◆◆ 第10篇 筆の海・未完成の肖像画 ◆◆

Chapter10.二ノ宮 賢吾



『あんなに弱くて、ピアニストなんぞなれる訳が無いだろう。早いうちにやめさせたほうがいい』
 確か、小学5年のはじめ頃だったと思う。
 その日も、発表会前の定番とも言える発熱を起こし、1日寝ていた。
 そのせいもあってか、夜中に目が覚めてしまった。
 眠れそうもなかったので、仕方なく、トイレに行くために下りていくと、両親が話しているのが聞こえてきた。
『まだ子供なんですから、そんな先々のことまで考えなくたっていいじゃありませんか。あなたは、いつもそうだわ。興味の幅は広く持たせてあげたいし、賢吾はあのとおり、ピアノが大好きなんですよ? 将来とかそういうのではなく、あの子が好きなことをやらせてあげたらいいじゃないですか』
『いつもそうだとは何だ? 俺は、単にあの子が心配で……』
 あの父の口からそんな言葉が出るなどとは思ってもみず、幼い賢吾は、壁によりかかる。
『心配……? 心配なんて、転んでからすればいいんですよ』
『なッ……』
『転ぶ心配なんていくらしたって、どうしようもないじゃないですか』
『どうして、お前はいつもそうあっけらかんと……』
『信じてますから』
『…………』
『賢吾も、修吾も、あなたと同じ、とても強い人になると、信じてますから』
 自分の心の中、殺伐とした荒野で、不安に怯える自意識過剰な男が騒ぐ。
 すると、いつも頭がガンガンと痛み出し、熱が出る。
 他人の視線があることを意識する、ということが、子供心には重責だったのだと思う。
 ただ、ピアノを弾ければそれだけで良かったのに、優れた自分の能力を、他人は放っておかず、発表会へと引っ張り出す。
 あの頃はまだそれに慣れることが出来なかったのだ。
 ただ、弾き切った後に訪れる、短いけれど暖かな時間のために、自分は発表会に出ていた気がする。



「賢くん」
 和室で呆然と立ち尽くしていると、母が入ってきて、賢吾に声を掛けてきた。
 先程の叱るような声とは打って変わって、とても優しい声だった。
「あの方、東京からわざわざいらしたんでしょう? よっぽどの御用があったのじゃないの? それなのに、ほとんどお話もしないで帰してしまうなんて……」
「むかついたんだから、しょうがねぇだろ」
「……賢吾」
「…………。クソ忙しい時期に、わざわざこんな辺鄙なところまで来やがって。しかも、その用件が、公演のチケットを渡すためだってんだぞ。頭に来るじゃねぇか」
「お母さんには、なんで、賢吾が腹を立てているのか、全然わかりません」
 いつも、自分の理解者でいてくれた母が、とても穏やかな声でそう言った。
「今の賢吾は、発表会で賞が取れなくて、今回の審査員は見る目がないって吠えていた時と同じに見えるわ」
 口調は穏やかでも、眼差しは凛としていて、賢吾は母の顔が見れずに俯いた。
「…………」
「もう、今年で22なのよ? いつまでも、子供みたいなことを言っていたらダメだわ。なんで怒ってるのか、それとも悲しいのか、悔しいのか……。きちんと口で伝えないと、他人は分かってくれないのよ? 賢吾。最近は全然問題なく出来ていたことなのに、どうして、彼女にはそう出来なかったの?」
 賢吾はグッと唇を噛んで、眉間にしわを寄せた。
「夢が叶って良かったなって、もしも会えたら言うつもりだった」
「ええ」
「来なかったら来なかったで、それはしょうがねぇなって思ってた」
「……ええ」
「今のあの人と、おれを比べて惨めになるような、底の浅い人間でもないつもり」
「うん」
「だけど、おれは”生徒”として、約束したつもりなんて、1度だってなかったんだ」
「…………」
 母が分かったように目を細めて笑った。
 賢吾は喉が渇いて仕方なくて、そんな母を見つめ返してから、スタスタと和室を出る。
「賢くん」
 後ろで自分を呼び止める優しい声。
「なに?」
 振り返ると母がいつもの優しい笑顔で立っていた。
「夕飯、作り過ぎちゃったから、設楽さん、連れ戻してきてちょうだい」
 作り過ぎたなんてことが嘘なのは、聞いた瞬間分かった。
 なので、何も答えずに母に視線だけ返す。
 母は少し考えてから、ゆったりと口を開いた。
「賢くん、チャンスの女神には後ろ髪はないって話、覚えている? 賢くん、好きだったわよね?」
「良いなと思ったら、すぐにやる」
 すれ違ってから掴もうとしても、後ろ髪のない、チャンスの女神を捕まえることは出来ない。
 確か、そんな話だったと思う。
「……恋愛もね、一緒だと思うな?」
「…………」
「今回は運良く2回目があったけど、3回目は……さすがにないんじゃない?」
 賢吾はしばらく母と見つめ合っていたが、さすがに根負けして、頷くしかなかった。
 4年経っても、忘れていないのなら、それは立派に、恋なのだと、認めるしかない。
 1人で勝手に浮わついて、相手にとっては、自分が眼中になかった。
 そう感じ取って、腹を立ててしまうなんて、結局何も成長していない。
 そう感じたのなら、どうすれば、視界に飛び込めるのか、それを考えなくてはいけなかったのに。
 賢吾は、玄関脇に置いておいた車のキーを掴み、適当にサンダルを引っ掛けて、車に飛び乗った。



「あー、楽しかった♪」
 呼び戻しに行った時の涙など嘘のように、彼女は元気いっぱいにそう言って、賢吾の車に乗った。
 夕飯後、愛想のいい悠は母の話し相手になり、結局、家を出たのは21時過ぎだった。
 送るとは言ったものの、さすがに引き止めすぎた気がしないでもない。
 しかも、その間、自分と来たら、ぶすっとして、やり取りを眺めているだけだった。
 長話に付き合わせたのも、母の計らいであることは容易に察しがつくので、そんな自分の不器用ぶりに嫌気がさした。
 昔から、人付き合いが苦手だ。
 ただ一緒に騒ぐ程度の友人ならいるものの、絶対に踏み込んだ関係とは言い難かった。
 自分なりに、相手を信頼する気持ちがない訳ではないけれど、それでも、苦手さはいつでも付きまとう。
「…………。なんか、聴きたい曲ある?」
 人を車に乗せる時は定番となってしまった言葉を口にし、ダッシュボードを開けた。
 助手席に座った彼女は、一瞬戸惑うように賢吾の腕を見つめ、ふるふると首を横に振る。
 ……不味い。こういう時に訪れる沈黙が苦手だ。
 弟の友達の反抗的な女くらい、減らず口なら気兼ねもしないのに。
 泣いているのを見てしまったのもあり、どうにもならない居心地の悪さを感じてしまう。
 仕方なく、賢吾は腕を引っ込め、ギアを切り替えた。
「お話」
「んぁ?」
「お話がしたいな。あれから4年間のお話」
 車を発進させてから、少しの間の後、彼女はそう言った。
 賢吾は一瞬躊躇ったが、横目で彼女を見ると、不安そうに俯いているのが見えたので、静かに頷いた。
「……いいよ」
「それはどっち?」
「は?」
「肯定? 否定? しばらく日本離れてたら、ニュアンス的なものに鈍くなっちゃったのよね〜」
「この場合、肯定だろうが! おれ、そんな有耶無耶な言い方しねぇし」
 賢吾がそう答えると、悠はクスクスと笑って、「だよね〜」と言った。
 少しだけ、昔の温度を思い出した。
 馴染めなかった温度に、馴染んでいくのを感じる。
「二ノ宮くんに言われてから、私、色々考えたのよ」
「何を……?」
「色々だよ。色々。進路のことでしょ? 家族のことでしょ? それに、音楽のこと」
 指折り数えて、悠はそう言い、満足げに笑う。
「自分には何があるのかなぁって。自分が1番やりたいことって、何なのかなぁ、ってね?」
「ふぅん……」
「二ノ宮くんみたいに、”これしかない”って言えるのかなぁ、って」
 そう言われて、賢吾は何も返せず、目を細めた。
 悠は少し気にかけるように間を置いたけれど、静かに言葉を続けた。
「誰でも、いつかは考えないといけない問題で、とっても大事なことのはずなのに、気が付くと、1番やりたいものって、ないがしろにされやすいのよね。それは、環境もあるし、その時の状況にもよると思うけど……。私は、その時考えて、このままじゃダメだって思った」
「ダメ……?」
「うん。今、挑戦しなかったら、絶対後悔するって思ったの。お金のこととか、周りのこととか、言い訳にして逃げてるだけなんじゃないかって」
「…………」
「お前じゃダメだって、言われてから諦めようって決心してね? 師事する先生を変えて、オーディションを受けた。ホント、受けまくったよ? 卒業までに、って、自分で期限切ったから」
「なんで、卒業まで……?」
「未練がましくなるのが嫌だったから、かな」
「…………」
「ここまで、って切らなかったら、いつまでも、際限がなくなっちゃいそうで怖かったの。私さ、普通の人だから。そういうの無理で」
 眉を八の字にして苦笑する悠。
「普通? あんたが?」
「普通だよ〜……。普通にリアリストだし、普通に合理主義者だし、普通に……臆病で、見栄っ張りだし」
「それ、普通じゃなくね?」
「……少なくとも、天才って呼ばれていた誰かさんと比べたら、普通だったよ〜」
 悠は失笑して、可愛らしくそう言うと、ぼぉっと前を見つめた。
「私は、そういう区切り方しか出来なくて、どうにかこうにか、なれた訳だけど」
「うん?」
「二ノ宮くんは、そういう区切り、要らないんじゃないかなぁって思う」
「は?」
「弟さんに聞いた。お父さんに反対されて、進路諦めちゃったって話……」
「……あぁ。話したの? アイツ」
「私が聞きたいって言ったの。彼は悪くないよ?」
「分かってる。けど、なんか、話が凄い方向に飛んだよな? 今」
「ううん、飛んでないよ。私の本心だから」
 悠は誇らしげに笑い、こちらを向いた。
 ちょうど信号が赤に変わったので、ブレーキを踏んで、賢吾も悠のほうを向いた。
「私はそういうやり方しか出来なかったけど、実際、夢を追うのに年齢って関係ないのよ。40代になってから、昔行きたくても行けなかった音楽科に入学してきた方だっていたのよ? 無理に終わりにする必要ってないんだなぁって、そういう方を見て思ったの」
 彼女の眼差しがあまりに真っ直ぐで、吸い込まれてしまいそうな、不思議な感覚に陥った。
 けれど、後ろからクラクションを鳴らされ、すぐに賢吾はギアを切り替えて、発進する。
「もう1回チャレンジして、東京に来いって言ってる?」
 賢吾は静かな口調でそれだけ尋ねた。
 窓の外に視線をやって、悠は少し躊躇うように間を置いた。
「……そうだねぇ……。うん、そう言ってるんだと思う」
「お前が言ったんだろ……?」
「うん」
「変な女」
 賢吾が失笑すると、悠は特に言い返しもせずに笑って、バッグの中をゴソゴソと漁り出した。
 不思議に思いながら運転していると、ダッシュボードの上に先ほど突き返した封筒が置かれたのが視界に入った。
「お母さんと、見に来てくれないかな?」
「…………」
「さっき、見栄っ張りだって言ったでしょう? こうでもしないと、渡せそうになかったの」
「は?」
「3つも下なんだもの、見栄だって張っちゃうわよ」
「……意味わかんねぇ」
 賢吾のつれない言葉に、悠が躊躇うように押し黙る。
 赤信号の点灯時間が長い信号まで来て、賢吾はひと息つくようにグッと腕を伸ばした。
 そして、そこで少し頭が冷静になった。
 彼女は何を言おうとした?
 賢吾がそちらを向くと、悠が泣きそうな目で俯いていた。
 視線に気が付いたのか、悠はグッと唇を噛み、声を絞り出す。
「……私に、言わせないで……」
「…………」
「理由もなく、私、こんな約束したりしない。わかってよ」
 調子が狂う。
 賢吾の中には、4年前の、気丈でよく口の回る愛想の良い教育実習生しかいないのだ。
 夕方も同様だったが、こうやってしおらしい彼女の姿を見せられると、戸惑うしかなくて、言葉が上手く出てこない。
 けれど、言わんとしていることだけは、人の気持ちを察さない賢吾でも分かって、心だけは少し弾んだ。
 彼女の中で、自分は、生徒ではなかった。
 その事実だけで、不器用な賢吾でも、伝えなくてはいけない言葉を言うタイミングなのだと、わかった。
「お前、自意識過剰だよ……」
 賢吾は失笑しながらそう言った。
 信号が青に変わったので、アクセルを踏み、少し行ったところで車を歩道に寄せた。
 賢吾の言葉の意味を図りかねるかのように、不安そうに悠がこちらを見ていた。
「おれがなんとも思ってなかったら、どうすんの? こんなところまでわざわざ来てさ」
「……だから、2枚用意してきたのよ……」
「わっかりづれぇ……。んなことすっから、おれ、無駄に怒ることになったんだろうがよ」
「…………」
 賢吾はダッシュボードに置かれた封筒を手に取り、シャツの胸ポケットに入れた。
 それを意外そうに悠が見る。
「了解。行きます」
「え? あの……」
 賢吾は顔が熱くなるのを感じながら、必死にニッといつもどおりの笑みを浮かべた。
「答え合わせはまだにしよう」
「…………」
「目標が無くなると、おれ、心が折れちまうから」
「二ノ宮くん……?」
「棚ぼたは好きじゃないんだ。特に、おれぁ、この4年間、なんにも頑張ってこなかったからな」
 肩を寄せて、やれやれという素振りをし、ハンドルに手を掛ける。
「ただ、今度は連絡先、教えてくんない?」
 賢吾が真っ直ぐに悠を見ると、彼女は照れたようにそっと目を伏せた。
 ようやく、意図を察したらしい。
「え、ええ。勿論。当然。教える。教えます」
「そんな何度も言わなくても聞こえてる」
「だ、だって……」
 頬を赤らめて恥らう彼女を可愛らしく感じながら、賢吾はハンドルに掛けた指で節を刻む。
「ったく、だっせぇとこ見られたくなかったから、しゃんとしたのによぉ」
「え?」
「なんでも。こっちの話」
「そ、そう……」
「ねぇ、センセ?」
「……もう、先生じゃないよ」
「じゃ、……悠?」
 賢吾に名前を呼ばれた瞬間、悠は明らかに変な顔をして、そっぽを向いた。
「なんて呼べばいいの?」
「ぁ……悠でいい。もう……、さんも何も付けないんだから……」
「海外が長かったんだから、慣れっこだろ?」
「呼びづらいって言われて、”ハル”って呼ばれてたから……」
「”ハル”か。いいな。じゃ、ハルで」
「……えぇぇぇ」
「何?」
「なんか、複雑……」
「我侭だな。じゃ、ハルさんって呼ぼうか?」
「二ノ宮くん? 遊んでるでしょう?」
「うん」
「もぉぉぉう。好きに呼べば?」
「……うん」
 悠の言葉に、賢吾は随分と久しぶりに無邪気に笑った。
 その笑顔に見惚れるように、悠の表情が一瞬固まる。
「……わ、私は……」
「ん?」
「け……」
「ヤダ」
「なっ……まだ、呼んでないでしょ?」
「ヤダ。どうせ、母さんの真似でもする気だろ? おれ、あの呼び方、他のヤツにされたくない」
「……もぉう……」
「賢吾でいいじゃん」
「…………」
「おれ、この名前気に入ってる。少し堅い感じが好きなんだ。縮められるのなんて、家の中だけで十分だよ」
「…………」
「さってと……行こうか」
 悠は納得したのかしないのか、いまいち分からないような表情で、こちらを睨んでいたが、賢吾は構わずにアクセルを踏んだ。
『二ノ宮くんは、そういう区切り、要らないんじゃないかなぁって思う』
 先程、悠が言った言葉が頭を掠める。
 自分もここ最近考えていたことだった。
 だからこそ、その言葉に心が揺らぐ。
 けれど……、来年は修吾の受験が控えている。
 2人の息子がいなくなったら、……母は、あの広い家で、ほとんどの時間を1人で過ごすことになってしまう。
 それを思うと、決意はまだまだ固められはしなかった。



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