◆◆ 第12篇 無言歌・歩くような速さで ◆◆
Chapter 3.渡井 柚子
『柚子たちって、終わりなんてないようなカップルだよね。そこにいるのが当然って感じ』 『……え?』 冬休み中、舞の家で宿題の分からないところを教えてもらっていたら、突然舞がそんなことを言った。 柚子は手を止めて、舞に視線を向けた。 舞はクッキーをかじりながら、こちらを真っ直ぐに見つめていた。 『でもさ、留学の件は、ちゃんと話したほうがいいんじゃないの?』 『……でも、これは自分で、入学した時から決めていたことだし……』 『別にさ、許可取れって言ってる訳じゃないけど、何も言われずに、当然のように、留学の話がそのまま転がっちゃうと、ニノが可哀想な気がするんだよね』 『可哀想……?』 『疑うことを知らない柚子。そんなアンタも好きだけどさぁ……遠距離恋愛は大変って言うじゃない?』 『……そんな。まだ、2年の冬だし、1年以上先のことだよ?』 『先のことだけど、……いつかは話さなくちゃいけないことなんじゃないの? それとも、何も触れずに、当然のようにお別れして、それから先も、恋人関係が続いて、何年か先、帰国したら、すぐ結婚……みたいなヴィジョンでいるの?』 『け、結婚なんて……全然考えたことないよ。……今のまま。今のまま、修吾くんが隣にいてくれれば……』 『あたしも、ニノも』 『え……?』 『留学先には、あたしも、ニノもいないんだよ?』 『…………』 『柚子のこと、応援してる。いつでも、いちばんの味方でいるよ。でも、あたしも、ニノも、アンタについていってあげることは出来ないの。柚子だって、それは、分かってるよね?』 『わ、わかってるよ。わかってて、決めたんだもの』 『……ん。だったら、大切にしないと』 『え?』 『過ごせる時間を、大切にしないとね。そのためには、話すのは早いほうがいいんじゃないかなって、あたしは思うんだけど』 『…………』 『ニノ、なんだかんだ、やきもきしてると思うけどなぁ。あたしからしか、留学の話してない訳だし』 「ご、ごめんね。急に……」 修吾の家の近くまで来て、何度目かの同じ言葉を発した。 修吾はそれを聞いておかしそうに笑い、同じようにかぶりを振った。 付き合い始めてからは、彼の家に1人で行くことを、なんとなく敬遠していた。 意識しすぎと言われたらそこまでだけれど、やっぱり、友達の時とは意味が違う気がしてしまうから。 1番の理由は、舞に茶々を入れられるから、というものだったのだが、今日の反応を見て、要らぬ心配だったことを実感した。 さすがの彼女も、それが野暮だということは、重々分かっているらしい。 「でも、そういえば、久しぶりだね」 「え?」 「ユズさんが、僕の家に来るの」 「あ、う、うん。そう、だね」 「夏以来?」 「そうだね。夏祭りの相談の時、以来かな?」 「……そっか。もう、そんなに経ったんだね」 「いろいろ、ゴタゴタしたからね」 「……そだね」 当然のように繋いでいた手を、さりげなく離して、修吾が玄関のドアを開く。 ドアが開いた途端、弾けるようにピアノの音があふれ出してきた。 柚子はその音に驚いて、その場で足を止めた。 どこかでピアノの音がしているな、という感覚だけはあったのだが、まさか、ここまで激しい音の奔流にぶつかるとは思ってもいなかった。 音のひとつひとつが、ビリビリと柚子の肌に突き刺さっては、後ろへと抜けていく。そんな心地がした。 「あー、やっぱり、うるさい……。ただいま〜!」 修吾の声を聞き取ったらしく、キッチンから春花が顔を出した。 「修くん、おかえりなさい。あら、柚子ちゃん、久しぶりねぇ。文化祭以来?」 すぐに修吾の後ろに立っている柚子に気が付いて、春花は笑った。 柚子は深々と礼をし、修吾に続いて玄関へ入った。 「ご無沙汰してます」 「ごめんなさいねぇ、うるさくて……」 「あ、い、いえ! すごいですね。音の洪水みたい!」 「洪水……確かに、そうねぇ。二ノ宮ダム、決壊します。なんちゃって」 春花は嬉しそうに笑ってそう言うと、キッチンに顔を引っ込めた、が、すぐにまた顔を出した。 「2階寒いだろうから、暖まるまでリビングで話したらどう?」 「うん。今、ヒーター点けてくるから、ユズさんはリビングで待ってて」 「え、あ、うん……」 修吾は母の言葉に頷き、靴を脱ぐと、素早く2階へ上がっていってしまった。 取り残された柚子は、珍しく揃っていない修吾の靴を揃え直してから、ゆっくりローファーを脱いだ。 「柚子ちゃん、紅茶とココア、どっちがいいかしら?」 「え? あ、ココアがいいです。ありがとうございます」 「いいえ。修くんはホットミルクにしときましょうかね。どうせ、ミルク温めるし」 春花は上機嫌でそう言い、また顔を引っ込めた。 柚子は言われたとおり、リビングに入り、隅っこに正座をした。 さすがに、1人でリビングに通されては、どうすればいいのか分からない。 賢吾の弾くピアノの音は、淀みなく、天井や壁、窓に跳ねて家の中を飛び交っている。 昔はこれが普通だったのだろう。 ピアノの音が溢れる家。 その音で笑顔になる春花と、その賑やかさの中、黙々と話を書いている修吾の姿が想像できて、思わず、笑みがこぼれてしまった。 「ユズさん、ソファに座っててよかったのに。床は体が冷えちゃうよ」 「え、あ……人様のおうちのリビングは、どうも落ち着かなくて」 修吾がリビングに入ってきて、すぐにそう言った。 促されるままにソファに腰掛け直しながら、柚子は笑いながらそう返す。 その言葉に、修吾はクスリと笑うと、少しだけ距離を置いて、ソファに腰掛けた。 意識しているのが自分だけでないことにほっとする反面、気恥ずかしさが湧く。 ほんの少し空いた距離が、本当に微妙すぎて、春花が見たらどう思うのだろう。そんなことについ考えが行ってしまう。 修吾は学ランだけ部屋に置いてきたようで、Yシャツの上にカーディガンを羽織り、ボタンを留めた。 「修くん、ホットミルクでいい?」 「え? あ、うん」 湯気の立ち上るカップを3つ、お盆に載せて春花がリビングに入ってきた。 柚子の前にココアの入ったお客様用らしいカップが置かれる。 次に、淡いブルーのカップが修吾の前に置かれた。 2人の顔色をうかがうように、春花はチラチラと見比べた後、にっこりと笑った。 「お部屋上がるまで、お母さんも混ざっていい?」 「はい。どーぞ!」 柚子がすぐにそう返したので、修吾は何も言わずに、カップに手を伸ばした。 春花が満足そうにカップをローテーブルの上に置き、クッションに腰を下ろす。 「ここ最近、みんな忙しいの? 文化祭前に舞ちゃんが来て以来、誰も来ないから、おばさん、寂しかったのよ〜」 「あ……すみません。みんな、色々あって……」 「そうよねぇ。高校2年だものねぇ……月日って早いわ。ほんの少し前、賢くんが高校卒業したなぁってくらいの気持ちでいたのに」 「賢吾さん、ピアノ、お上手なんですね」 「ええ! 本当に上手なのよぉ。趣味でもなんでもいいから、また、聴けるようになって、本当に嬉しいわ♪」 にこにこ笑う春花。その表情につられるように、つい柚子も笑みを浮かべてしまった。 「そういえば、修くん、賢くんが、さっちゃんのこと、連れてこいって言ってたじゃない? ピアノ聴かせてあげる約束してるからって。さっちゃんも、忙しいのかしら? ああ見えて、賢くん、律儀だからねぇ。約束果たすまで、何度も言われると思うわよ?」 「あ、うん……。そのうち、連れてくるよ」 「お願いね」 修吾の返事に、春花が満足げに頷いた。そして、すぐに2人を見比べて続ける。 「今日は勉強会か何か?」 春花の言葉に、柚子は若干表情が強張った。 どうやら、修吾はまだ2人のことは話していないらしい。(とはいえ、自分も父にはまだ伝えていないので、おあいこではあるのだけれど) けれど、この様子では、春花はなんとなく感じ取っているように思う。 柚子はチラリと修吾の様子を横目でうかがった。 修吾はホットミルクをゴクリと飲み、若干ぎくしゃくした表情で笑った。 「勉強会、のようなもの」 「ふーん。何か、相談事とかかしらね。修くんで役に立つかしら?」 「あ、えっと……修吾くんじゃないと、意味がないんです」 「…………。そう。なら、いいのだけど。そろそろ、部屋も暖まったんじゃない?」 「あ、う、うん」 春花に促され、修吾はホットミルクを一気に飲み干し、立ち上がった。 「ゆ……渡井、行こ」 「あ、うん」 柚子はまだ飲み切っていないので、ココアの入ったカップを持って立ち上がる。 「あとで、また新しいの持っていくから、置いていっていいわよ?」 「え、でも……」 「冷めちゃったら美味しくないから」 「母さん、出来たら呼んで。取りに来るから」 「はぁい、分かりました」 柚子は渋々カップをテーブルに置き、ソファの脇に立てかけて置いた学生鞄とスケッチブックを手に取った。 約半年ぶりの修吾の部屋。 緊張しながらも、リビングよりは勝手が分かる分、少しだけ落ち着けた。 クッションに腰を下ろして、柚子は膝をさすりながら、おかしくなって噴き出して笑った。 不思議そうに修吾がこちらを見る。 「……まだ、言ってなかったんだね」 「ああ……。言う機会、特になかったし」 「まぁ、そうだよね」 「せっかくだし、言ったほうがよかったかな?」 「……ううん。もし、訊かれたら、で、いいんじゃないかな? なんか、こそばゆくて、来づらくなっちゃいそうだし」 「そっか。でも、母さんのことだから、勘付いている気が……」 「あはは……そうかも」 修吾の悩ましげな表情がおかしくて、柚子はまた笑った。 ヒーターの熱で程よく暖まった部屋は、白い息1つ浮かばなかった。 ピアノの音はまだ続いている。 音楽にそれほど詳しくない柚子には、これが何という曲なのか、さっぱりわからなかった。 「すごいね」 「え?」 「わたしが来てから、ずっと弾きっぱなし。来る前から弾いてたみたいだから、すっごい長い曲なんだろうね」 「……うん。ホント、ここ最近、仕事上がったらソッコー帰ってきて、夕飯の時間までずっと弾いてるんだ。2時間は確実、かな」 「そっか。あれ? でも、お仕事って、大体どこも終わるの、早くても17時くらいだよね?」 「ああ、今日は、半休取るって言ってたから、もしかしたら、お昼あたりから家にいたのかも」 「へぇ。そっか」 「悠さん来てから、兄貴の中で、何かが変わったみたい」 「……うん」 「あ、そういえば、ユズさん、用件は? 話したいだけとは言ってたけど、何かあるんだよね?」 修吾は思い出したように本題を切り出し、姿勢を少しばかり正した。 柚子は急に本題に話が移ったので、心の準備が出来ておらず、ドキリと心臓が跳ねた。 「……え、えっと、その……」 「うん」 「留学、のこと、全然、修吾くんに話さないままだったなぁって……」 「…………。ん。まぁ、シャドーからちらっとだけ聞いてはいたけど」 「自分の中では、もう決まりきってたことだったから、話さないといけないこととも思ってなくて……」 「うん……。それで、構わないんじゃない?」 「え?」 意外な言葉に、柚子は修吾に視線を向ける。 修吾は目を伏せた状態で、口を真一文字に引き結んでいた。 「ユズさんの夢は、絵描きになることで、そのためには、どうしても留学が必要なんでしょう? だったら、それは、僕に話さないといけないことではないと思う」 「…………」 「ユズさんが、決めたことなら、僕は応援する。そりゃ、僕より先にシャドーが知ってたのは寂しかったけどね」 「修吾くん……」 「留学ったって、まだまだ先の話じゃない? そんな、先の話よりも、今の時間を大切にしようよ」 「……うん。ありがとう」 なんだか、拍子抜けした。 舞の言葉どおり、もっと、先のことも見越して、真面目な話になることもあるのではないかと構えていたのに、彼は簡単に理解を示す言葉を返してくれた。 本当に、これでいいんだろうか。いや、揉めるようなことがあるよりは全然マシなのは確かだけれど、何か、合点が行かない。 「……修吾くん、進路の話してる時、少し様子がおかしかった気がするんだけど……大丈夫?」 「え? ……うん。志望大学は、決まってるし。今の成績なら、何も、言われないと思うし……大丈夫だよ」 「……わたしは絵描きで、修吾くんは、小説書きで……。それで、いつか、2人で、本を出す。覚えてる?」 「…………。うん」 「約束だよ?」 修吾の表情が、柚子の言葉に強張っていく。 柚子の顔を見れないように、修吾は俯き、苦しげに息を吐き出した。 「修吾くん……?」 心配になって、柚子は膝をすり、修吾の隣まで行き、肩に手を掛けた。 その手を修吾は握り締め、引き寄せる。 あまりの力の強さに、柚子は一瞬顔をしかめた。 「痛っ」 「あ、ご、ごめん……」 柚子の声に動揺したように、修吾はすぐに優しく柚子の手をさする。 「大丈夫。どうしたの? 何か、不安なことでもあるの?」 「…………。ううん。ユズさ……柚子」 「……はい?」 「僕に、……勇気をください」 耳元で、彼の泣きそうな声。 何かに怯えるように、彼はそう言って、柚子の体を抱き寄せた。 だから、彼の不安を取り去ろうと、柚子はただ彼の背中を優しく撫で続けた。 優しくて、繊細な人。 薄くて弱い、空気に溶けてしまいそうな彩を持った人。 それでも、忘れないで。 あなたには、自己主張の強い、綺麗な藍の彩が眠っている。 わたしが信じるその彩は、絶対に、あなたの中にあるから。 言葉にはしなくても、届くことを信じて、柚子はただ彼の体を抱き締めた。 |