……確かに、兄は傲慢で、プライドがやたら高いですけど、でも、だからといって、夢を叶えた人に対して、”良かったな”のひと言も掛けられないような人間ではないです。すっごく分かりづらいですけど、優しい人だから」 「…………」 「あの人、母にやたら甘いんです。意外じゃないですか?」 修吾のその言葉に、悠がおかしそうに笑った。 やっと笑ってくれて、こちらもほっとする。 「世界で、唯一自分を理解してくれる人だから、だから、とても気に掛けて、とても優しくするんだろうなって……最近は思うようになりました」 「……うん……」 「自分が言うのもなんですけど、本当に兄貴は、他人との意思疎通が下手くそなんです。だから、言葉をそのまま受け止めちゃうような真面目な人間は嫌いだし、遠慮して言葉を選ぶような人間も苦手で、自分が言った分だけ弾き返してくるような人を好む傾向があります。兄貴は深読みが出来ないんです。出来ない上に、しないんですよね」 「……そうね」 修吾はそこで話すのをやめて、一旦息をつく。 話をどう着地させたらよいのか、よくわからないから、というのが話を切った理由。 ”これまで”の話で留めようと思ったのに、考えていた以上に話が広がってしまった。 「……そういえば」 「なぁに?」 「兄貴、昨年までグレてたんです」 「え?」 「髪の毛、赤く染めちゃって、職場の人にも怒られたろうに、頑として譲らなくて」 「そうなんだ?」 「まぁ、元から派手好きな人だし、意外ではなかったんですけどね。母は遅れてきた反抗期だって言って笑ってました」 さすがに染めてきた当日は、母もうろたえていたけれど、次の日にはもう順応してしまっていた。 きっと、父にも何か言われただろうに、母はそんな素振りをおくびにも出さなかった。 二ノ宮家でたった1人の女性は、そうやって、いつでも笑顔で痛みを乗り越える人だった。 「あれ? でも、今は黒いよね?」 「はい。春先に色を戻してからはそのまんまで」 「何かあったのかな?」 「僕はグレるの飽きたのかなって、その時は軽く流してたんですけど、悠さんとの約束の話を聞いて、なんとなくわかりました」 「え……? 私?」 「……でも、これって、僕が言っていいのかどうか……」 「……なに? 私は聞きたいわ」 真っ直ぐな目に射竦められて、修吾は本当の答えをそっと隠して、ただ、遠回しな答えを返すことにした。 「……きっと、きちんと暮らしているってことだけは、知って欲しかったんじゃないかなって」 「きちんと……?」 「約束、楽しみにしてたんだと、思います」 ぎこちなくだけれど、なんとか笑顔でそう言ってみせると、悠がそっと俯いて、目の辺りを押さえた。 「え、ど、どうしたんですか? 僕、何か不味いこと……」 「ううん……。私も、楽しみにしてたの……」 「…………」 「本当に、楽しみにしてたから……」 グスッと小さく鼻をすする音がして、悠は嗚咽を漏らす。 自分がついてきたから、我慢するしかなかったものを、彼女が溢れさせてしまったのだと察して、修吾はその様子を見守ることしかできない。 しばらく、そうして立ち尽くしていると、突然、後ろで車のクラクションが鳴った。 車通りの少ない道を選んで歩いていたので、修吾は驚いて振り返る。 兄の車だった。 ゆっくりと2人の横で車が止まり、助手席の窓が開いた。 「……夕飯」 兄がぶっきらぼうな調子でそれだけ言う。 修吾はなんとなく分かったが、涙交じりの目で、そちらを向いた悠が不思議そうに首を傾げる。 悠が泣いているのに気が付いたのか、兄が少々困ったように目を細め、息を継いだ。 「……食ってけば? 帰り送ってく。山向こうのホテルだろ?」 悠は少し迷うように目を細めたが、間髪入れず、修吾が兄の言葉の後にドアを開けたので、促されるように後部座席に座った。 修吾は助手席に座り、兄に視線を向ける。 兄はさすがに彼女の涙が堪えたのか、黙りこくったまま、ギアを切り替えて、ハンドルを切った。 「それでそれで……?」 まるで、母親にお話の続きをせがむ子供のような調子で、柚子が身を乗り出してきた。 今日は、長い髪を2つに結っているだけ。 文化祭の振替休日。 特に約束をしていた訳ではなかったのだが、なぜか清香に呼び出されて、将観堂に来ていた。 何か相談事かと心配して駆けつけたなんて、彼女たちはきっとわかってもいやしないだろう。 清香と柚子が興味津々で修吾に視線を向けている。 舞だけがつまらなそうに目を細めて、店の奥のほうの席ではしゃいでいる子供たちの様子を眺めていた。 清香も分かっているだろうに、それを放置しているのだから、ちょっと可哀想な気がした。 2人の視線に気圧されるように、修吾は身を引き、もう何も無いとアピールするように首を傾げてみせる。 「あとは、夕飯をうちで食べて、兄貴が車で送っていっただけ。チケットは受け取ったみたいだから、行くんじゃないかな……?」 「ってことはぁ……、車内で何かあったってことだよね? そういうことだよね?」 恋愛話が大好物らしい清香が、いつになく楽しげにそう言って、柚子に目を向ける。 柚子もニコニコして頷いた。 舞が、その様子を呆れたように見て、ようやく口を開く。 「バッカバカし……。あたし、今日1日は寝て過ごすつもりだったのにさぁ……」 それは修吾も同様だったので、心の中で同意した。 別に、明日でもよかったろうに。 何しろ、核心である当人たちの気持ちは、修吾の推測でしかないのだから、単なる与太話で終わってしまうレベルだ。 「また、くーちゃんはそういうこと言う……。男の人に興味なさ過ぎだよ」 清香の言葉に、舞の表情が一瞬凍った。 その目で、清香が不味いことを言ってしまったことに気が付いたように、すぐに言葉を継ぐ。 「だってだって、柚子ちゃんに昨日、ケンゴさんを訪ねてきた女の人がいたって聞いて、気になってしょうがなかったんだもの。学校じゃあんまり詳しくは聞けなさそうだし」 「わたしもね、昨日から気になってたから、清香ちゃんが誘ってくれて嬉しかったんだ〜」 「……まぁ、楽しんでくれたんなら、良かったけどね」 休日に呼び出されてひたすら話した後に、ご褒美なしでは、さすがの修吾でも笑ってあしらえそうにないので、2人が楽しそうに笑ってくれただけでも、まだマシというものだろうか。 舞はそんな3人の様子を見ながら、コーヒーをすすった。 コトリとカップを置き、静かに切り出す。 「この後どうする?」 その言葉に、不思議そうに2人が首を傾げる。 中身の無くなったカップの中身を見て、修吾だけは、舞の言わんとしていることを察する。 「まさか、午前中から引っ張り出しといて、話が終わったら解散、なんてつまんない休日にする気じゃないでしょうね?」 元々、寝て過ごすというつまらない休日にする気だった人間が口にすると、なんともシュールな言葉だった。 「じゃあ、カラオケでも行こうか……? でも、混んでるかなぁ。みんな考えることは一緒だよねぇ」 清香の言葉に、柚子が過敏に反応した。 「歌は無理! 歌は絶対にダメ!!」 修吾も同感なので、柚子の横でコクコクと頷いた。 その様子を見て、舞が面白そうに笑みを浮かべる。 相変わらず、そういう時の邪悪な笑顔が小憎たらしい。 「そういえば、柚子の歌、聴いたことないなぁ」 「ダメダメ! 絶対に行かないから! 行くなら帰るもん!!」 「聴いてみたいなぁ……。可愛いんだろうなぁ……」 「行ーきーまーせーんー!!」 小学生のようなやり取りが目の前で繰り広げられる。 あまりの反応の幼さに、修吾は思わず噴出してしまった。 そこまで嫌なのか。 「ちょっ! 修吾くん、笑うなんて酷いよぉ。嫌なものは嫌なんだもの。しょうがないでしょぉ?」 顔が真っ赤になっている。 これは相当すごい出来らしい。 清香が柚子を落ち着かせるように、肩を優しくさすった。 「はいはい。カラオケは却下ねぇ。くーちゃん、茶化さないの」 その言葉で、ようやく柚子が静かになる。 「ウィンドウショッピングは、ニノを付き合わせるのが可哀想だしなぁ……」 田舎なので、外で出来ることは限られている。 運動系の施設は、インドア組が3人いるため、舞の中で完全に除外されているようだ。 同性同士であれば、おしゃべりであっという間に時間も過ぎようものだが、さすがの舞でも、こういう時は気兼ねするらしい。 「あ、そういや、修学旅行に持ってく物で、足りないものとかない?」 「……あ、わたし、歯ブラシセット買うようだった」 「じゃ、決まりだ。買い物にしよう」 修吾が穏やかにそう言うと、舞が意外そうに目を丸くした。 「いいの? 退屈じゃない?」 「大丈夫だよ。僕も買いたい物あるし。長くなるようなら、本屋で立ち読みしてるから」 「……じゃ、そうしよっか」 修吾の反応で納得したように、舞もようやく頷いた。 |