◆◆ 第12篇 無言歌・歩くような速さで ◆◆
Chapter 1.二ノ宮 修吾
『なんでだよ?! 合格通知来たんだぞ。元々、音大しか行く気ないのなんて、今まで見てりゃわかったろ? なんで、このタイミングで、んなこと言うんだよ?!』 中学1年の冬。 合格通知が届いて喜んでいた母と兄に、帰宅してすぐに父が水を差した。 母が明るい声で報告をし、それに対して、父が静かに返したひと言が引き金だった。 『そんなもので、本当に食っていけると思ってるのか?』 おそらく、そんな感じのことを言ったと思う。 普通ならば、そういう話は、もっと早くにするものだろう。 それこそ、高校2年の冬とか、進路決めを進める段階で出るべき言葉だったと思う。 けれど、父は最悪のタイミングでそう言い、兄が食い下がるのを気にも留めず、了承もしてくれなかった。 兄は憎々しげに父を睨みつけ、就職は決めたものの、それから1年ほどは父と一切口を利かなかった。 あれから二ノ宮家には見えない亀裂が生じた。 それを不安に感じている修吾を気遣ってか、母だけは、変わらないままでいてくれたけれど、彼女がそのことを気に病んでいることも、手に取るように分かってしまうのだった。 1月。冬休み明け。 進路に関するプリントが配られて、クラスメイトの一部が悲鳴を上げた。 冬休み前にも「考えておくこと!」と口酸っぱく言われはしたのだが、言われたくらいで腰を据えて考えられることだったら、誰だって苦労はしない。 自分の将来のことなのに、何故考えられないのか。 と訊かれてしまうと、回答に困るけれど、先のことなんて漠然としすぎていて見えない人のほうが大半だろう。 修吾はプリント用紙を見つめて目を細める。 自分のなりたい職業を、第1志望から第3志望まで書けるように記載されている。 それになるために自分に必要な進路は何であるのか、という問いもあり、修吾はゴクリと息を呑んだ。 1年の時は、進学志望か就職志望か。文系志望か理系志望か。それだけを質問されただけだった。 1年の担任というのもあってか、進路指導にそれほど熱心な先生でもなかったからだろう。 しかし、今年のプリント用紙は少々違った。 欄外に、”※自分のやりたいことに繋がる進路を考えること。間違ってもやり直せるけど、考える努力は忘れてはいけません。”と書かれていた。 「志倉先生〜。これ、他のクラスで昨日配られたやつと違うけど」 「はい。僕が作りました」 「え?」 「進路希望用紙なんで、フォーマットなんて本当はないんです。みなさん、ちゃんと考えてきてくださいね」 志倉先生はいつも通り、穏やかな調子でそう言って微笑むと、次の話をするために、こちらに背を向けて、黒板に向かった。 修吾は真剣に進路希望用紙を見つめる。 進路希望か。どうしよう。 心の中、小さく呟いた。 「志倉ちゃん、意外とサドじゃね?」 勇兵がおかしそうに笑い、ピラピラと進路希望用紙を振った。 修吾はおにぎりを頬張りながら、勇兵の手にある進路希望用紙に目をやった。 口の中の物をゴクリと飲み込んでから、口を開く。 「……というより、1年の進路指導が甘すぎたんだと思う。人によっては、理系関係の職業なのに、こっち来てる人もいそう」 「ああ、いるかもしんないねぇ。俺、就職希望だったんだけど、親に言われて、ひとまず、1年時は進学で出したんだ。気が変わってもいいようにってさ」 「正解だったんじゃない?」 「ん? まぁ、ね」 「勇兵は、もう決まってるんでしょ?」 「行きたい大学?」 「うん」 「いくつかは見繕ってるけど、なりたい職業って難しくない?」 「…………。そうだね」 勇兵はじっと進路希望用紙を見つめて、うーんと唸る。 今、彼の目の前には、バレーボールのことしかない。その先のことなんて考えられないだろう。 「修ちゃんは、志望大学とかも1年の時から決まってそうだよね」 「…………。うん」 「やっぱり、国文学強いとこにすんの?」 「ううん」 「あれ? 違うの?」 「法学部」 「法学部……?」 「うち、父さんが法律事務所やってるから」 「へぇ……初耳! だから、いつも家にいないのか。忙しそうだもんね」 「……忙しいのもあると思うけど、事務所遠いんだ」 「え?」 「車で1時間半以上かかるところにあるから」 「なんで?」 「このへん、田舎で仕事来ないんだって」 本当は、母方の祖父に反発してなのだが、さすがにそんな家庭内事情を言える訳もない。 「あれ? でも、修ちゃん……」 「2人とも、もう書くこと決まってる?」 舞が後ろから突然会話に割り込んできた。 突然のことで、修吾はついビクッと肩を震わせる。 そのびびりようが面白かったのか、舞が噴き出して、からかうように言った。 「そんなびっくりした?」 修吾の肩くらいの高さに舞の顔があり、さすがに腹が立って、舞のあごを拳で小突いた。 「後ろから急に話しかけられれば、そりゃびびるだろ」 「ごめんごめん。進路の話してんのかなぁって思って来てみたのよ。ほら、柚子じゃ参考にならないし」 「ごめんねぇ……」 横からひょっこりと柚子も顔を出した。 「柚子が謝ることじゃないんだけどさ。この子、もう書いちゃったんだよ? まぁ、これから一応親御さんとも話すみたいだけど」 「うん。パパとはまだ、この件で和解出来てないから」 「留学?」 「……うん。パパ、嫌いなんだ……。その、わたしのこと支援してくれるって言ってくれてる団体のこと……」 「ふぅん……」 「……でも、わたし、やっぱり、これしかないって思うから、ぜったい負けない」 「さっすが! 渡井は強いねぇ」 柚子の言葉に、勇兵は感心したように頷いた。 修吾は柚子を見上げて、唇を噛んだ。 この人の気持ちの強さは、眩いくらいの光に満ち溢れているのと同時に、自分のような意志の弱い人間にはとても毒だと思うことがある。 それは、あの丘の上で彼女と話したあの時から、ずっと変わってはいなかった。 溢れるほどの好意と、立ちすくむような劣等感の間で、修吾の心はいつも揺れる。 「シャドーはどうすんの?」 「まぁだ考え中。でも、カウンセリングとか、スポーツ選手のサポートなんて面白そうだなぁって思ってる」 「へぇ。全然、そんな話なかったのに、いきなりなんで?」 「冬休み中調べたの。あたしだって、いつまでもフラフラしてる訳にもいかないでしょ? あんたら、全員、そういう面では悩みなさそうだし」 舞は当然のように修吾までカウントしてそう言った。 フラフラしているのは自分も同じなのだが、この場で言える雰囲気でもない。 なので、修吾はただ作り笑いをして俯いた。 「? 修吾くん、どうかし……」 「勇兵! 1年が呼んでる!」 「へ? あ、今行く!」 柚子が何か言いかけたが、教室の入り口付近にいた男子が勇兵を呼んだので、その声は掻き消えた。 勇兵がすぐに立ち上がり、こちらに片手だけかざした。 「わり。今日、昼休み、ミニミーティングやるって言ったの忘れてた」 「あ、うん。行ってらっしゃい」 修吾の声に、ニヘッと白い歯を見せて笑い、タタタタッと教室を出て行った。 「ご自分で言ったことくらい覚えててください。みなさん、カンカンですよ?」 「わりぃわりぃ」 「まったく……」 小柄でパッツン前髪の女子と、勇兵が並んで歩いていくのが見えて、チラッとそんな会話が聞こえてきた。 さすが運動部。2人とも、よく声が通る。 「最近、塚原くん、あの1年と一緒にいるの、よく見かけるなぁ」 「そうなの? マネージャーか何かじゃないの? 今だって、わざわざ呼びに来たし」 「ううん。女バレの子だよ。……はぁ。ついに、うちの学年、最後のアイドルも売却済みになるのかなぁ」 「最後のアイドルって……大袈裟だなぁ。塚原くんって、誰にでも優しいからよくわかんないよねぇ」 「あー。それはあるね。確かにある」 斜め前の席で机をくっつけて喋っていた女子たちが、こちらに聞こえるのも気にせずに、そんなことを話していた。 舞がおかしそうに笑う。 「ツカってアイドルだったのか」 「……まぁ、人気者だよね? アイドルとかいうよりは、人気者だと思うなぁ」 「恋愛感情で見られてるって自覚ないのが厄介なのよね。で、実際のところ、どうなの? ニノ」 「え?」 「何か聞いてない訳?」 「……別に、聞いてないけどなぁ。あの子が丹羽さんなの?」 「あれ? 面識ないんだっけ?」 「球技大会のバスケの試合で見た子だなぁって印象しかない」 「そっか。まぁ、ニノに何も言ってないなら、なんでもなさそうね」 時々、「日和子が〜」って話をしてくることに関しては、今は触れないほうがよさそうだ。 本人自体も無自覚なのかもしれない。 「あ、あたし、借りてた本返しに行かないと。お昼の邪魔してごめんね、ニノ」 「いや」 「柚子はもう少し話してく?」 「え? ううん。わたしも、部室に用があるから途中まで一緒に行く。……修吾くん、今日、帰り寄ってもいいかな?」 「廊下で待ってるよ?」 「うん」 舞が空気を察して、さっさと自分の席に本を取りに戻っていく。 柚子はそれを見送ってから、こちらに視線を戻した。 「……何か、用事?」 「え? ううん。ただ、話したいなぁって。駄目なら、また今度でも……」 「いいよ。ただ、最近、夕方は兄貴がピアノ弾きまくってるからうるさいかもしんないけど」 「そういうのは、全然気にしないよ」 「……わかった。じゃ、放課後、声掛けるね」 「うん!」 柚子はその言葉で満足したのか、満面の笑顔で頷くと、廊下で待っている舞の元へ軽い足取りで歩いていってしまった。 修吾は残っていたおにぎりを頬張り、手元にある進路希望用紙に視線を落とす。 志望大学は決まっている。 それは決定事項だし、父の意思だけでなく、自分で考えたことだ。 だから、そのことで揉めることはきっとない。 けれど、”なりたい職業”となると、話は別だ。 「シュウちゃん」 一人、ぼんやりと考え込んでいると、今度は清香に声を掛けられた。 最近は全く話していなかったから珍しい。 あちらが意識的に避けているように感じていたから、話し掛けられたこと自体、意外だった。 「どうしたの?」 「どうしたの……って。まぁ、最近避けてたからそう言われても仕方ないけど、刺さるなぁ……」 「あ、ごめん」 「ううん。悪いのはこっちだし」 清香は小さく首を横に振って笑うと、すぐに言葉を継いだ。話しながら、前の席に腰掛ける。 「くーちゃん、進路希望、大丈夫そう?」 「…………。それは、本人に訊いたら?」 清香の言葉に、修吾は失笑交じりでそう返した。 清香は困ったように目を細め、落ち着かなげに髪に触れる。 それが出来たら苦労はしないとでも言いたいのだろう。 一体、何の意地なのか。 「……訊いても、いいのかしら?」 「え?」 「関わっていいのかどうか」 「……さっちゃんは、何を気にしてるの?」 「距離が、分からないの」 ぼんやりした口調で清香は呟き、手首にはめていた細身の腕時計に触れた。 「これ、くーちゃんが誕生日プレゼントにくれたんだけど……。これは、友達として? それとも、特別な意味は残ってるのかな?」 「…………。僕の口からは、なんとも言えない」 「……だよね」 「カウンセリングとか、スポーツトレーナー系の職業に興味持ってるみたいだったけど?」 「え?」 「さっき、シャドーが言ってたよ」 「……カウンセリング……」 噛み締めるように、清香は声を発し、静かに目を細めた。 納得するように頷き、心なしか嬉しそうに口元を緩めたように見えた。 「来年度は、みんな、クラス分かれちゃいそうだね」 「え?」 「私は、家政科のある大学か、専門学校にするから、私立文系クラスになるかなって」 「そう、なんだ?」 「東京に親戚がいるから、たぶん、東京に行く」 「……そっか」 「教えてくれてありがとう」 「別に」 「……シュウちゃんは」 「ん?」 「なんでもない。……これは、私の役目じゃないよね」 清香の言っていることがよく分からず、修吾は首を傾げたが、それには構わず、彼女はゆっくり立ち上がり、何事もなかったように、自分の席へと戻っていった。 |