◆◆ 第11篇 秋暁・想いの霧に惑わぬよう ◆◆

Chapter5.遠野 清香



「じゃ、あたしら、お風呂行ってくるから〜」
 お風呂の時間になり、同室の女子たちが身支度をして部屋を出て行った。
 特に寝る時の服装については指定がなかったので、派手になり過ぎない程度で、みんな思い思いの格好をしている。
 舞は水色のパーカにハーフパンツという、普段家にいる時のスタイル。
 清香はカワイコぶらない程度にカジュアルなシャツとフリースのパンツスタイル。
「清香、お風呂行っといでよ」
 適当に畳の上に横たわっている舞。
 そこから少し離れたところに腰掛けて荷物の整理をしていると、後ろからそんな声がした。
「嘘なんでしょ? 始まったなんて」
「んー。でも、私、元々大浴場苦手だし」
 なんでもないように微笑みかけると、舞は静かに寝返りを打った。
 なぜだろう。
 その背中は、随分と寂しそうに見えた。
「お風呂、汲んじゃうね?」
「……うん……」
 情緒不安定になりやすくもなるだろうし、そっとしておくのが1番だろうか。
 いつも理屈で考える人だから、自分の頭の中が感情でいっぱいになることを嫌う傾向にある。
 少なくとも、清香はそう感じている。
 部屋に備え付けのお風呂の戸を開け、適当にお湯の蛇口をひねった。
 ドドドドドド……と音を立てて、お湯が湯船に注ぎ込まれる。
 その様子をしばし見つめてぼぉっとする清香。
 あの噂がどの程度広まっているかは不明だけれど、少なくとも同室の子たちはそのことを気にする素振りが見えなかった。
 広まり出してそれほど時は経っていないということだろう。
 文化祭は舞と一緒にいたし、告白されたのだって、たまたま1人になった時に不意を突かれたくらいだ。
「あの先輩のファンの人……?」
 確かにカッコ良かったけど、そんなことでいちいち槍玉に上げられていたらたまったものではない。
 別に手酷く振った訳でもないのだ。いつも通り、丁重にお断りした。
 コトン……と後ろで物音がしたので、清香は思考をこちらに戻した。
 振り返ると、舞がガラス戸のところに寄り掛かるようにして立っていた。
「どうしたの? くーちゃん」
「なんかさ、様子おかしいよね? 何かあった?」
 舞は静かな調子で言うと、目を細めた。
「何もないよ」
 穏やかな笑顔を返して、湯船の縁に腰掛ける清香。
「だって、夕飯だって、ユンたちと食べるなら、もっと早くに言ってくれればよかったじゃない? なんで、唐突に……」
「あれは単純に言うタイミング逃しただけだって」
「…………。ホント?」
「ホントだよ。私、くーちゃんには嘘つかないよ。ついても、すぐ見透かされちゃうし」
 清香の言葉に、舞は安堵したのか、静かに息を吐く。
「お湯ぬるめのほうがいいよね? 半身浴にする?」
「……うん。清香、先に入っていいよ」
「わかった」
 ニコニコ笑顔で返すと、舞が清香の顔を見つめて停止した。
「? なに?」
 清香が首を傾げると、部屋の外を気にするように見てから、脱衣場の戸を後ろ手で閉めた。
「くーちゃん?」
 清香の肩に舞の手が触れる。
 それで察して、清香はそっと目を閉じた。
 最初は頬。その後唇に柔らかいものが触れる。
「くすぐったい……」
 清香が照れ隠しでそう囁くと、舞はそのまま清香の頭をきゅっと胸に抱き寄せる。
 珍しいな。甘えてくれてる?
 そんなことを思いながら、舞の心臓の音を聞く。
 トクントクン。
 緊張しているのだろうか? テンポが速い気がする。
「なんで、あんたのほうが背高いかなぁ」
「え?」
「目線があたしより上だから、いっつも一瞬考えちゃうんだよね」
「縁に腰掛けてるからちょうどいい高さだった?」
「……うん」
「ずっと生理ならいいのに」
「は……?」
 清香の言葉に驚いたように舞が素っ頓狂な声をあげる。
「冗談。たまにはいいかなって。こういうのも」
「……いいの?」
「え? うん。私はしたくても、私からすると、くーちゃんの機嫌悪くなるしね」
 ヤケクソのセカンドキス(舞はファーストだと思っているが)を思い出して、清香は顔が熱くなった。
 気持ちは嬉しかったと舞は言っていたが、きっと主導権を握られたのが悔しかったのだろう。
 あれ以来、一切隙を見せてはくれなかった。
「しっかし」
「 ? 」
「お風呂場っていう、超エロシチュエーションで、あたし、このくらいしかしていいことが思いつかないんだけど。あー、勿体無い」
「ばか……」
 しようとしたら引っ叩きます。なんて言葉は心の中に押し込む。
 舞は茶化すだけ茶化して、特に何もすることなく頭を撫でてくれるだけ。
 男子たちが焦がれて止まないこの胸も腰も、全部自分のものだ。
 そんなことを思いながら、きゅっと舞の腰を抱き締めた。
「わ、なに?」
「細いなぁと思って」
「普通じゃない?」
「……くーちゃん、それ、他の子たちの前で言ってみたら?」
「は……?」
 間違いなく大ひんしゅくを買うことだろう。
「あ、お湯」
 舞が清香の頭を撫でるのをやめて、蛇口を締める。
 2人を覆っていた大音量が消え、舞は魔法が解けたようにそっと清香から離れた。
「上がるまでテレビ見てる。もし寝ちゃってたら起こして?」
「……うん。わかった」
 ちょうどその時、部屋の戸をノックする音がしたので、舞がお風呂場から出て行く。
「はい?」
「あ、よかった。舞ちゃん、やっぱりお部屋にいた」
 ほんやりと和やかな柚子の声がして、部屋の戸がカラカラと開く音。
「どした? お風呂は?」
「行ってきた。ちゃちゃっと済ませて逃げてきた」
「逃げてきたって……。まだ髪濡れてるじゃん。清香ー。タオルどこだっけ?」
「あ、クローゼットのところに浴衣と一緒に置いてあったよ」
 突然振られたので、慌てて顔を出してそう返す。
 舞が颯爽と踵を返し、清香の脇をすり抜けて、タオルを取りに部屋に上がる。
 小花柄のチュニックに生成のハーフパンツ姿の柚子。
 いつも結っている髪は下ろされていて、少し湿っていた。
 目が合うと、驚いたように目をまんまるにした。
「あれ? 清香ちゃんもいたの?」
「うん」
「あ、あれ……もしかして……」
「そこで立ちんぼしててもしょうがないから入って? みんな、しばらく戻ってこないだろうし」
 お邪魔だったかな、と言いそうだったので、清香は慌てて部屋に入るよう促した。
 誰に聞かれているかわかったものじゃない。
「あ、うん。じゃ、お邪魔します」
 おどおどしつつも部屋に入り、後ろ手で戸を閉める柚子。
 一応、鍵を閉めてはいけない決まりになっているので、鍵に関しては開けたままだ。
 柚子が部屋に上がり、入れ違いで舞が顔を出す。
「清香ー? ドライヤー、そっちにある?」
「あ、うん。パワーなさそうなのがひとつ……」
「……まぁ、しょうがないか。ちょうだい」
 手だけ差し出してくる舞に、それを手渡す。
「サンキュ」
 いい笑顔でそう言い、舞の顔が引っ込んだ。
 ヒタヒタと畳の上を歩いていく足音だけが耳に残った。



 舞と柚子が楽しげに話している声が聞こえてくる。
 ああ、早く上がって2人の会話にはまりたい。
 ……でも、自分が上がる頃には誰かしら戻ってくるだろう。
「……ま、いっか……」
 京都では3人部屋。
 好きなグループで組んでいいと言われているので、3人とも同室だ。
 深夜に入れ替わりや部屋同士の行き来をされるよりも、そちらのほうが管理しやすいというのが、教師側の本音らしい。
 両手でお湯をすくって、そのまま顔に浸す。
 先程舞の唇が触れた場所が今頃になって熱く感じた。
 舞はあっという間に魔法が解けたようだったけれど、自分はまだかかったままだ。
 唇に触れて、ぼんやりと目を細める。
「まずいなぁ……」
 思った以上に、自分のほうが彼女に夢中になってしまっている。
 キスのおねだりなんて、どうやればいいのか分からない。
 今晩は、本当に起こるはずのない奇跡の起きた夜だったというのに。
 舞は、本当に紳士的過ぎるので、今後きっとこんなチャンスは巡ってこないような気がしてしまう。
 お湯に顔を半分埋めて、ぶくぶくと息を吐き出す。
「清香? 長いけど、のぼせてない? 大丈夫?」
 ガラス戸の向こう側に舞のシルエットが見える。
 清香はゆっくりと姿勢を正して、「大丈夫」と返した。
「ならいいけど……」
「楽しそうに何話してたの?」
「ん? 柚子がさ、あっちの部屋の子達に質問攻めにあいそうになったんだって」
「質問攻め?」
「”二ノ宮くんのこと、どうやって攻略したのぉ?”とか」
「……ああ、なるほど」
「でもさ、勘の良い子も中にはいたらしくて、”実は密かに2人のこと応援してたよぉ”って言ってくれたんだって」
「そう、なんだ……」
 そんな言葉、自分たちの場合に言ってくれる人はどれくらいいるだろうか。
 そう思うと、どうしても表情が翳る。
 彼女には見えない。それが分かりきっているからこそ、素直に出した。
「嬉しかったけど、恥ずかしくなって逃げてきちゃったってさ」
「柚子ちゃん?」
「うん。あの子らしい」
「でも、意外と1人でも平気だったみたいでよかった」
「…………。心配するのはこちら側だけ、ってね」
 少しだけ、舞の寂しげな声。
「そんなことないでしょ」
 清香は出来るだけ優しい声でそう言い、ザバリと音を立てて立ち上がった。
 お湯が肌を滑り落ちていく。
「そろそろ上がるから出てくれる?」
「はぁい」
 おどけた様子の舞の声。その後に脱衣場の戸を閉める音がした。
 ガラス戸に掛けておいたタオルで軽く体を拭い、湯船の中を確認する。
 今頃になって恥ずかしくなってきた。
 栓を抜いてしまいたい気持ちに駆られるけれど、それはそれで意識してしまっているのを見透かされるようで嫌だ。
 覚悟を決めて、ガラス戸を開け、脱衣場に置いてあったはずのバスタオルに手を伸ばす。
 ……が、ない。
「あれ?」
 慌てて記憶を呼び戻す清香。
 着替えは持った。フェイスタオルも持った。現に今使ったし。
 ……バスタオル……。荷物の上に置きっぱなしにしてきたかも。
「あー……」
 清香はそこでしゃがみこむ。
 コンコンと控えめなノックの音。
「はい?」
「清香ちゃん、バスタオル、置きっぱなしだったよ?」
 柚子が小さくバスタオルが通るくらいの隙間だけ開けて、中に押し込んできた。
「あ、ありがとう」
「ううん」
 隙間から半分だけ見えた柚子の顔は優しくほころんでいる。
 きっと気が付いたのは舞だろう。
 それでも、わざわざ柚子を介して渡してきた。
 なんだ。お互い様か……。
 清香は受け取りながら、口元を緩ませる。
「あの……」
 清香の顔を見て、柚子が少し考えるように目を泳がせる。
「なぁに?」
「だいじょうぶ?」
「……何が?」
「……噂話……」
「大浴場でも話題になってた?」
「……う、うん。ちらっと、聞こえた……」
 柚子は舞に聞こえないように小声で話してくれている。
 なので、清香も自然と小声になった。
 そっと人差し指を口元に当てて微笑みで応える。
「くーちゃんには内緒ね」
「で、でも……」
「これは私の問題で、くーちゃんは関係ない」
「…………。でも、そのうち、きっと耳に入っちゃうよ……?」
「わかってるけど……、それでも、もう少し考える時間が欲しいの」
 清香の言葉に、柚子は心配そうに小首を傾げてみせた。



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