◆◆ 第11篇 秋暁・想いの霧に惑わぬよう ◆◆
Chapter2.渡井 柚子
清香と席に戻ると、トイレに行く前と変わらぬ体勢のまま、舞は寝ていた。 「……これは、京都着くまで起きないかもね……」 柚子が苦笑を漏らし、清香もつられて笑った。 一応、東京駅での乗り換えも済んでいるから、別に構わないのだけれど、それにしても眠りすぎではないだろうか? 柚子は小首を傾げる。 新幹線に乗るための駅まではバスで、その間、舞は柚子の隣の席だった。 その時も眠いと言って、柚子にもたれかかって眠っていたのだ。 腕時計を確認すると、もう14時半。 いくら、昨日眠れなかったと言っても、寝すぎだ。 柚子は心配になって、清香が席に着くのを遮って、舞に近づいた。 「舞ちゃん……?」 舞の体を揺さぶり、彼女の手に触れる。 手がとても冷たかった。 元々冷え性だと言っていたけれど、今は車内だし、これほど冷たくなるだろうかと疑問を覚えるほどの冷たさだった。 「ッ……清香ちゃん、保健のセンセ……」 「いい……」 柚子が清香に言おうとした言葉を遮るように、舞は柚子の手を引っ張って、口を塞ぐ。 カーディガンがバサリと落ちて、顔色の悪い舞の顔が現れた。 それで異変に気が付いたのか、清香も心配そうに柚子のすぐ後ろに立った。 騒ぎになるのが嫌なのは分かっているので、柚子をなだめて下がらせ、2人とも席に着く。 隣で清香が穏やかな声で、舞に問う。 「具合、悪かったの……?」 舞は周囲を気にしてか声は発さず、コクンとだけ頷いて、お腹を押さえる。 それで2人とも察して、ひとまず、胸を撫で下ろした。 「タイミング悪すぎ……」 搾り出すように弱った声でそう言い、舞は苦笑する。 「薬は……?」 「飲んだんだけど、久々に来たからか、全っ然効かなくて……」 「カイロいる? 一応、持ってきてるから……。腰あっためるだけでも全然違うよ?」 柚子は小声でそう言い、足元に置いておいたバッグからポーチを取り出した。 「ごっめん、ちょうだい……」 弱々しい舞の声。 柚子はすぐに貼るタイプのカイロを2枚手渡す。 幸い、柚子はそれほどでもないけれど、舞はどうやら重いタイプの人らしい。 機嫌が悪そうに見えるはずだ。 周囲のことなんて構っている場合でもないだろう。 「……あと、どのくらいで着く?」 「えっと……京都には1時間くらい。でも、今日は宿泊が奈良だから……」 「……はぁ……旅館着く頃には治まってほしいなぁ……」 柚子の回答に、舞が憂鬱そうに息を吐いて、窓の縁に肘をついた。 「くーちゃん、体冷えるから、席交換しよ?」 清香がすっくと立ち上がって、舞に席を明け渡す。 舞はふらふらしながら、清香が座っていた席に着き、柚子を見て笑った。 「両手に花だね」 「……茶化しは要らないから」 柚子が少し叱るような口調で言うと、舞は失笑して、柚子にもたれかかった。 バスの中でもたれかかられた時とは全然違うのが分かるくらい、体が冷たかった。 清香が不服そうに、2人のやり取りを見つめている。 さすがに、あの相談事を受けた後に、舞のこの行動では、どうフォローすればいいのか、言葉が見つからない。 タイミング、二重で悪いよ、舞ちゃん……。 思わず、心の中でそんな言葉を呟いた。 「バスの席、後ろにしてもらう?」 気遣うように清香が言い、柚子も同意するようにコクコクと頷いた。 横になっているほうが幾分かは楽なはずだ。 そのためには、スペースのある後部座席のほうがいいだろう。 「……ごめん……そうしようかな……。柚子、膝貸してね?」 ピシッ。 きっと錯覚だけど、舞の頭越しに見えた清香の表情から、その擬音が似合うレベルで、不機嫌度が上昇したのが分かった。 「ま、舞ちゃん……」 柚子はわたわたと口を動かして、舞にそのことを報せる。 けれど、舞は分かっているくせに、特に取り消すことはしなかった。 不機嫌だった原因ははっきりしたはずなのに、それだけではなかったのだろうか? 困ってしまって、柚子は俯き、ポツリと呟いた。 「ふ、夫婦喧嘩に巻き込まないで欲しいな……」 京都での乗換が済んで、奈良の旅館まではバス移動だ。 先程言ったとおり、舞と柚子は最後部席に移動させてもらうことになった。 バスに乗り込む際、心配そうに清香がこちらを見ていたけれど、バス移動で隣になった子に声を掛けられて、どうとも出来ず、そのまま、バスの席順どおり席に着いたようだった。 舞が柚子の膝を枕にして横になり、落ち着いたようにひと息つく。 清香から借りたままのカーディガンをお腹に掛けると、ゆっくりと目を閉じる舞。 近くの席に座っていた男子が、さすがに心配したのか、わざわざ振り返ってまで声を掛けてきた。 「車道さん、具合悪いの? 大丈夫?」 こういう時のためにも、清香のほうが適任だったと思うのだけれど。 柚子が対応に困って硬直していると、舞がすっと目を開けて、穏やかに笑った。 「大丈夫じゃないでぇす。心配してくれてありがと」 そう言って、舞がひらひらと手を振ると、相手も満足したのか、姿勢を前に向けた。 隣の男子と談笑を始めたのが聞こえ、バスの前のほうでは、バスガイドさんが挨拶を始めた。 「ごめんねぇ、柚子」 声が隠れるのを計算の上でか、舞が小声でそう言った。 周囲が騒がしいのもあり、柚子は顔を寄せてそれを聞き取る。 「……あ、う、ううん。具合悪いのに、こっちこそごめん」 「そうじゃないよぉ。巻き込んでごめん」 「……あ、う、うん。あはは」 「でも、席の配置的に、清香に面倒見てもらうのは気が引けたんだ」 そう言われて、柚子は初めて気が付いた。 ……ああ、そういうことか。 バスの席は前方に女子、後方に男子を配置するように組まれていた。 清香が舞に付き添うと、間違いなく、男子の誰かが話しかけてくる。 そして、あの清香のことだから、愛想よく言葉を返し、他の男子も同様に話しかけてくるだろう。 舞であれば、先ほどのように適当にあしらえるけれど、清香はそうではないのだ。 ……とはいえ。 柚子は目を細めて苦笑した。 顔が近かったので、舞もその反応に気付いて不思議そうに心なしか首を傾げた。 「わかりづらいよ、舞ちゃん……」 その気遣いは分かりづらい。 清香はご立腹のままである。どうするつもりだ。 「……あたしに、説明する余裕があったと思う?」 「…………。そうだよね」 「それに、そのまま話したら、清香が『そんなことにはなりません』ってごねるじゃん」 舞が心底面倒くさそうに言葉を吐き出し、寝返りを打つ。 「そうだけど……」 「そういうところが可愛いんだけど、今日は余裕ないから、パス。それに……」 「なに?」 「あの子に、膝枕なんかされたら眠れないじゃん」 舞の言葉に、柚子の頭の中で、カラスがカーと鳴いた。 なんだろう。 心配していた不穏な空気とは裏腹に、舞の中は至って平和だ。 夫婦喧嘩……? それどころか、これはのろけの部類じゃないか。 少しの間を置いて、舞がぼやくように言葉を漏らした。 「あの子の中でのアウトな部分がいまいちよくわかんない」 「ん?」 「こんな状態だからかなぁ……。無性に寂しいから、手、握ってて欲しかったんだけど」 柚子には舞の言っていることがよく分からなくて、ただ聞くことしかできない。 「それすら、駄目なのかなぁ……世間的には」 また、この人は苦しみの淵にたった1人で立っているのだろうか。 勝手に、1人になってしまっている気がしてならない。 自分で言うのもなんだけれど、本当に、甘えるのが下手な人だ。 そんな彼女が、親友として愛しくて仕方がない。 柚子は舞の綺麗な髪を指ですかして、優しく微笑む。 「清香ちゃんに言わないと、意味ないよ?」 「……うん。そだね……」 柚子に撫でられて安心したのか、舞の目がとろんと緩んだ。 「……おやすみ」 「……うん。着いたら、起こすから」 あどけない表情で、舞が眠りにつく。 ピークを過ぎたのか、ようやく薬が効いたのかはわからないが、その寝顔は安らかだった。 一旦、トイレ休憩でバスが止まったところで、清香が様子を見に来た。 舞の寝顔を見て安心したのか、優しい眼差しになるまで、そう時間は掛からなかった。 「可愛い」 周囲も気にせず、清香はそう漏らし、舞の髪を撫でた。 いつもは誤解が生じないように立ち回る舞が、調子が悪くて言葉足らずになっているため、一応、柚子はそれとなく、先程、舞から聞いた言葉を伝えることにした。 清香はそれを聞くと、にっこりと笑った。 その笑顔は知っている。不機嫌な時の笑顔だった。 「余計な気遣いだって言っておいてくれるかな……?」 だからさぁ……。 夫婦喧嘩に巻き込まないで欲しいな……。 本日2度目のその言葉を、柚子は心の中で呟いたのだった。 ようやく、宿泊予定の旅館に到着。 舞を起こしてバスを降りると、心配そうな顔で清香が待っていた。 舞と清香は同室。連れて行くのは彼女のほうが都合がよかった。 「大丈夫?」 気遣うように歩み寄ってきて、舞の頬に触れる清香。 その時、少しだけ周囲がざわついた気がした。 柚子はその喧騒を知っていた。 興味本位の悪意が生み出す、嫌なざわめきだ。 ……あれ? 心の中、小さく呟く。 なんだろう。何かがおかしい。 柚子はそっと頭を抑える。 「柚子? どした?」 舞は気付いていないみたいだ。 清香も、おそらく気が付いていない。 まずい。気持ち悪い。この空間にいたくない。 「柚子チャン? だいじょぶ?」 バスの荷物室から柚子たちのバッグを受け取ってきてくれたのか、秋行を先頭に、修吾と勇兵がやってきた。 周囲の嫌な空気があっという間に消えるのが分かった。 「シャドー、だっせぇ。修学旅行初日で体調崩すとか」 からかうように勇兵が笑った。 彼なりの労いなのだが、元気のない舞は視線だけ向けて、すぐに手を差し出した。 「ん?」 「バッグ……」 「いいよ。お前の部屋の階まで持ってっちゃる」 「でも……」 「こんな時くらい甘えとけよな。どんなに構えたって、今日は隙だらけなんだから」 「シャドー、まだ顔色悪いし、そうしといたほうがいいよ」 勇兵に従うように修吾がそう言い、ぎこちない表情で、柚子のバッグを持ち上げてみせた。 「ついでに僕も持ってく」 「だ、だいじょぶ。わたしは元気だし、そゆ気遣いは、好きくない、です」 「……言うと思った」 修吾は静かに言うと、柚子の前にバッグを差し出す。 それを受け取って、「ありがと」と一緒に会釈をした。 「はい。遠野さん」 当然のように秋行は清香にバッグを渡し、にっこりと笑う。 清香が一瞬戸惑うようにバッグを見たが、おかしそうに笑って、「ありがとう」とおっとりした口調で言った。 鈍感な柚子でも、2人の間に流れる微妙な空気だけは、なんとなく感じ取れた。 雰囲気が似ているところのある2人だけれど、あまり会話をしているのは見たことがない気がする。 「さって、行ぐべし」 秋行は得意満面の笑顔でそう言い、先頭を歩いてゆく。 「アキちゃん、張り切ってんなぁ」 「修学旅行、初めてなんだってさ」 「あ、そうなの?」 「ドクターストップで小中行けなかったんだって」 「……なるほどなぁ……」 修吾の言葉に、勇兵が納得したように頷く。 柚子はそれを聞いて、親近感が湧いた。 「柚子も初めてだよね?」 「う、うん……」 「へぇ! んじゃ、きっちり盛り上げないとなぁ!」 「勇くんったら……」 「バレー部は朝ランがあるけど、それ以外は部活のことは忘れる予定だからさ。みんなで楽しもうぜ! 寺ばっかだけどな! ああ、つっまんね!」 あっけらかんと言うので、その愚痴は全く愚痴に聞こえなかった。 おかしくて、その場にいた全員が笑う。 みんなの笑顔で、柚子はほっと息を漏らした。 気のせい。 さっきのは、きっと気のせいだ。 |