◆◆ 第11篇 秋暁・想いの霧に惑わぬよう ◆◆
Chapter NINOMIYA2.渡井 柚子
「柚子〜、どしたの? ぼぉっとして……。降りるよ」 次の目的地に着いたらしく、舞が柚子の肩を叩いた。 それでようやく我に返る柚子。 自分の記憶では、バスに乗ったことすらあやふやだった。 「……あ、あれ?」 「ほら、ちゃっちゃと降りないと、先生に怒られる」 「あ、う、うん」 「なぁんか、清水寺行ってから様子おかしくない? あたしの話聞いてた?」 「…………。何か、話してくれてた?」 「最近、柚子もニノもからかい甲斐なくてつまんない」 「え?」 「なんでもない。ほら、早く行くよ!」 舞は柚子の手を引っ張って立たせると、軽い足取りで進んでゆく。 初日だるそうにしていた人とは到底思えなかった。 『まぁた、ぽけっとしてる。ほら、柚子、待ってるから早くおいでよ』 ああ……彼女の声がする。 あの頃の彼女が、呼んでいる。 舞の笑顔が、はつみの笑顔と被って、そのまま、柚子はまた思い出の中へと埋もれてゆく。 突然、職員室に呼び出されて、それだけでも挙動不審だったのに、更に通されたのは、校長室だった。 応接用の椅子に、50代と見られる男性と、40代と見られる女性が腰掛けて待っており、柚子が入ると同時にゆっくりと立ち上がって微笑んだ。 校長先生がゆっくりと歩み寄ってきて、柚子に座るよう促す。 なので、促されるまま、柚子は椅子に腰掛けた。 慣れない部屋と知らない人の存在で、柚子の体は完全に萎縮してしまっていた。 校長先生が目の前に座っている2人の紹介をし、2人とも仰々しく名刺を差し出してきた。 柚子はそれを慣れない手つきで受け取って、カチンコチンに固まる。 説明も、名刺に書かれている団体名もよくわからなかったが、その2人が、美術関係で見込みのある人たちを支援する団体に所属しているということだけは理解できた。 『あの……』 柚子はとりあえず自分が呼び出された理由だけでも知りたくて、口を開きかける。 けれど、それを口にする前に、男性のほうが話し始めた。 『この前、都のコンクールに出展されていた作品を拝見しまして、これはと思い、足を運ばせていただきました』 『相手は義務教育中の中学生、ということで、こちらも判断に迷ったのですが、どうしても、有働が声だけでも掛けておきたいと申すものですから』 女性が補足するように付け足し、言葉を切った。 名刺をもう一度確認して、2人を見比べる。 男性から渡された名刺には”有働”、女性から渡された名刺には”白浜”と印字されていた。 『渡井さん、あなた、師事されている先生はいるんでしょうか?』 『……母が一応画家をしていますけど、誰かから教わったことは、特にありません』 『では、あの絵は独学で?』 『どく……? 描きたいように、描いただけですけど』 『そう、ですか……』 柚子の言葉に、有働は考え込むように目を細めた。 柚子は言わんとしていることが理解できず、小首を傾げた。 白浜がすぐに補足するように口を開く。 『渡井さん、有働はあれだけの技巧を、あなたがどこで身に付けたのかを聞いています。全く、まっさらな状態で、あなた自身の感じるままに描いたものが、あの作品、ということでよろしいですか?』 『難しいことを言われてもよくわからないです。わたしは、描きたいものしか描かないし、やりたいことしかやっていません』 『学生レベルのコンクールにだけ出展するのは勿体無い』 柚子の言葉に、有働が嘆くように漏らした。 『……?』 『渡井さん、先生にお願いすれば、もっと色々なコンクールのことを教えてもらえるでしょう。お母様が画家をされているなら、お母様に聞くのでも構わない。あなたの絵を出展する場を、もっと広く持ってください』 『……どういう、意味ですか?』 『あなたは、自分自身の絵が持っている可能性に気が付いていないようだ。ですから、まずは周囲の評価を知ることから始めて欲しい。今、そう感じました』 『有働さん』 『まだ、その話は早いと白浜さんも仰っていたでしょう。今日は、このくらいでいいと思います』 『…………。そう、ですね』 有働の言葉に納得する白浜。 校長先生もその様子を見守るだけで、特に何も言わなかった。 柚子だけが話についていけず、首を捻るばかり。 その様子が見て取れたのか、有働がまた口を開いた。 優しい笑みだったが、目だけは気持ち悪いくらいの光を放っているように感じた。 『渡井さん。あなたのその手には、大きな可能性が宿っています。それを大事にして欲しい。私は、今日、あなたにそれを伝えたくて来たのですよ』 才能なんて言葉は要らないから、ただ、好きな絵を描きたいだけ描かせて欲しい。 柚子の想いは昔からずっと一緒だ。 絵を描くのをやめたら、呼吸を止めるのと一緒。歩みを止めるのと一緒。 絵を描きたいという、心の底から湧き上がる渇望が、柚子をひたすら進ませ、歩かせている。 ただ、それだけのことなのに、それだけでは、生きていけないのだということも、……今ならば、まだ受け止められる。 でも、あの頃は、それも無理だった。 『ユズ、何の話だった?』 お昼休みが終わるギリギリのタイミングで教室に戻ると、はつみが心配そうな表情でそう聞いてきた。 きっと、自身の表情が冴えなかったからだろうと思う。 『ん……別に』 『ホント? それにしては、かなり長かったよ?』 『……先生の世間話に付き合ってたら、長引いちゃって』 『あー、そっかそっか。確かに、うちの担任、話長いもんねー。お疲れ様』 『……ねぇ、はつみちゃん』 『ん?』 『才能って、そんなに大事なものなのかな?』 柚子は椅子に腰を下ろし、俯いて、ため息と一緒に吐き出すように尋ねた。 だから、はつみの表情は、全然見えなかった。 はつみは数秒答えに困るように沈黙したが、おどけた声で答えた。 『ない人間にとったら、そりゃ大事だよ。欲しくて欲しくてたまらないものだもん』 『そう……なのかな』 『そんな言葉は存在しないって言い切れる人間は、もう持ってるから言えるんじゃない?』 ほんのりとした毒と冷たさの混じった声で、自嘲気味にはつみは言い、予鈴が鳴ったので、そのまま前を向いてしまった。 ざわざわと、心の中に風が吹く。 今、自分は、してはいけない問いを、決してしてはいけない相手にしてしまったのかもしれない。 そんなことに気が付いたけれど、取り繕い方も何も分からずに、何も出来ず、はつみの背中を見つめることしか出来なかった。 学年が上がって、はつみとのギクシャク感は更に度を増していった。 学校側も柚子の才能を大事にする形で進めていきたいらしく、次々とコンクールを紹介してくる。 描きたいものを描きたいように描くことが望みだった柚子にとって、学校側のその対応はとても苦痛で、徐々に絵を仕上げるペースが落ちていった。 描きたいと思うものを描きたい。 日々に疲れた柚子の心に、その欲求が湧き上がってくる。 そんな時、柚子がモチーフに選んだのは、六条はつみだった。 モチーフにして絵を描くよ。 たったそれだけ伝えておけば、もしかしたら、この後起こることは起こらなかったのかもしれないけれど、不器用な柚子は、それをすることが出来なかった。 気まずい空気感だけは感じ取れていたから、どう声を掛けていいか分からず、何も言えなかった。 何も努力をしなかったから、罰が当たったのだと、あの頃、自分はそう考えて、それで思考を停止したのだ。 疲れてしまうから。 自分の彩を見失ってしまうから。 ただ、自分自身を守ることで、精いっぱいだったから。 言い訳をどんなに並び立てても、傷つけた相手の心は元には戻らない。 自身にその気はなくても、傷つけてしまうこともあるのだということを、柚子はあの時初めて知ったのだ。 『あれ? これって、もしかして、はつみ?』 空気を読まない男・才仲崇は、神出鬼没で、本当に突然現れる。 柚子は驚いて手を止め、崇を見上げた。 まだ顔には彩を乗せていなかったが、全身の雰囲気でなんとなく分かったらしく、崇は目を細めてそれを見つめる。 『渡井さん、本当に、絵、上手だねぇ。はつみって感じのオーラがバッシバシ出てら。渡井さんははつみのこと、本当に好きなんだねぇ』 『……才仲くんもね』 『んぁ? 何? なんか言った? 聴こえないなぁ』 柚子が見透かすように言葉を返すと、崇はすっとぼけるようにそう言って、手近にあった椅子に腰掛けた。 『なんかさ、最近、2人が一緒にいるとこ見ないから色々心配してたんだけど、その絵見る限りだと、そんなことないんだよな?』 崇は気に掛けるように柚子を見てそう言い、小さくため息を吐いた。 『最近のはつみ見てっと心配になる。まるで何かに取り憑かれてるみたいでさぁ。好きなことやってんのに、なんで、楽しくなさそうなんだか』 『わたしもね』 『ん?』 『わたしも、最近、絵描くの楽しくないんだ。描かされる絵は、全然楽しくない』 『…………。そっか。はつみは、何に描かされてる気分でいんだろうな、ホント。あ、そうだ』 『 ? 』 『はつみ、日曜のコンクールで賞貰ったんだ。朝礼で話してたし、知ってるよな?』 『……うん』 『ちろっとでいいからさ、声掛けてやってくんない? アイツ、目に見える賞貰えたの、中学じゃ初めてなんだ』 『…………』 『渡井さんは、賞は水物だって言ってたけどさ……他人からの評価に一喜一憂するのが、人間なんだよ。はつみ言ってた。見て貰いたいから描くんだって。自分を出せるのも、見て貰えるのも、これしかないと思うから描き続けるんだって』 『はつみちゃんは……あんなに素敵な人なのに』 『……そうだな。でも、当の本人には、それは見えないんだと思うよ』 崇はそこまで言うと立ち上がり、軽く手を振って、美術室を出て行ってしまった。 それと入れ違う形で、はつみが美術室へ入ってくる。 柚子は特に気にも留めずに、絵を描き続けていた。 『それ、あたし?』 後ろから突然声がして、柚子は筆を止めて、はつみを見上げた。 『そう……だよ』 『……ユズには、こんな風に見えてるんだ』 はつみは考え込むように目を細め、小さくため息を吐く。 『ユズは被写体を見透かすように描くよね。それが物であれば、文句も言わないだろうけど……。人だと、特に、自分自身を被写体にされてしまうと、抉られたような気分になる。綺麗に切り取りすぎてて、気持ち悪いよ』 柚子ははじめ何を言われているのか理解が出来なかった。 悪意の塊をぶつけてきているにしては、それはとても淡々としていたからだ。 おそらく、悪意の塊ではなかったのだろう。 静かに、はつみは思ったことを言っただけだった。 勝手にモチーフにして、絵を描いたりしたから、急なことではつみも動揺していたのだと思う。 柚子がはつみの良いところだと思って描いていた”何か”が、はつみにとってはコンプレックスだったのかもしれない。 すれ違いというのは、本当にほんの少しのずれから始まる。 だから、当人同士もはじめは自覚しない。 完全な平行線になってしまってから、どこからずれていたのかに気が付くのだ。 沈黙を嫌って、柚子は口を開いた。 『遅れてしまったけど、朝礼の件……銀賞おめでとう』 『あたしの意見には興味ない?』 『え?』 『そうだよね。自分より下手な人の意見なんて聞いたって無駄だもんね』 『そんなつもり……』 絵を描くのに、他人の意見は必要ない。それは柚子が無意識に考えていたことだった。 だから、言われてしまったとしても、それをすぐに吸収できる人間でもない。 絵にしても同じだ。 自分が好きに描くものなのだから、他人からの評価に一喜一憂する人の気持ちが分からない。 当時の柚子の持っていた絵の世界は、完全に閉ざされていて、自己完結した世界だったのだ。 だから、はつみが描きたくて描いたものなのであれば、それは素晴らしいものだし、それを柚子がどうこう評価する必要もない。 ”はつみちゃんらしい絵だ”。 持てる感想なんてそれくらいだった。 『ユズって、自分の絵にしか興味ないんだよ。あたしの絵なんて、1回だって誉めてくれたことないもんね』 はつみの言葉に、確かにその通りなのかもしれないな、と感じてしまったから、否定の言葉を返せなかったのだと思う。 はつみは泣きそうな顔で、ぐっと下唇を噛んだ。 崇が先程言っていた、”まるで何かに取り憑かれてるみたい”という言葉が、思考を掠めた。 はつみの表情には覇気がなく、崇の言葉もあながち間違っていないような気がした。 『なんで、何も言わないの?』 『ごめん』 『何のごめん?』 はつみを不快にさせてしまった。 至らない自分でごめん。 そんな意味のごめんだったと思う。 けれど、柚子が言葉に困っているのを感じ取ったのか、はつみはそのまま美術室を出て行ってしまった。 柚子の自己完結した世界には、また、柚子しかいなくなった。 あの当時は痛かった。とても辛くて悲しくて、教室に登校出来ないほどに打ちひしがれた。 そんな柚子の様子を懸念して、人間関係で悩んで可能性を潰すくらいなら、早々に留学をしてはどうか、と有働が勧めに来たのが、中学3年のこと。 けれど、父が猛反対をして、柚子の留学の話は立ち消えになった。 あの時、父は言った。 『このまま逃げるように留学したら、柚子には本当に絵しか無くなってしまう。あなた方にとっては、1人の画家だろうが、僕にとっては、たった1人の、大事な娘なんです』 と。 あの当時は苦痛だったし、今でも思い返すと心が痛む。 でも、最近はこう思えるようになったのだ。 はつみの件があったから、今、柚子は修吾や舞と一緒にいられる。 柚子の自己完結した世界は破壊されて、綺麗な光が差し込む庭園になった。 自分1人では絵を描き続けることは出来ない。 それを自覚するきっかけになったのは、きっと、はつみとの不和からだったと思う。 少しずつだけれど、ようやく受け止められるようになった。 だから、伝えられるなら、はつみに伝えたい。 ”あなたのことも、あなたの描く絵も、大好きだった。”と。 |