◆◆ 第11篇 秋暁・想いの霧に惑わぬよう ◆◆

Chapter8.遠野 清香



『美味しいよ』
 とっても優しい笑顔で彼女が言った。
 甘さ控えめ彼女専用のお菓子はどんどん増えていく。
 その優しい眼差しに見つめられることが当然になっていく。
 自分にとっては、それが当然で、それが普通で、それが何よりも幸せな時間なのだ。
 それなのに、周囲の人たちはざわざわと騒ぐ。
 それが特殊なことだと面白がる。
 母に至っては、頭痛の種だという。
 今のうちはまだいいけれど、将来を考えたら、どうすればいいのかわからないのだと、悲しそうに言う。
 一緒に生きていけばいいじゃない。
 ただ、一緒にいられるだけで、こんなに幸せなんだから、それだけじゃ駄目なの……?
 別に、この世の中の社会構造を変えて欲しいなんて望んでいない。
 ただ、彼女のことを認めて欲しいだけだ。私のことを認めて欲しいだけだ。
 理解してなんて言わないから、せめて、そっとしておいて欲しい。



 清香はベッドの上で、枕に顔を埋めて泣きじゃくる。
 秋行の気遣いは嬉しかった。
 それに乗ってもいいんじゃないかと考えた自分も確かにいた。
 だけど、嘘の壁を作り上げて、歩いていく先には、また同じ問題が発生するだけじゃないのかと、考えてしまった。
 嘘をつかなければ、2人一緒にいられないことを、自分自身で、肯定したくなかった。
 秋行の提案を受け入れてしまったら、自分自身さえ、この気持ちを違えることになるのじゃないかと、そう思った。
 コンコンとドアをノックする音で、ゆっくりと顔を上げる。
「清香? 開けて?」
 舞の声。
 もう食べ終わって戻ってくる時間か。
 涙が全然止まらない。
 どうしよう。
「話、全部聞いた」
 予想もしなかった言葉に、清香は怯えて枕を抱き寄せる。
「清香、話したいの。開けてくれない?」
「…………」
 ゆっくりとベッドから降りて、おずおずとドアの前まで歩いていく。
「あたしだけだから。開けて」
 震える指先でドアの鍵を開け、静かにドアノブを回した。
 舞が優しい目でそこに立っていた。
 涙でぐしゃぐしゃなこちらが恥ずかしくなるくらい、優しい表情だった。
 すぐに中に入ってドアを閉める。
 ポケットから出したハンカチを清香に渡し、導くようにベッドに腰掛けさせる。
 舞はそんな清香を見上げるように、床にしっかりと膝をついた。
 清香の両腕をしっかりと掴み、言い聞かせるように話し始める。
「清香、ひとつ聞きたいんだけど、あたしに今回の件を相談しなかったのはどうして?」
「……相談するほどの、内容じゃないと思ったから……」
 舞の目を見ずに、ポツリと返す。
 舞はすぐに見抜いたようにため息を吐いた。
「お願いだからさ、嘘はつかないで欲しいんだよね」
「…………」
「あたしが気にすると思って言わなかったんでしょう?」
「…………」
「あたしは……相談して欲しかったな……」
「…………」
「あたしさ、清香に頼られたいから傍にいんのね? 守ってあげたいから傍にいんの。カッコいいって思って欲しいから、傍にいるんだよ? わかる?」
 舞はストレートな言葉で、清香に気持ちをぶつけてくる。
 清香はその言葉で、せっかくなんとか治まった涙がまた溢れてきた。
 コックリと頷く清香。
「……でも」
「ん?」
「私だって、くーちゃんを、守りたかったの……」
 清香の言葉はさすがに予想していなかったのか、舞は言葉を探すように口を噤んだ。
「こんな形で変な噂が流れたって知ったら、くーちゃん、きっと、別れようって言い出すと思ったから……。私のことを優先して、そう言うと思ったから。……だけど、私は、そんな終わり方、嫌だったんだもの……」
「清香……」
「南雲くんにお芝居打とうって話をされて、それもいいかなって、思ったの。だけど、だけど……やっぱり出来なかった。だって、おかしいもの。私たち、世間に背を向けなくちゃいけないことなんて、何にもしてないんだから。くーちゃんは、こんなに素敵な人なのに……苦しそうに生きなくちゃいけない理由なんて、本当はないはずなのに……」
 清香の言葉で、舞は決心がついたように笑った。
「……ありがとう、清香」
「え……?」
 舞は立ち上がると優しい力で清香の体を抱き締めてきた。
 彼女の暖かさに眩暈がしそうになった。
「清香の言葉はすごく嬉しい。たくさんの優しさと、たくさんの理解を、本当に、ありがとう……」
「くーちゃん……?」
「でもね? 世の中には色々な人がいるの」
「…………」
「理解してくれる人も、認めてくれる人もいるだろうけど、そっと目を背ける人や、それは間違いだと言う人だって、中にはいる。それは考え方の違いで、すべてをすべて、分かり合った世界なんて、きっといつになってもやってこないと、あたしは思うんだ」
「くーちゃん……」
 その先を聞きたくなかった。
 この人が、何を言おうとしているのか、なんとなく、察しがついてしまった。
 清香は舞の腕の中で首を横に振る。
 もうやめて。話さないで。それを言われても、私は納得なんて、絶対にしないよ。
「あたしと付き合うことで、清香はこの先、もっと辛いことが起こるかもしれない。あたしは、それであなたが傷つく姿を、見たくないんだ」
「いや……」
「あたしじゃ守ってあげられないなら、あたしは傍にいないほうがいい」
「嫌よ……」
「ずっとずっと一緒に生きていくって覚悟が出来たらで全然良いんだってあたしが言ったこと、清香覚えてる?」
「…………」
「選択肢を狭めるのは、清香にはまだ早すぎると思うんだ。勿論、あたしだってそうだけど……」
「くーちゃん、ひどいよ……」
「清香が予想したとおりの結論なのかもしれない。だけど、大好きだからこそ、あたしはこの答えしか出せないよ」
「大好きだからこそ、守ってくれるんじゃないの……?」
「……何かある度、清香がこんな風になっちゃったら、あたし、堪えられないよ。ごめん、清香。あたし、そんなに強くないんだ」
 頭の中で何か重たいものがグルグル回っているような感覚がした。
 頭が痛い。受け止めたくない言葉をたくさん言われたからだ。
「くーちゃんには、もっと自分自身を気遣って欲しいってずっと思ってきたけど……、こんなの酷い。くーちゃんにとって、私ってそんなだったの? そんなに頼りない? 傷つく度に立ち上がれないくらいボロボロになるような子に見える?」
「…………」
 清香は舞の腕を振り払って立ち上がった。
 舞の表情には覇気がなかった。
 今まで悪い噂なんてほとんど立ったことのない人だ。
 彼女のほうが打たれ弱いに決まっていた。
「私はそんなに弱くない。どんなこと言われたって、ずっと、泣かずに堪えてきた。今回だって、ああまたかって思っただけ。そういう小さな悪意を気にしてたってどうしようもないことくらい、もうわかってるもの!」
「……清香」
「でも、くーちゃんに、受け止めてくれる覚悟がないっていうなら、あなたが言うとおり、別れたほうがいいのかもしれないね」
 清香のはっきりした物言いに、傷ついたように目を伏せる舞。
 言い出したのはあなたでしょう? どうして、いちいち傷つくの?
 清香の中には憤りしか湧いてこない。
 どんな美談を交えたって、どんなに好きだって言われたって、”要らない”と言われた事実は変わらないのだ。
 舞に言われたことのほうがショックは大きいし、十分傷ついた。
「あなたとのやり取りで傷つくことは覚悟してた。私は、あなたとの関係を考え直したあの瞬間から、もう肝を据えていたんだから。だから、こんなの、大したことじゃない。だけど、告白してくれたあなたから”要らない”って言われるなんて、思わなかった」
「い、要らないなんて言ってない……」
「同じことだよ」
「…………」
「どんなに傷つけられたって、どんなに白い目で見られたって、一緒にいたいって、言って欲しかった。覚悟が決まってないのは、くーちゃんのほうじゃない」
「……ごめん……ごめんなさい……」
「私、今日はユンちゃんたちのグループに混ぜてもらうことにする。今後はくーちゃんのおうちにも行かないし、デートにも誘わない。それでいいよね?」
 さっさと物事を整理していく清香に、ついていけないように舞が視線を泳がせる。
 自分で言った言葉の意味を、ようやく実感したのかもしれない。
 もっと早くに相談しておけばよかった。
 少なくとも、自分から話していれば、まだマシな事態になっていた気がする。
 舞の優しさばかりを気遣って、彼女の強さを信じなかった。
 自分自身にも非があった。間違いだった。
 何かあったらちゃんと話し合おうって、あれほど2人で話し合ったのに。
 終わりが来るなんて、考えたこともなかった。



『王子様はすっごく情熱的だと思うよ。一目惚れした相手を、あれだけ執念かけて探そうとするんだから』
『そうかなぁ。あたしは、そうは思えないよ』
『どうして?』
『本当に気になるなら、お触れなんか出さずに自分で探しに来いよって思わない?』
『身も蓋もないよ……』
『本気なら、それくらいするんじゃないの? わかんないけど』
 舞は台本を読みながら唸るようにしてそう言った。
 中学3年の文化祭演劇の読みあわせを2人でしていた時の会話だったろうか。
 本気なら、それくらいするんじゃないの? くーちゃん。
 彼女は昔本気を出すことが面倒だと言った。
 本気を出したって、何が起こるわけでもないんだから、と。
 告白してくれた時の彼女は本気だった。
 溢れるような熱が伝わってきた気がした。
 自分を慕ってくれた彼女だって、本気だった。
 それは存分に伝わってきた。
 でも、最後の最後、この結論を出した彼女から、本気は伝わってこなかった。
 優しさは伝わってきたけど、彼女の本当の想いではなかった。
 ……だから、悔しくて悲しくて仕方なかったんだと思う。



「あの……」
 静かな室内で、柚子が2人の様子をうかがうように声を発した。
 柚子のほうを見ると、彼女は心配そうに目を細めた。
「先行くね」
 気まずいのか、舞は準備を済ませてさっさと部屋を出て行く。
 ドアが閉じてから、柚子が不安げな表情で清香に尋ねてきた。
「あ、あの……変な話になってないよね? なんだか、2人とも余所余所しい、けど……」
「……ごめんね、柚子ちゃん」
「え?」
「私、振られちゃった」
「え……」
「柚子ちゃんは、くーちゃんの味方で、いてあげてね?」
「…………。そんな……。なんで? 別れる必要がどこにあるの?」
「ホント、どこにあるんだろうね……」
 柚子の言葉に、清香は自嘲気味に微笑んだ。
 人の感情だから、すべてを理屈でおさめようとしたって土台無理な話だ。
 彼女にとって、自分がアキレス腱だと言うのなら、別れる以外に、彼女を救う手立てなどない。
「わ、わたし、舞ちゃんと話してみるよ」
「いいよ」
「でも……」
「……くーちゃんの居場所になってあげて欲しい。それだけで、いいから。ね?」
「……だって、好き同士なのに、なんで……?」
「くーちゃんが面倒くさいこと考え出しちゃったから」
「……わたし、今回のことだけは、舞ちゃんの味方になれそうにないよ」
「ありがとう。思えば、私、付き合った人に振られてばっかりだなぁ……隠し事するから、罰が当たったのかもね」
「…………」
「次付き合う人とは、きちんと歩み寄れたらいいな。歩み寄る前にお別れは……もうたくさん……」
「清香ちゃん……」
「さ、そろそろ時間だし、行こうか」
 家に帰ったら存分に泣こう。
 今はどこにも泣く場所がないから、普通に、何事もなかったかのように、修学旅行を楽しもう。
 楽しみにしていた2人の自由行動はなくなったけれど、それでも、日程は今日も含めて、まだ2日残っている。



Chapter7 ← ◆ TOP ◆ → Chapter9


inserted by FC2 system